ロストネイム、ビームランチャア

しぐれ

ビームランチャア、ビギンズ

 『 』は瞼を上げた。


 薄暗い部屋。天井を、パイプが這っている。呼吸の音と、鼓動の音と、それに合わせて一定のリズムを刻む電子音。

 病院にしては、少々不衛生的だ。であれば、研究施設か、何かだろうか。……であれば、『 』は研究対象、ということだろうか。

 頭が重い。喉がカラカラだ。思考が、全くまとまらない。そのくせ、体が微塵も動かないから、せめて自由に動かせる眼球で、周囲を見渡そうと努力する。

「誰か、誰かいないのか」

 意味を持った雑音が、耳に入る。『 』のほかに、この部屋には誰かがいるのだろうか。

 返答しようか、しまいか。迷うまでもない、少しでも、新たな刺激が欲しい。

 だから『 』は、ここにいる、と口にしようとする。

【業務連絡、業務連絡。検体・四三〇一、四三〇二が覚醒しました。第三降誕室担当は至急、覚醒プロトコルを行ってください。連絡終わり】

 その言葉は遮られた。機械音声と思しき音が天井のパイプに反響して、なかなか小気味いい。

 それからしばらく経って、金属の軋む音――扉が開く音。そしてコツコツと、足音。荒い息遣いは、比較的急いで来た証左だろうか。

「て、提言! カノエ、第三降誕室に到着。検体・四三〇一並びに四三〇二の覚醒を確認しました! 四三〇三については沈没を確認、処理槽移送班を要請します。以上」

【提言。要請を承知、覚醒検体への覚醒プロトコルを実施せよ。以上】

「提言! 内容を承知、以上」

 そして、カノエと口にしたモノの深い深い、息遣いを耳にした。

 間欠的な電子音。全身に、じわりと熱が行き渡るような感覚を覚えて。指先、足先に力が入って。

「ええと、プロトコルの二番は、確か……私の言葉の意味が分かるのであれば、上体を起こしてください」

 その言葉に従うように、自然と上体が起きる。視界が一気に開けた気分だ。興味深そうに、好奇心を剥き出しに、『 』は周囲を見渡す。

 『カノエ』の姿は、おおよそ背丈は一メートル三十センチ程度で、片耳が小さく欠けた、黒毛のイヌの頭をした、軍服と思しき服装の人間であった。

 加えて言えば、先程からひどい雑音を発しているのもまた、獣頭のヒトの姿であった。

 人間の胴体に、動物の頭が乗っかっている。――正常。認識を、アップデートする。

「検体が恐慌状態にあるようであればトランキライザの使用を、と。これでいいかな? ……よし、それじゃあプロトコルの三番。ええと――ようこそ、あなたがたを歓迎します。よろしければ、お名前をお聞かせ願えますか」

 お名前。個体を識別する名称。『 』の名前。『 』の、名前、は?

 ……思考を引っくり返しても、それらしいものが見つからない。始めからなかったのか、あるいはあったものが、消え失せてしまったのか。

「俺の名前か、名前だな。俺の名前はジョナサンだ。ジョナサン・ドーランド」

 隣の誰かは、名を名乗った。それを聞いた『カノエ』は、どこか残念そうにため息をつく。

「検体・四三〇一の残留情報を確認。確認した場合は、プロトコルの四の二番。……まあ、仕方ないよな」

 『カノエ』は装置へ歩み寄り、操作を行う。

「サークル甲の強制沈没を三十秒後に設定。それから、検体の頭部中央部に向けての、」

 そして彼は、腰部のホルスターから銃と思しき物体を取り出す。……思しき、ではないようだ。形状からして、拳銃で間違いない。

「確実な一撃。検体を確実に沈没させるため。……申し訳ないけれど、どうか安らかに」

「な、何をするんだ、や、やめ」


 銃声というものを、実際に耳にするのは初めてであった。きっと『 』は、平和な世界でこれまで生きてきたのだろう。

 目覚めてからずっと、『 』という存在が他人事のようで。自分自身と、重ならなくて。

 そして、先程まで雑音を発していたソレは、沈黙し。寝台が開いて、その下に溜まる液体に沈んでいった。

 ふと反対側を見れば、同様に寝台の下に沈むカラダが、若干見えた。




「提言! 検体・四三〇一が覚醒プロトコル四の二番により沈没。処理槽移送班を追加要請します。以上」

【提言。要請を承知。検体・四三〇二の覚醒プロトコルを続行せよ。以上】

「提言! 内容を承知、以上。……さて、それでそちらのあなたは、お名前は」

 正直に、分からない、と応える。

「……パラメータに変動なし。はあ、流石に三人全員失う羽目になるのは避けられたか――っと。お名前、覚えてなくてよかったですね、もし覚えていたら――」

 やはり殺したのか、と問いかける。

「そういうルールですし。覚えているといろいろ不都合というものが……まあ、その辺は追って説明します」

 そして彼は、ごそごそと胸元から何かを取り出す。小さな板のような機械。似たものに見覚えはあるが、名前は思い出せない。

「プロトコル五番。自分のお姿を、把握してください。ええと、こちらの端末で、カメラの向きを、と」

 差し出されたそれには、何かの動物の頭が映っている。

 ……これは、キツネか。銀毛だ。先程の言葉を聞くに、これが『 』の顔、という事だろうか。まじまじと見つめながら、顔をいろいろと弄ってみる。

 引っ張ったり、押し込んだり。その様子がおかしかったのか、『カノエ』は失笑し、ごめんなさいと口にした。

「しかし、あなたはかなり落ち着いてらっしゃるようですね。たまに居るのですよ、さっきの方みたいに取り乱したり、暴れたり、大声を出したりする人」

 『 』が端末を返すと、あともう少しですよ、と彼ははにかんだ。

「まあ、あとはほぼ機械がやってしまうので、手前の仕事はほぼないのですがね。完了まで、何か質問があればお答えしますよ。現在公開可能な情報の範囲ならば、ですが」

 それではまず、ここはどこなのか、と尋ねることにする。

「どこにあるのか、は現在制限されていますので、この施設が何なのか、お伝えしましょう。ここは《カスタエル国》の有する、《アルママータ宙軍技術局》です」

 カスタエル、アルママータ。いずれも耳にしたことがない地名であった。それよりも耳を引いたのは、宙軍という言葉である。

 すなわちここは宇宙にあるのでは、と推測した『 』は、その質問を彼に投げかける。

「はい、その通りです。宇宙空間に、この施設は存在しているのです。制限されているのはどの宙域に存在するか、についてですね」

 軍部の施設、ということはすなわち『 』は、さしずめ実験台にでもされた、ということだろうか。

「まあ概ね、その通りですね。巻き込んでしまったことは本当に申し訳ないと思っておりますけれど。手前どもの軍が、国が。これ以上の損失を被るのを避けるためには、どうしてもせざるを得なかったのですから」

 この実験の内容についてはまた追って説明があるかと、と告げて、他に質問はないかと彼は尋ねた。

 ……改めて、目の前の『カノエ』という存在について、確かめることとする。

「えっどうして手前の名前を――通信で言っていた? ああ、確かに言っていましたね……では改めまして。手前はカノエと申します。躯体タイプはオス型、稼働期間は五年、好物は略式レーション六号。あと、特技は寝坊です」

 稼働期間、と言ったあたり、何やら込み入った事情がありそうに思えたが、『 』と同じようなもの、なのだろうか。

「まあ、その辺の話は先程も申し上げた通り、現在公開不可の情報ですので。……別に大して仲もいいわけじゃない相手にそう簡単に話したくない、というわけでは、ありませんから」

 ……あと訊くべきことは、何があるだろうか。先程口にしていた《覚醒プロトコル》について、はどうだろう。

「ああ、あれですね。実験の説明と密に関わっているので、あとで分かることが多いかもしれませんけれど。要するに健常な個体を選別して、個体の健康状態、適性等をチェックする作業です」

 健常でなければ、“適切な処置”を下す、と。

「ええ、はい。残留情報が付随している躯体の稼働は、非常に望ましくない状態なので。残留情報の分かりやすいサインとしては、個体の名称を記憶している、ことでしょうか」

 それからカノエは一つ『 』に提案する。

「あなたの親しい人の名前、覚えのある場所の地名、商品名。何でも構いませんから、名前を試しに挙げてみてください」

 脳裏に浮かぶのは、いつか、どこかで会った人たちの笑顔。そして様々な光景。色とりどりのお菓子。『 』という存在が、善良であることの証明。

 けれども、そのどれもが輝かしき思い出であったはずだというのに。名前が、出てこない。花の名前の一つも、歌の名前の一つも。

 ――不意に、一つの名称が浮かんだので、それを口にする。『カノエ』と。

「えっ、えっ? 手前、親しいのですか? ああいえ、まあ嬉しいですが、多分あなたの知っている名前がそれぐらいしかなかったから、でしょうね。……ですよね?」

 所謂一般名詞については、問題なくすらすらと出て来る。残留情報、というものに、あらゆる個体の名称が、紐づけられている、ということだろうか。

「恐らくは、そうですね。この分野の研究においては、その仮説が立証されないまま十年は経っている、とのことですが」

 『 』が自分である、という確証が得られない理由が、何となく理解出来た気がする。『 』を『 』たらしめていたのは『 』自身でなく、周囲の様々な環境であったから、だろう。

「以前、あなたのような考えをお持ちの方にお会いしたことがあります。といっても、手前の上官なのですが。きっと、いい話ができるかと」


 と、寝台脇の機械が、電子音を鳴らす。慌ててカノエは装置を操作し、一通り終えたのか、こちらに向き直る。

「先程の操作で覚醒プロトコルはすべて完了となりました。さて、そういうわけで、そちらのブースでこちらの服に着替えてください! 手前は、管理局に通信するので、通信が終わるまでに早急に、ですよ」

 差し出された服の色を見るに、彼と同じ軍服だろう。つまり『 』は、従軍することになるのだろうか。

 カノエが大声で提言、と口にし始めたので、たちまち部屋の一角のブースに駆け込みカーテンを閉める。

 シャツを羽織り、ズボンに足を通し――引っ掛かりを覚えて、初めて尻尾の存在に気付く。尻尾が邪魔なのだが、とカノエに声を掛けると、ズボンの後ろに穴があるからそこに通してください、と返された。

 果たして彼の言う通りズボンの後ろの穴に尻尾を通して、ジッパーを締めると、衣服は丈も含めてしっかりと体にフィットした。どういう素材でできているのだろう。

 そしてジャケットに袖を通し、ガンベルトを巻き締め、帽子を被り終えた頃、カノエは通信を終えたのか、カーテン越しに尋ねる。

 『 』がカーテンを開くと、カノエは笑顔をこぼした。

「お似合いですね。全身に異常は見られませんでしたので、平常通り歩行は可能かと思われますが。どうでしょうか? 問題は?」

 靴のつま先で、トントンと床を叩く。尻尾があるせいか、気持ち重心が後ろ寄りであるものの、歩行において大した支障はない。

「なさそうですね。それでは、手前に着いてきてください。ここ、割と入り組んでいて迷いやすいので」




 部屋を出て、『 』はカノエの背中をひたすら追う。そして開かれた扉を、カノエに続いてくぐる。エレベーター、だろうか。

「管理局の発行コード四桁を入力して、と。……ふう、もうしばらくですよ」

 『 』は意を決して、敢えてしてこなかった質問を、振ることにする。

 『 』はこれから、どうなるのか。

「すぐ分かる、なんて言ったところで、どうにもなりませんよね。これから手前ども宙軍の所属になる、ということは理解されているかと存じます。……納得は、されていますか」

 常人であれば、するわけがない。突然目を覚ましたと思えば、機械に繋がれていて。問題があれば殺されて、問題が無ければそのまま有無も言わせず従軍させられる。

 勿論、『 』は自身を常人である、と認識している。

「まあ、そうですよね。何か文句があるようなら、今のうちに手前にぶつけておいてください。だから、くれぐれも下手な行動は取らないように。……折角巡り合えた同胞を、目の前で失いたくは、ないので」

 そんなことを言われたら、何もできないに決まっている。全くずるい人だと、『 』は息をついた。

「とはいえ、いきなり戦場に放り込む、みたいなことはありません。待遇も悪くはないと、手前は自信をもって言えます。今後行われる訓練についても、適性に合わせた適切なメニューとなっておりますので」

 詳しい話はいずれ、とカノエが話を切り上げたところで、がくんと部屋が揺れる。到着したのか、と問いかけようとしたものの、カノエも不思議そうな顔をしていた。

「変だな……提言! 甲‐乙‐丙ブロック連絡管内にて、ケージの乙ブロックにおける急停止を確認しました。簡易スキャンの実施を要請します。以上」

 ……彼の手にする通信機からは、声が返ってこない。それから間を開けず、ブザーが響いた。『 』は音の出る方を、カノエは手元の端末を確認する。

【緊急連絡、緊急連絡。乙ブロック第弐格納庫外壁が破損、アジーン級骸体の侵入を確認。個体数は三、破損箇所は自動修復完了のため、侵入個体の排除を要請する。直近の人員を検索――カノエ一等軍曹、個体の排除を要請する。同伴の人員含め、《エスツェット》の使用を許可する。連絡終わり】

「えっ、ちょっ、手前が? 提言、提言! ああ、ダメだ、回線がビジー状態になった」

 一体何が起きたのか、と問いかける。

「骸体の侵入――噛み砕いて言うと、敵襲です。加えて誰が撃退に向かうか、という話については、聞いての通り手前ですね」

 そこまでで言葉を区切り、問題は、と口にする。

「あなたの処遇です。別にあなたを信頼していないわけではありませんが、ここに一人で置いていく、というのも不安ですし」

 他の人員は頼れないのか、とさらに問うと、それも難しいですね、とぼやく。どうやら通信網がダウンしたのか、受け付けない状態らしい。

 それならば着いていこう、と応える。すると彼は、危険だと返した。

「今回侵入した敵個体はそれほど強いものではありません。ですが襲われれば当然傷を負いますし、場合によっては死んでしまってもおかしくありません。……こう言っては何ですが、実戦経験のない今のあなたは、足手まとい以外の何物でもありませんから」

 全くもって正論である。だからどう応えるのがベストか、と逡巡して……逃げ足の速さには自信がある、と応えた。

「――全く。なるべく、庇うように立ち回りますから。重々、気を付けてくださいね」

 もちろんだ、と『 』は頷く。



 部屋を出ると、重々しい駆動音が響く通路に出た。ここが乙ブロック、だろうか。

「センターからのデータによれば、この先を三時の方向に行けば、骸体が見つかるはずです――下がって」

 『 』はカノエの制止に従い、立ち止まる。息を、潜める。……曲がり角の先に、何かがいる。気配を感じた。

 ぼんやりとしたイメージではあるけれど、球状の、浮遊する何かが、二つ。

「分かりますか? やはりあなたは優秀なようですね。では、ひとまずそこの陰に身を隠してください。今からこちらに呼び寄せて、その瞬間を仕留めます」

 彼は再び、ホルスターから拳銃を取り出す。そして『 』が身を潜めたことを確認すると、頷く。

 カノエは壁を靴底で、蹴りつけた。その瞬間、曲がり角より『そいつら』は飛び出した。球状の、浮遊する、何か。なんと形容すればいいのだろうか。今の『 』には、それを《何か》と呼称する外にない。

「アジーン級骸体の動きは非常に単純で、直線的です。ですので、軌道を読めば、この通り」

 耳をつんざき、空を裂く、一条の閃光。その道行は、果たして一体の骸体を飲み込んで、後には何も残らなかった。

「この音、かなり特徴的でしょう? 奴らに通常の銃火器は効きませんからね。この銃、《エスツェット》は精神情報を光線として撃ちだす特殊な銃です」

 どういう意味か、と問いかけると同時に、カノエはもう一体の軌道を読み、トリガーを引いた。

 二条目の閃光も過たずもう一体の骸体に命中し、その大半を削り取っていく。そして残った部分についても、間もなく霧散していった。

「端的に言えば、たくさんのことを知って、たくさんのモノに触れて。そうして精神を成熟させることで、より強力な銃撃を行うことができる。そんな銃ですね」

 そこまで口にすると、カノエは振り返る。

「さて、どうでしょうか。この基地所属の人員の任務の一つに、こういった外部からの侵入者の排除が挙げられます。とはいえ、ここ一年は大規模な骸体の侵略は発生しておりませんので、そこまで重要視する必要は――」

 再度、濃密な気配を感じ、気配を探知する。球状の浮遊するもの。……だが、どこかおかしい。

「もう一体、近付いてきているようですね。これが最後ですので、サクッと片付けて報告しましょう」

 違和感を覚えた旨を伝えるも、そこまで慎重にならずとも大丈夫です、とカノエは取り合わなかった。気のせいであれば、よいのだが。

 そして彼は二度、三度と壁を蹴りつけて、敵個体をこちらに誘導する。

「よし、出てきましたね。それでは、」

 銃を構えるカノエの目が見開かれる。……現れたのは、先程の個体と比べて五倍程度の図体で、明らかに異質であることが見て取れた。

「なっ――特異個体? そんなの報告に上がって……」

 少々戸惑った様子を見せるものの、カノエは銃を構えなおす。それから特異個体の方に向けて、トリガーを引く。

先程と同様に、閃光は、骸体を、

「――――!」

 ――貫かなかった。一瞬早く相手が動いた。その巨大な躯体に見合わず、俊敏に奴は動き、カノエを翻弄する。

 直線的な動きが特徴、と評された骸体であるが、特異個体というのはどうやら勝手が違うらしい。確かにその動きは直線的であるものの、不規則に曲がり、その軌道を読むのは中々に難しい。

 そして、不意にその動きを止めたかと思うと、中心部の光が強まり――光線を放った。そしてその光線は、カノエの持つ銃を弾く。痛みに呻くと共に、彼は体勢を崩した。

「しまった――」

 『 』は二度目の光線が発射される予兆を感じる。

 このままでは、カノエはおろか、『 』の身すら危うくなるだろう。

逡巡は、一瞬だった。『 』はホルスターから拳銃を取り出し、陰から身を乗り出す。

「な、何をして――隠れて、早く!」

 使い方など、当然知るはずもない。いつか読んだだろう、名前すら分からない漫画を真似するように。

 安全装置を外して。銃口を向けて。引鉄を、……引く。



 確かに、銃口から閃光が迸った。けれどもそれは、あまりにも、か細くて。目の前の敵に届く前に、消えてしまった。

 『 』は唖然として。そして、こちらの存在を認識した奴は、その光線の行方を、こちらに指し示して。

「ダメだ!」

 咄嗟に、カノエが『 』の方へと飛び掛かって、お互い、床に倒れ込んだ。光線は『 』の体の上を掠めていき。


 カノエの脇腹を、抉り取っていった。




「あ、ああ――無事、ですね。うん、あなたが無事で……よかったです」

 ちょうど『 』たちは、物陰に隠れる形となったためか、特異個体は暫くこちらを見失っているようであった。

「提言、ていげ――ううっ、あぁ……あ、ダメ、か――助けは、呼べない、か」

 そしてカノエは通信機を置くと、こちらを見つめて、笑いかける。

「逃げ足、速いのでしょう? 手前が、囮になるから、その隙に、逃げてください」

 そして、首にかけていたタグを、そっと『 』に押し付ける。手を強引に開き、握り込ませた。

「手前の名前は、カノエ――正確には、『カニス=ノナス=エンプティ』。どうか逃げ切って。そして、手前のことを――手前が、いたことを――どうか、遺してください」


 いやだ。……自然と漏れ出た言葉は、彼の顔を、歪ませる。

「――上官の、命令に、従え。何もできない、お前は――今は、逃げて、生き残ること、だけにっ――専念しろ」

 いやだ。……再度漏れ出た言葉と共に、頬を伝う、何か。

 カノエは、歯を食いしばって、拳を振り上げて。……それでも、振り下ろすことも叶わず、咳き込んだ。

 どうして『 』は、まだ出会って間もない彼のために、涙が流せるのか。どうして『 』は、何もできないのか。

 自分の無力が悲しくて、悔しくて。――そっと、彼の頬に、手を触れた。



 その瞬間。『 』の中に流れ込んでくる、大量の情報。

 意味の分からない、理解の及ばない、名前の羅列。

 そんな文字の大海に投げ出された『 』の意識は、その中に、知っている、理解のできるものを、見出した。

『カニス=ノナス=エンプティ』

 そう、カノエの名前。『 』は、それに、手を伸ばして。


 そして『手前』はそれを、掴んだ。



 敵の視線が、こちらへ向いた。間違いなく気付かれた。

 だが、同時に湧き起こったそれは、一つの確信。今ならきっと、奴を撃てる。

 『手前』はまた、銃を握りしめる。その手が、震えて、照準が、安定しない。

「――撃つからには、倒せるということで、いいな」

 『手前』は、力強く頷く。するとカノエは、肩越しに手を添えた。……手の震えが、だいぶマシになった。

「不思議だ――見える、奴の動きが。タイミングは――任せてくれ」

 特異個体は、先程よりも勢いを増して動き回る。けれども、カノエも『手前』も、一切動じることなく。

「――――、今だ!」

 彼の声と全く同時に、『手前』は引鉄を力いっぱい引いた。

 轟音と閃光は、まっすぐ敵に喰らいついて、抉って、貫いて、引きちぎって。


 ……そして、『 』たちは、暗闇に、沈んでいく。




 目を覚ますと、見覚えのある誰かが、こちらを覗き込んでいた。

「あっ、目を覚まされたようですね。大丈夫ですか。お名前、分かりますか」

 名前は分からないが、検体・四三〇二である旨を伝えると、無事なようですね、と彼は微笑んだ。

 いわゆる、患者衣、だろうか。それを着たカノエは、大怪我が嘘のように、ピンピンしていた。それくらい、『 』は気を失っていたのだろう。

 『 』は、重たい上体を起こして。……彼を、抱き留める。

「わっ――ああ、全く」

 手前もまだ怪我人ですから、とこぼしながらも、彼はそっと『 』の頭を、撫でる。

「それはともかく、です。はい、放す。あなたに言っておかなければならないことが、ありますから」

 名残惜しいが、彼をそっと放す。

「結果的に手前どもは生き残ることが出来ましたが、偶然としか言いようがありません。論理的に考えて、手前の指示に従ってあなたが逃げた方が、あなた一人の生存確率は高かったと言いきれるでしょう」

 もっともその場合は、カノエは確実に命を落としていただろう。『 』はそれが嫌だったから、拒んだ。

「手前だからよかったものを、もし他の方だったら、間違いなくぶっ飛ばされていましたよ。いいですか、今後は上官の命令には、逆らわないように」

 そもそもまだ入隊していないから、カノエは上官ではない、と伝えてみる。すると一瞬ばつが悪そうな顔をして、すぐに怒り気味の表情になり、……結局ため息をついて、『 』の額にびしっと、指を打ち込んだ。

「それは詭弁というものです、全く。……まあそれはさておくとして。助けていただいたのは、間違いありませんからね。ありがとうございます。あなたは正直、どうやって助けたのかなんて、ほとんど記憶にないのでしょうけれど」

 曖昧だが、記憶にあることを伝える。最初の銃撃が不発であったことと、カノエに触れたことで、不思議と銃撃が彼のそれと、遜色ないものとなったこと。

「最初の銃撃が不発なのは、あなたの精神情報がカケラ程度しかなかったため。では、特異個体を貫いたあの二発目は……きっとあなたの魂が。あのような『奇蹟』を引き起こしたのだと。手前はそう考えます」

 もっとも手前がそう思っているだけなのですが、と照れ臭そうにカノエは笑った。けれど、『 』の考えは違った。

「え? 手前のおかげ? ……そうですか。まあその、名前も伝えましたからね。知っていますか? 我々の所属する国において、フルネームを伝えることは、その――」

 口ごもる彼に、『 』は聞き返す。

「……だから、プロポーズだ。とはいえ、まだ手前は納得していない。そういうわけで……まずは友人からだ。……あと、このことは内密に!」

 『 』は、ゆっくりと頷く。彼と一緒であれば、きっとこれからもうまくやっていける。そんな根拠のない自身があった。

「オホン。さて、早くお互い体を治しましょう。上官が言うにはどうやら、手前があなたの指導係に任命されたようですから。……手前の指導は、厳しいですよ?」

 『 』はただ、楽しみにしていると伝える。そして彼は『 』に微笑みかけた。



 後に『 』が軍のエースとして活躍し、様々な人々のフラグを立てまくった結果、『 』を巡る大騒動になるのは、また別の話。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ロストネイム、ビームランチャア しぐれ @shigure_vwv

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ