シエラレオネっぽい光の中で
1103教室最後尾左端
シエラレオネっぽい光の中で
雑誌を抱えた男がレジの前を通りすぎる。レジ袋代をケチったらしい。裸のままの雑誌を覆い隠すように身をかがめ、足早に店を出て行った。あまりにも足早だったため、斉藤の小声の「ありがとうございました」は男に追いつけず、透明な自動ドアのあたりで空中分解した。
「今の人、絶対エロ本買ってましたよね」
遠藤は平坦な声でそう言った。かわいらしい女子大生の口から飛び出したにしてはあまりに平然とした響きの「エロ本」だった。斉藤はドキリとし、とっさに周囲を見渡したが、幸いにもというか当然というか、コンビニの中は店員の二人以外誰もいなかった。
実際、男が先ほどまで操作していたセルフレジからは、意味深な「書籍」の文字が印字されたレシートが排出されていた。つながって出てくるクーポンがどこが寒々しい。
「やっぱりセルフレジのほうがエロ本って買いやすいんですかね」
「……そうかもしれませんね」
「そういえば、なんでエロ本は18禁なのに年齢確認されないんですかね」
恐らく、酒や煙草のように直接未成年の肉体を蝕むものではないからであろう。しかし、若いころに歪んだ性癖は、将来の肝臓や肺への疾患と同等に人生を困難にすることも事実である。ここは潔く「武士の情け」だと説明するほうがたやすい。
「……本当にそれ、知りたいんですか」
「いえ全然。話題なかったんで」
遠藤の言う通り、この二人の間にはほとんど会話がなかった。今日にいたっては出勤時の「おつかれさまです」を除けば、このエロ本のくだりが初の会話らしい会話である。それも数回のラリーですぐに途切れ、すでに店内は合宿免許と暑苦しい大学の宣伝の放送に占拠された。
あらかじめ断っておくが、二人の間柄は険悪なわけではないし、どちらかが積極的にコミュニケーションを遮断しているわけでもない。むしろどちらも会話を始めるきっかけをずっと探していた。ただ、単純に何を喋っていいのかお互いに分からないだけだった。
斉藤という男は、「冴えない男」を絵に描いたような人物であった。猫背で細い身体にボサっとした髪という、いかにも覇気のない風貌。小中高大と自分と同じく非活動な男たちと行動を共にすることが多かった。コミュニケーション能力のなさから就職活動に失敗し、押し出されるように大学を卒業。その後夢も目標もなく、何となくフリーターを続けている現状も、斉藤の「冴えない男」という地位を確固たるものとしていた。
ただ、斉藤は冴えないだけであり、馬鹿でも悪人でもなかった。会話が苦手なのも、場の空気を読みすぎたり、使う言葉に気をつかったりするあまり、会話のレスポンスの速さについていけなくなっているだけであり、じっくり考えさせればそれなりの思慮深さを持っていた。
一方の遠藤は、容姿端麗な女子大生である。艶やかな黒髪をショートボブに切りそろえ、前髪からのぞく瞳はきりりと勇ましい。それとは対照的に顔の輪郭はやや下膨れており、クールさと愛嬌が絶妙なバランスで共存する、綺麗な顔立ちをしていた。幼少のころからその美貌にお近づきになろうと息巻く男どもがわんさかいたためか、交友関係は広く、彼女自身には人付き合いへの苦手意識はない。時と場合によってはやや下品な話題でも対応可能である。
しかし彼女の経験値は、男どもを懐柔したり、あしらったりするための、いわば受け身中心のコミュニケーションの中で培われたものであり、平場で自発的に雑談を交わす経験については、ほとんど斉藤と同レベルのビギナーだった。本人にその自覚があるかは微妙なラインである。
店内の気まずい沈黙は時間を経るごとにその重さを増していった。二人だけのシフトは後二時間ほど続く予定である。二人の間には、沈黙をどうにかしなければという緩やかな危機感と、「まあ、どうでもいいか」というぬるい諦めが、大体同じ濃度で混ざり合っていた。
「……あ、日付変わった」
遠藤の吐息と聞き違える程に小さなつぶやきが重い空気をを少しだけ揺らした。斉藤はつられるように時計を見た。確かに店内のデジタル時計は「0:00」を表示している。
「今日、私、誕生日なんです」
遠藤がまたつぶやく。その声は先ほどよりも粒だっていて、明らかに誰かに聞かれることを前提とする響きがあった。この場で聞き手足りうるのはもちろん一人しかいない。つぶやきのまとう空気感を察し、斉藤も急いで口を開いた。
「おお、それはそれは……」
が、彼の口からでてきたのは返事と言うにはあまりに内容のない、相槌というよりも咳払いに近い音であった。
「……斉藤さんって、変な人ですね」
「え、あ、そうですか」
「はい。普通今日が誕生日って聞いたら『おめでとう』とか、『いくつになったの』とか聞くじゃないですか」
「はあ、確かに」
遠藤の口調には驚きと呆れが入り混じっていた。
遠藤からしてみればこんなに分かりやすい会話のパスはなかった。彼女が人生で出会ってきた人は、誰もが彼女の誕生日を知りたがっていたし、知れば大げさに騒ぎ立て、頼んでもいないのにメッセージやらパーティーやらプレゼントやらで祝おうとしてきた。時には高価な贈り物という善意の押し売りの後に交換条件的な交際の申し込みを図る男もいた。
この手のありがたくも鬱陶しい扱いは美人として生まれた者の宿命ともいえる。この環境の中で育った遠藤は、自分の誕生日をおいそれと教えないように意識していた。
そんな遠藤が自ら誕生日を開示した。これは二人の間の気まずい沈黙を打破するための彼女なりの譲歩であった。にもかかわらず、全く会話が広がらなかったのだから、少々ムッとするのも仕方が無いことのように思われた。
ただ、斉藤にも一応言い分はあった。「誰もが誕生日を楽しみにしているわけではないかもしれない」「女性に歳を聞くのは失礼にあたるかもしれない」「そもそもまた一つ自分が死に近づいたことを嫌でも思い知らされる日がめでたいのだろうか」などと余計なことを考えた結果、何も言えなくなってしまったのであった。
「ええと、じゃあ、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「おいくつになったんですか」
「二十歳です」
「おお、それはそれは……」
「……もういいです」
遠藤は興味なさそうに自分の爪を眺めた。この男と会話を交わす努力をするより、次にネイルサロンに行く日取りを固める方が有意義であると判断したようだった。
人一倍人に気をつかって生きている斉藤にとって、誰かの呆れや諦めの態度は最も苦手なもののひとつである。斉藤はこの状況をどうにかしようと焦って口を開いた。
「せっかくの誕生日なのに、こんなところでバイトしてていいんですか」
「……」
「ああ、気に障ったらごめんなさい。全然、無視してくれていいですから……」
すぐに自分の発言を引っ込める斉藤の態度に、遠藤は少し苛立った。が、このまま黙っているのも感じが悪いかと思い直し渋々口を開く。
「……ちゃんと予定はあります。シフト終わりに彼氏が迎えに来てくれます。そのまま出かける予定なんです」
「あ、そうなんですね。羨ましい」
「羨ましい?」
「はい。僕は誕生日、誰かに祝われたことないんで。憧れです」
「……そうですか」
それは斉藤の素直な気持ちであった。生まれてこの方恋人らしい恋人もできず、ろくに友人にも誕生日を祝われずに生きてきた斉藤にとって、バイト終わりに恋人が迎えに来てくれるなんて、そして誕生日を一緒に過ごすことができるなんて、本当に夢のような話であった。
しかし、遠藤からするとこの反応は意外であった。今まで出会ったどんな男も、自分に彼氏がいることを伝えれば、その表情のどこかしらに必ず落胆の色を浮かべていた。そしてその恋人の容姿や性格、学歴や年収などをそれとなく聞き出そうとし、遠回しに蔑んだり、自分の方が優良であることをさりげなくアピールしたりした。斉藤のように純粋に恋人と過ごすことに憧れる人間など見たことがなかった。
「どうぞ、彼氏さんによろしくお伝えください」
「何をですか?」
「……たしかに、何をでしょう」
困り顔をする斉藤に、遠藤は肩の力が抜けるのを感じた。何というか、ここまで会話が上手くすすまないと、逆に笑えてくる。
「やっぱり、斉藤さんって変な人ですね」
「え、また何か失礼なこといいましたか」
「いえ、なんというか……外国人、みたいな」
「ああ……それはなんかわかります……」
二人の人生は徹底的に違っていて、同じ言葉でも考えることは全然違っていた。
そういう意味では二人はお互いに外国人であり、コンビニの中は異国であった。
「じゃあ、ついでに斉藤さんも誕生日教えてください」
「え、なんでですか」
「私のは言ったのに、自分は言わないって不公平じゃないですか」
「ええ……」
「誰かに祝われたいんでしょ。私が祝ってあげますよ」
「あー。ええと、その……」
「なんですか。私に祝われるのが嫌なんですか」
「いや、そんなことはないんですけど……」
「じゃあ教えてください」
しばらくの沈黙の後、斉藤は気まずそうに言った。
「昨日、なんです」
「へ?」
「だから、昨日、なんです。誕生日」
口を開けたまましばらく固まった後、遠藤は絞り出すように声を出した。
「おお……それはそれは」
深夜の街。シエラレオネっぽい光を放つ店の中で、二人のすれ違った会話はぽつぽつと続くのであった。
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