『お花見』


「友達から聞いた話なんだけどね」


 大学生の頃の話だ。

 花見をしようとなって、とある自然公園で場所取りをして昼から飲み始めた。

 仲間内の各々が知り合いを好きに誘ったので、名前を知らない相手もいつの間にか結構な人数が集まっていたそうだ。


 大人数で集まる機会は普段の付き合いからしても少なかったから、始めた時点から妙に浮かれた空気が漂っていたらしい。

 あるいは、女性が幾人か混じっていた、というのも理由かもしれない。


 空は晴れやかで、随分と心地よい気温だった。

 好き勝手に自己紹介なども織り交ぜて、満開の桜の下で好きなように騒ぎ続けてしばらくがたった頃。


「あれ? ××ちゃん?」


 ふと、幾つか出来ている輪の中で、一人が驚いたように声を上げた。友達とはこの場で初めて顔を合わせた女性で、Nさんとしておこう。

 Nさんはチューハイの缶を片手に立ち上がると、「あれえ?」と首を傾げながら、何かに導かれるようにして歩き始めた。

 誰も彼もが好きに騒いでいるために、彼女の挙動が目立っている様子はなかった。友達が目を引かれたのも、ちょうど彼女が友達のすぐ後ろに座っていたからだ。


 友達は初め、Nさんは此処に呼んでいない知り合いをたまたま見つけたのだ、と思った。

 けれども、立ち上がったNさんはレジャーシートから離れると、一番近い桜の木の下へと向かったそうだ。

 花びらが舞い落ちる中で、Nさんは桜の枝を見上げて声をかける。


「××ちゃーん、また下りれなくなっちゃったの?」


 Nさんは缶を持ったまま両手を上げると、何かを待ち構えるようにして位置を変えた。

 ふらふらと、覚束ない足取りで少し後ろへと下がる。危ないな、と思うのと同時か、少し早いくらいのタイミングで、案の定、Nさんは足をもつれさせてしまった。


 缶を持ったままの不恰好な形で、転んだNさんは桜の下で手をつく。

 不思議そうに辺りを見回すNさんに、友人であるらしい女性が近づいていって、呆れたように水を差し出す。

 何やってんの、という声に、Nさんは誤魔化すように照れ笑いを浮かべていた。


 それから少しして。今度は知り合いであるAくんが桜の木へと目を向けた。


 何やら驚いたように声を上げたAくんもまた、先ほどのNさんと同じように、桜の木へと向かっていった。

 ふらふらと、少し覚束ない足取りで歩き始めたAくんは、桜の裏まで見に行ってから、やはり不思議そうな顔をして戻ってきた。

 祖父ちゃんが居た気がして、と零すAくんに、他の誰かが笑い出す。

 お前のじーちゃん、去年死んでなかったっけ、と、酔いの回った遠慮のない物言いが響いた。


 何かが変だな、という思いを抱き始めた頃。

 友達の側にやって来た仲間内のDくんがそっと呟いた。


「そういや此処、使わない方がいいって言われてたんだよな」


 Dくんは先に一人で場所取りをしてくれていたのだが、どうやら、その時に何か言われたらしい。

 どういうことかと尋ねる友達に、Dくんは首を傾げながら答える。


「いや、怒られたとか使うなとか言われたんじゃないんだけど。使わない方がいいって教えてくれるだけのつもりだったみたいで、あんまり説明はしてくれんかったな」


 場所取りに来た時には既にいくつか良さそうな所は埋まっていたのだが、此処だけはどういう訳かぽっかりと空いて誰も近付いていなかったらしい。

 公園内での場所取り自体は自由だったので、ちょうどいいと思って準備を始めたDくんに、通りかかったおじさんが軽く声をかけていったのだそうだ。

 こういう理由だったんだなー、とDくんは何が楽しいのかけらけらと笑っていた。


「ほら、桜は人を狂わせるとか言うじゃん。そういうことじゃね?」


 軽い調子で言ったDくんは、それからは特に桜に言及することもなく、馬鹿騒ぎを続ける仲間の輪に入っていった。

 友達も、特に深く尋ねるでもなくそこに加わったが、その時点から解散まで、何となく桜の方を見ることが出来なかったのだという。


 夜。花見の後にも散々遊んだ帰りに仲間と別れた友達は、駅のホームで電車を待っていた。

 点検か何かで一つ前の駅で止まっていて、掲示板にも遅れの表示が出ていた。


 暇潰しにスマホを弄り、それにも飽きてふと目をやると、ホームの端から腕が伸びていた。

 妙に真っ白くて、周囲からひどく浮いている。何処か異様な光景ではあったが、友達は当然の予測として、誰かが線路に落ちてしまったのだと思った。

 子供の手だ。誰かが助け出してやらないと、まともに上がってくることは出来ないだろう。


 酔いも飛ぶ勢いで嫌な緊張が走る。

 友達は周囲を見回して、緊急停止の為のボタンを探そうとした。

 した、のだが。

 気づいた時には、そのままじっと、視線の先にある腕を見つめていたそうだ。


 ゆらゆらと揺れる小さな白い手は、十歳そこらの女の子のもののように思えた。

 向日葵を模ったヘアゴムが手首についている。


 それが妹の誕生日に自分が買ってやったものだと気づいた時には、足は勝手に進んでいた。


 なんだ、そこに居たんだ。

 ああ良かった。


 抱いた感覚を言葉にするなら、一番近いものはそれだった。


 あと数歩で手が届く。

 そんな地点まで来たところで、友達は急に、勢いよく後ろに引かれた。


 引っ張られるままに尻餅をついた時には、夢から覚めるような心地だったという。

 後ろを振り返ると、Dくんが友達の身体を支えていたそうだ。


「びっくりしたー。酔っ払って線路落ちるやつってマジなんだ」


 訳も分からず座り込んだままの友達に、Dくんは酔いの残るノリで、それでも心底安堵したように呟いた。

 もしも電車が遅れていなかったのなら、近づいているだけでも危なかっただろう。

 座り込んだ友達はDくんに礼を言って、そこから十分ほど、出来る限り線路は見ないようにして、やってきた電車に乗り込んだ。


 そのあと聞いた話によると、お花見に参加したメンバーの内の何人かが怪我をしたそうだ。


 階段やベランダから落ちてしまったり、信号を無視して飛び出してしまったり。

 本人の過失と呼べるような事故ばかりだったので、みんなバツが悪そうに笑って誤魔化すだけだった。


 その人たちが何を見たのか、友達は結局聞けないままでいるそうだ。



「────怖かった?」

「そうだなあ……まあ、怖かったと思う」


 Dくんがいなかったらどうなっていたのだろうか。無事で済んで良かったな、というのが初めの感想である。

 次に浮かんだ感想──に関しては、一旦はしまっておくことにした。


 俺の予想が正しいのなら、話にあった桜の木は、どうしても会いたい存在を見せるのだろう。

 それもきっと、もう会えない存在を見せる。Aくんの場合はお祖父さんだったし、Nさんの場合は多分、飼っていた猫か何かだ。

 思わず近付いてしまいたくなるような相手を見せて、そのまま誘い込む訳だ。悪意から来るものかは知らないが、自ら近づきたくなるようなものを見せると考えると、普通の心霊現象よりも悪質だとも言えるかもしれない。


「そもそも、勝手に記憶を覗かれてるだけでも結構怖いしな」

「そう?」


 軽い調子の問いかけに、俺はかなりの実感を持って頷くことになった。

 自分が話してもいないことを知られている、というのは大分気味の悪いものである。それは怪異が相手だろうと人間が相手だろうと、あまり変わらない恐怖だろう。

 まあ、隣人相手に上手く伝わっている気は微塵もしないし、此方としても特に強く伝える気もなかった。


 ところで。

 俺はこの『友達』の連続性について、あまり考えないようにしている。


 一人の人間がこれだけの怪異に遭遇している、と考えれば創作感は高まるのだが、同時に、俺の中でその『友達』とやらがどうしても一個人として形成されていく気がしてならないからだ。

 隣人の話を信じることでもたらされる害を考えるならば、『友達』は個人であるべきであると同時に別人でもあるべきである。更に言えば、あまり考えすぎるべきでもない。

 何にせよ、あまり意識していても碌なことにはならないことだけは確かだった。


「桜の木って、なんか妙に怖かったりするよな。神秘的って言ってもいいけど」


 なんて、あくまでも怪談にフォーカスしたまま呟く。そうして、何の気なしに隣を見やった俺の視界には──知らない男の顔が映った。

 仕切り板の向こう、隣人の部屋から延びた管の先に、人の頭がくっついている。

 反射的に、カップを持った手に力が籠るのが自分でも分かった。


「…………」


 イメージとしては、頭から下が黒く爛れた皮膚で出来たろくろ首みたいになっている。顔の作りは、人間にとてもよく似せた人形……とでも言えるような代物だった。

 生気のない人間の顔というのは、どうしてこうも不気味なのだろうか。


 俺は思わず足を引きかけた格好のまま、なるべく平静を装って問いかけた。


「……お前、そんな顔してたのか」

「うん?」


 見知らぬ男の顔が、粘土細工のように歪んでいく。小さく丸められ団子のようになっていく中で、押し潰された瞳が出来損ないの笑顔のようになり、それからすぐに、見慣れた隣人の口の奥へと引っ込んだ。


「これはナギミヤだよ」


 誰だよ、と突っ込む勇気は残念ながら出てこなかった。

 ちなみにさっぱり聞き覚えはない。俺の知り合いにナギミヤなんて人は居ない。もしかすると、神藤さんの方の知り合いか何かかもしれない。


 知らん奴を突然出すの、嫌なタイプの身内ノリすぎないか?

 まあ、教えてもいない知人の名前を勝手に出されるよりは余程マシなのかもしれないが。


 あの頭、今夜夢に出そうだなあ、などと思いつつ目を閉じる。何か別の映像で上書きする必要がある気がした。

 犬とか、猫とか。うさぎとか。パンダとか。厳選おもしろかわいい小動物動画に頼るとしよう。


「タカヒロは煙草好き?」

「は? なんだよ急に。話飛んだな」


 どちらかと言うと嫌いだ。それは香りがどうとか副流煙がどうとかではなく、番号で言ってくれれば良いのに頑なに銘柄を愛称で呼ぶ人間由来の苦手さである。

 だから、映画とかで見るのは好きだ。演出としても格好いいと思う。

 でも俺は吸わないので違いが分からんし、何故か番号を聞き直すとキレ出す人がいるのは嫌だ。下手したら幽霊より余程嫌かもしれん。


「まあ、総合すると好きではないかな……」

「そっかあ」

「なんで?」

「ナギミヤは煙草好きなんだよ」

「……へー」


 だから誰なんだよ、ナギミヤ。

 次回以降の怪談に何か関わって来る人なのだろうか。


「早く死ぬといいね」

「…………」


 こいつが言うと、本当に死にそうだ。

 何を返すのも微妙な気がして黙り込んでいると、隣からは笑い声だけが聞こえてきた。


「早く死ぬといいねえ」


 軽く、穏やかで、何処かしみじみとした声音だった。明日は晴れるといいね、なんて約束の前日に軽く交わし合う時に似ている。

 ナギミヤというのは、隣人にとってはあまり好ましくない人間なのかもしれない。ただ、それ以上に過度な好悪があるとは思えない程度には、さほど興味のない響きでもあった。


 この場合はどう答えるのが正解なのだろうか。俺はナギミヤなんて人は知らないから、知らない人の死を望むつもりはない。

 けれども、これが隣人にとっては同意を求める呟きだとしたら、受け答えを間違えれば機嫌を損ねることになるだろう。……どっちに転んでも面倒臭いことになりそうだな。

 ゆらゆらと手遊びじみた動きで揺れる六本指を目の端に捉えつつ、続いていた会話の中で拾い上げても良さそうな部分に触れることにした。


「……お前は好きなのか? 煙草」

「嫌い」

「…………そうか」

「不味いからね」


 ……まあ、その点に関しては俺も同意である。

 煙草が美味しいという理屈が俺にはちょっと分からない。どう考えても成分的に美味しいはずがないと思うのだが。ちゃんと吸ったことがないから、というのも理由な気もする。

 でもちゃんと吸い始めたら今度は味云々ではない理由で辞められなくなるんじゃなかったか。ああいうのって。


「イマイは吸ってたから、やめてもらったことあるよ」

「イマイってのは、……もしかして前に此処に住んでた人か?」

「タカヒロよりずっと前だね。一日に一箱吸ってたよ」

「……一箱はすごいな」


 今日は聞き慣れない人名をよく聞く日だった。

 隣人から聞いたところによると、イマイさんというのは四十過ぎの女の人で、旦那さんと別れて住む場所も無くなって此処に来たらしい。

 もう十何年も前の話だから、隣人も強く印象に残った点以外はあまり覚えていないようだった。なんか赤い箱を持っていた気がする……とぼんやりとした記憶を辿っていたらしい隣人は、ふと、ぽつりと呟きを落とした。


「煙草やめたのに、結局入院しちゃった」

「病気か?」

「ううん。飛び降りたから。失敗した」

「…………」


 イマイさんは引っ越してきてから三ヶ月ほど経った頃、このマンションではなく、隣に建っているビルの三階から飛び降りたらしい。落ち方のおかげか負傷が酷かったのは主に両足で、脳には後遺症などは残らなかったそうだ。

 この場合はおかげ、と言っていいかは迷うところなのかもしれない。イマイさんは少なくとも、死にたくて飛び降りた──のだろうから。


 いや。果たしてそうだろうか。

 本当に死にたかったのだとしたら、飛び降りるのに『三階』は選ばないのではないだろうか。


 隣のビルは十階建てのマンションよりはやや低いが、少なくとも七階程度の高さはある。

 もしも本当に死にたかったのだとしたら、最上階から飛び降りるはずだ。単に入れなかった、ということも十分にあり得るけれど。


 なんとなく、明確な答えは探さない方がいい気がした。思考の逃げ場を探すように、ベランダから外のへと視線を落とす。この辺りは街灯が多いので、夜でも真っ暗、ということはない。

 見下ろした道路には人気はなく、しんと静まり返っていた。


「イマイは帰ってこなかったな」


 何処か懐かしむように呟いた隣人は、今日はもうそれで話を終いにするつもりのようだった。

 ゆったりとした空気で仕切り板の向こうへと管の幾つかが引っ込んでいく。


「タカヒロは失敗しないでね」


 どうにも、心の底からの祈りに聞こえるような響きで言い残して、窓は閉まった。

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