第20話 名前呼び

 その言葉を聞いた途端、一輝は思わず食事の手を止めた。そして、


「……あの、立花さん、今なんと言いましたか?」


 一輝がそう質問をすると。


「だから、その……佐藤くんのことを一輝くんと呼んでもいいですかと、そう聞いたのです」


 綾香は恥ずかしそうに目線を下に向けながらも、それでもはっきりとした口調でそう言った。なので、


「えっと、一応どうしてそうしたいと思ったのか、理由を聞いてもいいですか?」


 一輝が綾香にそう質問をすると。


「理由ですか……そうですね、先程プリクラを撮り行った時、私たちの前に一組のカップルが入っていましたよね」


 綾香は唐突にそんなことを言ったので。


「ええ、そうでしたが、それがどうかしたのですか?」


 一輝がそう質問をすると。


「盗み聞きをするつもりはなかったのですが、そのカップルのお2人はお互いのことを名前で呼び合っていて、それを聞いた私は、そう呼び合える関係はとても素敵そうだと思ったのです。そして、私たちは付き合い始めてもう3週間程経ったので、そろそろお互いを名前で呼んでもいいタイミングなのではないのかと、私はそう思ったのです」


 綾香は一輝の質問に対してそんな答えを返した。そして、


「成程、理由は分かりました。そして、立花さんが言うことも一理あるのかもしれません。でも、立花さん」


「何ですか?」


 綾香がそう言うと。


「本当に僕のことを名前で呼んでも大丈夫なのですか?」


 一輝がそんなことを聞いてきたので。


「ええ、大丈夫だと思いますが……もしかして、佐藤くんは名前で呼ばれるのはあまり好きではないのですか?」


 綾香がそう質問をすると。


「いえ、別にそんなことは無いですよ、あまり仲のよくない人に急に名前で呼ばれるのは少し嫌ですが、颯太や立花さんみたいに仲のいい人になら、名前で呼ばれても何の問題もないですよ、ただ」


「ただ、何ですか?」


 綾香がそう聞くと。


「その、立花さんが僕のことを名前で呼ぶと、恥ずかしいからなのか物凄く顔が赤くなるので、無理をしているのなら辞めておいた方がいいのではないのかと、僕はそう思ったのですが」


 一輝はそう言った。しかし、


「……別に、赤くなってなんてません」


 綾香はプイッと、一輝から顔を逸らしてそう言った。しかし、


(ぐはっ!!)


 そんな彼女の可愛い反応を見て、一輝は心の中で思わずそう声を漏らした。しかし、


(もっと困っている立花さんの姿を見たい!!)


 一輝は心の中で強くそう思った。いつもは彼女が相手だと強く出ることが出来ず、いい様に扱われることが多い一輝だが、今なら普段とは違い、彼女に強く出られると思ったし。


 それになりより、顔を赤くして、それでも意地を張っている彼女の姿が可愛すぎので、そんな彼女の姿をもっと見てみたいと、一輝は強く思ったのだった。なので、


「そんなことはないですよ、立花さんは今、顔が赤くなっていますよ」


 一輝がそう言うと。


「なっていません!!」


 綾香は語尾を強くしてそう言ったので。


「なっていますよ」


「なっていません!!」


「なっていますって」


「なっていません!!」


 少しの間、一輝は顔を背けたまま赤くなっている綾香をニヤニヤした笑みを浮かべて見つめながら、そんなやり取りを続けた。すると、


「……もう、佐藤くん、私のことを虐めてそんなに楽しいですか?」


 綾香にしては珍しく、少し怒ったような表情を浮かべて一輝に向けてそう言った。なので、


「すみません、ただ、照れている立花さんがあまりにも可愛かったので、ついからかいたくなってしまいました」


 一輝は正直にそんな自分の気持ちを口にした。すると、


「……もう、佐藤くんに可愛いと言われるのは好きですが、私に意地悪をする佐藤くんはそんなに好きではありません!!」


 綾香はそう言って、再び一輝から顔を逸らしたので。


「すみません、少し調子に乗りました。許して下さい」


 一輝がそう言って謝ると。


「もう、仕方ないですね、私のことを可愛いと言ってくれたことに免じて特別に許してあげます」


 綾香はそう言って機嫌を直してくれた。なので、


「ありがとうございます、でも、立花さん、出来ればやっぱり今後も僕のことは苗字で呼びませんか?」


 一輝が改めてそう言うと。


「えっと、何故ですか?」


 綾香はそう質問をしてきたので。


「何故かと言うと、先程立花さんが僕を読んだ時に、咄嗟に佐藤くんとそう呼んだからです。もう苗字で呼ぶことが自然になっているので、無理に呼び方を変える必要もないと僕はそう思いますよ」


 一輝はそう言った。すると、


「……それでもやはり、私は佐藤くんのことを一輝くんと、そう名前で呼びたいです。確かに、慣れるまでには少し時間が掛るかもしれませんが、名前呼びの方がお互いもっと仲良くなれると、私はそう思うのです」


 綾香は再びそう言った。そして、


「……立花さん」


 こんな風に駄々をこねている綾香の姿を始めてみて、一輝が思わずそう呟くと。


「でも、この感覚は実際に経験しないと分かってもらえないのかもしれません、なので、佐藤くん……いえ、一輝くん」


「……何ですか?」


 そんな綾香の言葉を聞いて、少し嫌な予感を感じつつも、一輝がそう言うと。


「一輝くんは今から私のことを綾香と、そう名前で読んで下さい」


 綾香は真剣な表情で一輝に向けてそう言った。そして、そんな彼女の真剣なお願いを聞いた一輝は、


「すみません、立花さん、その提案に乗ることは出来ません!!」


 そう言って、その場で頭を下げて綾香に向けて謝った。すると、


「えっ!? その、どうしてですか」


 断られるとは全く想像していなかったのか、綾香は少し驚いた表情を浮かべてそう言った。なので、


「いえ、だって、立花さんが僕のことを名前で呼ぶのでさえとても恥ずかしそうなのに、僕みたいなただの陰キャな男子が女神のように素敵な立花さんのことを名前で呼んでしまったら、恥ずかしさのあまり気を失ってしまうかもしれません!!」


 一輝はそんなことを力強く言った。すると、


「……もう、大袈裟ですよ、私の名前を読んだくらいで気を失うはずないじゃないですか。それに」


「それに、何ですか?」


 一輝がそう質問をすると。


「一輝くんはただの陰キャなどではなく、私の大切な彼氏さんですよ。だから自信を持って、私のことを綾香とそう読んで下さい」


 綾香は笑顔を浮かべてそう言った。なので、


「……分かりました、立花さんがそこまで言ってくれるのなら、僕も勇気を出して立花さんことを名前で呼んでみます」


 一輝がついに彼女の押しに折れてそう言うと。


「ええ、お願いします、一輝くん」


 綾香はそう言った。なので、一輝は小さく一呼吸すると、彼女の目をしっかりと見て、


「あ、綾香さん……」


 一輝はそう言った。最初は少し躊躇ったモノの、一輝は何とか自分の暴走している心臓の鼓動を押さえつけてその言葉を絞り出すことが出来たのだった。しかし、


「……違いますよ、一輝くん、綾香さんではなく綾香とそう呼び捨てで読んで下さい」


「……え?」


 難問をクリアしたと思ったら、更に数ランク上の難題をいきなり眼の前に置かれて、一輝は思わずそう声を漏らした。そして、


「すみません、立花さん、さん付けなら何とかギリギリ僕の心臓が持ちますが、呼び捨てをするのはいくら何でもハードルが高すぎます。今はどうか、さん付けで許して下さい」


 再び頭を下げて、綾香に向けてそう言った。すると、


「もう、一輝くん、今朝、私と会った時には私がやりたいことがあればどんどん仕掛けていいと言っていたのに、あの言葉は嘘だったのですか?」


 綾香はそんなことを言った。なので、


「仕掛けて来てもいいと言ったのは本心ですし、今でもその気持ちは一切変わっていませんが、立花さんの要求を全て飲むとは僕は一言も言っていませんよ」


 一輝はそう言った。すると、


「むぅ、それは屁理屈ですよ」


 綾香は不満そうにそう言った。すると、


「でも、そうですよね。確かに佐藤くんにもされて嫌なことはあるでしょうし、私の提案を断る権利は当然あるべきだと思います。ただ、私はどうしても佐藤くんに、いえ、一輝くんには私のことを呼び捨てで呼んで欲しいのです。なので、佐藤くんには申し訳ないですが奥の手を使わせてもらいます」


 綾香はそんなことを言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る