第26話 再会

 足が重い。しかし、俺は歩く。歩かないといけない。


「……もし、どうしても無理なら。言ってくれて良いんだよ、佳音」

「……大丈夫。行く。行かせてくれ」


 父さんの言葉に俺は首を振り。また歩き始める。


 牛歩の進みであったが。少しずつ。父さんもそれ以上は何も言わず。俺に歩調を合わせてくれた。


「……もう少し、か」

「そうだよ。でも大丈夫だからね、佳音。出る前に話をしたけど、お母さんは酔っていない。……いつものお母さんだった。それに、お父さんも着いているから。何があっても佳音の事は守れるよ」

「……分かった。ありがとう」


 そうして……歩いて数分程の距離なのだが。十分ほどかけて歩いた。


 早めに出ておいて良かった。待ち合わせの時間より数分早く着く。


 次の交差点を曲がれば。すぐそこだ。


 ――すぐ、そこだ。


 俺は母さんに会った時。何を思うだろう。


 恐怖だろうか。それとも……あの時のように。嬉しくなるのだろうか。




 頭の中が真っ白になる。思考が、感情がぐちゃぐちゃになっていく。








 ――佳音くん

 ――佳音

 ――のんちゃん


 その時。よく聞いた、三人の言葉が聞こえたような気がした。


 辺りを見渡すが、通行人の中にその姿は見えない。


「――佳音? どうかしたかい?」

「……いや。なんでもない」


 気のせいだろう。陽葵姉達がここに居るはずないのに。


 しかし。不思議と。俺の脳はクリアになっていた。



 ……そうだ。陽葵姉達が家で待っているのだ。


 そう考えると、多少気は楽になった。



 大丈夫……大丈夫だ。何があっても、俺は――


 そして、俺は交差点をまがる。すると、すぐ傍にあの公園があって……




 ベンチに。その女性は座っていた。


 黒髪の女性。真っ白なブラウスに薄手のカーディガンを羽織った、長いスカートを履いている。



 それは……昔見た母さんの姿と同じだった。



「ぁ……」


 母さんと俺の目が合った。母さんは立ち上がり。スタスタとこちらに歩いてくる。


 父さんが俺の前に出ようとしたが。俺は止めて、歩き始めた。


 母さんがどんどんと近づいて。遂に、目の前まで来た。



 ――怖い。だが、それ以上に。


「……佳音。大きく、なったわね」


 嬉しいと。思ってしまった。











 記憶の底にある。あの時の恐ろしい記憶。


 もし、母さんがあの時と全く同じなら。俺は恐怖に飲み込まれていただろう。……だが。あの時と母さんはまた違っていて。



「……母さんも。細くなってない?」

「……ええ、そうね。あの頃に比べれば十キロ近く痩せたのよ」



 その顔はどこか疲れ切っているようだった。それと。俺の背が高くなり……母さんを越した事もあるだろう。


 ……この人は俺のトラウマを生み出した人だ。でも、それでも。



 母さんは……母さんだった。



「……佳音」


 母さんは一度、俺の名前を呼んで。そして。



 その頭を下げた。



「ごめんなさい」




 と。








「許されない事をしたのは分かってる。……私は佳音に酷い事をして。でも、気づいたのはずっと後の事で。佳音が轢かれた時は頭の中が真っ白になって……でも、謝りにもいけなくて。本当に……ごめん、なさい」


 その言葉に俺は息を飲み。頭の中が真っ白になった。


 すると、隣に父さんが来た。



「――言おうか迷っていたんだけど。佳音が事故にあった時。救急車を呼んでくれたのがお母さん……真奈美まなみさんだったんだ」

 真奈美まなみ、とは母さんの名前だ。


「そう……だったのか」

「その後。……真奈美さんは佳音に会って謝りたいと言っていたが。お父さんが断っていた。……あまりにも、その傷は深かったから」


 俺は父さんの言葉に……頷く。



 もしあの時の俺が母さんとまた会っていたら。それこそ耐えきれなかっただろう。


 父さんの気持ちも痛い程に分かる。あくまで今の俺は……陽葵姉達のお陰で。心がいっぱいいっぱいになっても、すぐに余裕が出来る。


「……少し前も。二日酔いで荒んでいて。……いえ、言い訳はしない。酷い言い方をしてごめんなさい」

「……頭を、上げてくれ。母さん」


 このまま母さんに頭を下げ続けさせる訳にはいかない。


 俺がそう言うとやっと、母さんは頭を上げてくれた。



「俺は元々……母さんに言いたい事が少しあって、だから母さんと話したいと思った」


 そう前置いて。俺は話し始める。



「まず。……母さんが何を言っても。今の俺は母さんを許す事が出来ない。陽葵姉達のお陰で回復しつつあるが。まだ、母さんが怖い。……今の母さんは優しいが。お酒を飲むと十中八九、態度が豹変すると思ってしまうから」


 母さんは俺の言葉に……頷いた。


「それと……もう一つは後にして。今ふと疑問に思った事があったんだ。母さん、父さんと離婚してからお酒をよく飲むようになったって。どうしてなんだ?」


 俺がそう言うと。母さんは少し驚いた顔をして……ゆっくりと話しはじめた。



「……卓也さんと離婚してから。その時になってやっと、気づいた。……私、佳音が心の支えの一つになっていたんだって。…………あの時の私はいつも、佳音が眠っていた後に仕事の事はお父さんに愚痴をしていたから。お父さんが居なくなって、誰にも愚痴を言えなくなって。私はお酒に走った。……その後も、佳音へ八つ当たりをして。でも佳音は起きた後はいつも通り『お母さん』として接してくれた。それで私は調子に乗って、またお酒を飲んで……を繰り返した。謝って許して貰える事じゃない。謝った所で、ただの自己満足にしかならない事は分かってる。……卓也さんの離婚の判断は正しかったわ」


 そこで一息着いて。また母さんは口を開く。


「その後。お父さんも佳音も居なくなってからは……お酒に頼り始めたの。馬鹿だと自分でも思う。でも、止められなかった。……佳音が小学三年生の時だって、視界がふらついて佳音の顔も見えなくて。酷い事を言って。……佳音が記憶を無くした、って聞いたあとも私はお酒を頼って……依存したの。友達に止められたりしたけど。私の心はそれ以上に弱かった」


 その言葉を聞いて。俺はふう、と息を吐いた。




 良かった。ちゃんと理由はあったんだ。でも、あと一つ。聞きたい事が出てきた。


「……あと一つ。母さんがお酒を飲んだ時の性格。そして、言葉は。心から思っていた事?」

「違う……と言っても信じられないかもしれないけど。違う。私は佳音を心から大好きだと思ってる。ずっと、心配だったから」


 その言葉にホッとしながらも……言葉の続きを待つ。


「……私はお酒を飲むと。判断力が鈍るのはもちろん、人の悪い所しか見えなくなってしまうの。そうね……例えば。佳音が昔、ふざけた拍子に花瓶を落として割っちゃった事があるでしょ?」

「……ああ」

「私は心配になってすぐ怪我の確認をした。花瓶の事とかどうでもいい。そう思っている。もし、佳音が今も同じようにしたとしても同じ事をするわ。でも、お酒を飲むと。視野が狭くなって、花瓶が割れた事の方を強く思い出して。そっちを追求してしまうの」


 ……なるほど。視野が狭くなる、か。


「それで、イライラして。何をされても本気で怒るような……そんな人になってしまう。それが母親として、人として失格だと気づいた時には……何もかもが遅すぎたたわ」


 俺は母さんの言葉に目を瞑り……考える。


 あくまで、理由を聞いただけ。だから許してまた前のように……という事にしてはいけない。絶対に。それだと過ちを繰り返させるだけだ。


 でも、話してわかった。母さんはちゃんと話が出来る。これで今日会ったきりでおしまいだと俺の心にもしこりのような物が出来てしまう。





 ……これを話しても否定されるかもしれない。いや、その確率の方が高いだろう。


 でも。



「……今の話を聞いて。母さん、父さん、相談したいことがある」



 何もしないで後悔したくない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る