幕間
髪の毛
「うお」
エントランスで郵便物を取り出したら、久々に髪の毛が一緒についてきた。
どうでもいいDMやらチラシやらと一緒に、結構長めの黒髪が入っている。
ごっそり、と言うよりは、十数本あたりがあちこちに絡み付いている感じだ。
この髪の毛は主に、入居から五ヶ月ほど経った頃に起こる現象である。
なので滞在期間がそれより短い入居者は気づかないまま出ていくことが多い。そして、半年以上住んでいる住人のところでは殆ど起こらなくなる。
ちなみに、レビューサイトにはこれに関する言及はない。あったとしても削除されているのだろう。
短期入居者は気づかないし、五ヶ月目から一月の間で数度遭遇する程度だから、あまり気に留める人がいないのかもしれない。
俺自身も、該当期間には幾度かチラシや封筒に髪の毛が絡み付いている、という経験をした。
その時は幽霊がどうとかより、単純に人間の仕業を疑った。ポストに髪の毛を入れておくだけなら、別に怪異ではなくとも十分に可能だからだ。
ただ、それからすぐに思い直した。
取り出した髪の毛を捨てようとすると、必ず手に巻き付いてくるからである。それとなく、例えば静電気で張り付いたような形で。
取れない訳ではないので、すぐに剥がして捨ててしまえばそれで済む。
けれども何度か続けば、分かっている人間にとってはただ絡まっただけでは説明がつかない動きをしているので不気味にはなる。
でもそれは、どちらかというと恐怖と言うより嫌悪感に近いものだ。
対処可能なレベルの問題だからだろう。なんというか、急に蚊柱と遭遇した時の気持ちに近いかもしれない。
俺は郵便物から丁寧に髪の毛を取り除き、指に絡まってくるそれを外して、エントランスに用意されているゴミ箱へチラシと一緒に捨てた。
このゴミ箱は、不要なチラシが多すぎるために管理人さんが用意してくれたものだ。
実際、入居以来やたらとチラシがねじ込まれているから、普通に住んでいる人は表向きの理由通りに使用している。
けれどもやはり、本来の用途としては『穏便に髪の毛を処分するためのもの』なのだろう。
蓋付きのゴミ箱に貼られた『これはチラシを捨てるためのものです。一般ゴミは入れないでください』という手書きのメッセージを見下ろす。
確かに、動く髪の毛は『一般』のゴミではないよなあ、なとど思いながら、俺は郵便物を片手に自宅へと戻った────のだが。
部屋の前で鍵を取り出そうとしたところで、俺は自分の左手に起きた異変に気づいた。
「…………」
左手の薬指に、髪の毛が巻き付いている。
位置としてはちょうど根元の辺りだ。こんなところに髪の毛が巻き付いていたら違和感を覚えそうなものだが、この髪の毛は俺に気づかれることなく此処までついてきた。
数秒見つめてから、そろりと爪先に髪の毛を引っ掛ける。
捻れた輪っかのようになっているそれと三分ほど格闘した結果、俺は極めて簡単な結論に至った。
外れねえな、これ。
「………………」
まさか、エントランスでないと外れない、ということだろうか?
あの場から出てしまうと外せないからゴミ箱が設置されていたと考えることも出来る。
戻って試してみるのもアリかもしれない。
どうせ、あとは風呂入って寝るだけだから時間は幾らでもある。
そう思ってエレベーターに戻ってみたのだが、俺は回数表示が『10』になっているのを見て、一旦諦めることにした。
このマンションで一番に不味いのは、当然のように七階である。ただ、正確に言うのであれば『安全に居住できるのは一階から四階まで』が正しい。
五階はあの状況なので使えないとして、六階以上は基本的には本来の用途とは異なる運用で利益を出しているそうだ。
詳しいことは聞いていない。別に聞きたくもないからだ。
ともかく、俺が降りた後に十階に行っている時点で、少なくとも今はエレベーターを使うべきではない。
そうなると、階段を使った方がいいかもしれない。降りる分には何の問題もなく使えることは証明されている。
ただ、一階に戻ったとしてもこれが取れるかも分からないし、一階に着いた時点でもエレベーターが十階にあれば、その時点で俺はネカフェか何かに泊まりに行くことになる。
「……………うーん」
面倒だな、というこの感情が、ある種の慣れから生じていることは自覚があった。
なんとなく、七〇一号室の扉を見やる。
この場合、
それとも、澄江由奈と同じように何かしら気に障る存在になるのだろうか。
今の時点ではこれといった反応はない。
話したら取ってくれるかもしれないが、伊乃平さんからは、俺の方からあんまり
例えば澄江由奈の時のように、隣人が勝手に片付ける分には構わないそうだ。
でも、俺の方から何度も頼むような真似は、結局のところは食事を与えるのとさほど変わらない行為に当たるらしい。
まあ確かに。頼み事というのは、ある程度は見返りがあって然るべきものである。
頼むだけ頼んで、使うだけ使って、それで何のお返しもなし、が通じる相手ではないだろう。
一応は、『友人』をやっている時点である程度は大丈夫らしいのだが。
その『大丈夫』がどこまで本当に
さて。
そんなことを考えている間に、俺は新たな変化に気づいた。
「締まってんな……」
絡み付いている髪の毛が、徐々に俺の指を締め上げ始めている。
もう既に結構痛い。このままだと、鬱血して不味いことになるに違いない。
もしもこれで病院に行くことになったら、一体なんと説明すればいいのだろうか。
そもそも病院で取れるのか? 取れなさそうだな。
リスクがどうだのこうだの言っている場合ではない気がしてきた。
隣室を見やる。扉の方から呼ぶのはよくない、と聞いたことがあった。
自室の鍵を取り出し差し込んでから、何度か回す。古いせいか、最近開くまでに若干手間がかかる。
いや、これは俺が焦っているせいかもしれないが。
玄関先で靴を脱ぎ捨てて、ベランダに出ようと進む。
その途中、俺は視界に映ったものに足を止めていた。
ベッドから腕が伸びている。
鋏付きで。
「え」
立ち止まった俺の前で、錆びた鋏が掲げるように示される。
しょきん、と錆びた刃が擦り合わさった瞬間、俺の薬指からは、解けた髪の毛が落ちていた。
「お、おお……?」
左の手のひらを確かめる。
薬指の根元には縛られたことでの赤黒い痕が残っていて、痛みと若干の痺れがある。だが、動きには問題なさそうだった。
開いたり閉じたりしてみるが、大きな異常は現れていない。次いで、落ちた髪の毛を確かめてみるが、別に飛びかかってきたりする様子はなかった。
ひとまず安堵の息ついて、目を上げる。布団からはみ出た腕はそのまま残っていた。
いつもはすぐに引っ込むのに、珍しいことである。
「えーと、」
ありがとう、と言おうとして、俺は再度開かれた鋏の刃の擦れる音に、一旦口を噤んだ。
ごくごく些細な音でしかないのに、何故かいやに耳に深く響いた。
しょきん、しょきん、しょきん。しょ……きん。
執拗に繰り返した腕は、最後に殊更ゆっくりと刃を閉じてから、すっ……と引っ込んでいった。
消えていった布団の隙間を見つめてしばらく、俺は再び床へと視線を移す。
紐状になっていた髪の毛は、もはや元が髪の毛であったのかすら怪しいほどに細切れになっていた。
それこそ、幾度も幾度も鋏で切り離されたかのように。
デスクの端に置いてあるコロコロを手に取りながら、俺はなんとなく認識した。
多分だが、布団の奴はこの髪の主が嫌いなんだろう。間違った予測ではないと思う。でなければ、こうも執拗に切り刻む意味がない。
一度目で切られた時点で、髪の毛は動くこともなく落ちていたのだ。あとの数回──多分、七回くらい──は明らかに余計だった。
細切れになった髪の毛を丁寧に取ってからロールを捲り、とりあえず別に紙で何重かに包んで捨てる。
警戒から少しの間ゴミ箱を眺めていたのだが、特に這い出てくる様子はなかった。あれだけ執拗に細切れにされたのだから、多分大丈夫だろう。
今回はこれでなんとかなったし、反応を見るに次回もなんとかなると思うのだが、そもそも問題は『全く気づかない内に指に絡んでいること』自体なような気もする。
意識できない部分に勝手に侵食されるのは、はっきり言って不気味だ。髪の毛以外の何かが入り込んでいないとも限らない訳だし。
そういう訳で、俺は昼頃にメッセージで神藤さんへと連絡を取った。いつものように伊乃平さんに対処法を聞ければ、と思ったのだ。
だが、今回はどうやら神藤さん自身が既に知っているようで、すぐに電話がかかってきた。
『申し訳ありませんがお付き合いはできません、って書いた便箋をエントランスの自分の郵便受けに入れておくと良いみたいだよ。
前に
「あ、いえ。大丈夫です。やってみます」
簡単に言えば、値踏みをしたあと気に入った相手に交際を申し込んでくるタイプの怪異なんだそうだ。
分類上は冥婚ということになるらしいが、神藤さん自身はあまり詳しくは知らないらしい。別に俺も聞いたところで理解できないだろうから、その辺りは軽く流した。
ともかく、受け入れると碌なことにはならないようで、正式にお断りをしないとならないそうだ。逆にいえば、断りさえすれば然程大きな害は無いらしい。
ちなみに神藤さん曰く、鴨寺さんの時には布団のあいつは助けてはくれなかったようだ。
俺の場合に動いてくれたのは、恐らく隣人と仲が良いからだろう、とのことだった。
隣人が布団のあいつをどう思っているかは知らないが、あいつの方はそれなりに隣人に好意のようなものがあるらしい。
故に、隣人と仲の良い友人である俺のことも多少は助けてくれるつもりになった、ということだ。
聞いていて何とも微妙な顔をしてしまったのが電話口でも伝わったのか、神藤さんは最後にやや申し訳なさそうに笑った。
別に、神藤さんが申し訳なく思うところは一つもないのだが。
髪の毛の主は封筒に入れると開けられなくて読めないから、便箋だけで良いらしい。それなら、澄江由奈との文通(文通……?)のために用意したものがある。
デスクでお断りの手紙をしたためながら、俺はふと思った。
そういえば誰かに告白をされたのは初めてだなあ、と。
当然ながら、あんまり嬉しくはなかった。
後日。話を聞いた隣人はこんなことを呟いた。
「……へー、タカヒロでも対象内なんだねえ」
珍しいことに、若干引いている様子だった。
その後も、「えー……」と呟いているのが聞こえてくる程度には。
それが『隣人には俺が子供に見えている』が故の反応だったのか、それとも『俺個人を総合的に評価して』なのかは、特に聞かなかった。
別に怪異にモテたいなどとは微塵も思っていないが、それでも後者だとしたらなんだか謎に切ないからである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます