飲み会


 一月下旬。

 俺は新宿の居酒屋で、ハヤトと二人で飲んでいた。


 酒にはあんまり良い思い出がない。

 前職の上司が酒好きのアルハラ人間で、未成年だろうがなんだろうがお構いなしに飲まされていたせいだ。

 どうせなら、今日で嫌な記憶を払拭出来たら良いのだが。


「それで? タカヒロは今何やってんの」

「何って言っても、まあ、マンションの……なんだろ、警備?」

「管理人的な? なるほどそっちの資格取ってたんかー」

「いや、資格とかはまだなんだけど……」


 というか管理人さんは別にいるから、取る予定とかもないんだけど。

 言葉を濁していると、ハヤトは何やら納得したらしい様子で(資格なくてもなれるらしいからな、とか)頷いていた。


 今は生活も落ち着いていて、食うにも困ってない、という話をすると、ハヤトは軽い調子で聞きながらも、割とホッとした様子だった。

 俺が思っているよりもよほど、心配をかけていたのかもしれない。


 そのあとは大学生活がどうだのなんだのと、電話では話し切らなかった辺りに触れる。

 久々に同年代の人間と話すのは、素直に楽しかった。

 此処まで楽しいのは、心配事が一つ片付いたから、というのもあるのかもしれないけれど。

 あるいは、わざと気楽に思うことで、考えないようにしているだけかもしれないけれど。


「あ。うち、少し前に婆ちゃん死んだんだ」


 そんなことを思いながら交わしていた会話の中に、ふと乾いた呟きが混じった。

 いつだったかと同じ、出来る限り平然と言おうとしているのが分かる響きだった。

 ご愁傷様です、なんて言うのも変な気がして、そうなんだ、とただ相槌を打つ。


「歳も歳だったしさ。全然、最後苦しんでとかもなかったし。こう、平和に済んだよ」

「そっか。まあ……良かったな?」

「おー、良かった良かった。婆ちゃん死んでからみんな明るいし。多分さあ、父さんも昔っからの思い出とかあって言えなかったんだろうけど……おかしくなってから辛かったんじゃねえかなあ。普通だって思い込もうとしすぎて擁護してたっていうか。

 とにかく、最近は前より関係も良好になってさ、まあ今更かよって感じなんだけど」


 呆れたように笑いつつも、ハヤトは随分と肩の荷が降りたような顔をしていた。

 そりゃそうだろう。ハヤトの家でおかしいのは婆ちゃんだけだったから。

 いなくなったなら、あとはもう良くなるだけだ。


 そうか。

 そういうものかもしれないな。


「うちもさ、いなくなったんだ」

「ん?」

「あの人」


 別に、わざわざ話すつもりはなかった。

 ハヤトのことだからきっと、話したくもないことを聞き出す気なんて微塵もなかっただろう。察してはいたかもしれないが。


 だから俺の方も、どうせだし言っておくか、みたいな気軽な一言だった。

 無理して軽く話した訳でも、何か気負った訳でもない。

 単なる事実だ。

 純粋に、『いなくなった』のである。

 あの人は。


 社会的には失踪という扱いになるのだろうか。

 いなくなったところでわざわざ探そうとするのは、あの人が借金をしていた相手だと思う。

 今のところは、俺の方には警察を含めて誰も来る気配はない。来た時のことは、来た時に考えれば良いのだ。


 ハヤトは一瞬、持ち上げかけた唐揚げを置こうとしたが、やっぱり食べたかったようでむしゃりと口に含んだ。

 あるいは、何か物理的な間が欲しかったのかもしれない。

 きっちり味わって飲み込んでから、ハヤトは気を取り直した口調で言った。


「じゃあ、もっかい大学行こうぜ」

「は?」

「だってもったいねえし。もう邪魔される心配ないんだろ?」


 目を瞬かせる俺に、ハヤトはグラスを傾けて続ける。


「タカヒロさあ、先生になりたいんだろ。いやまあ、資格試験受けてって手も、なかないけど、大学行くのが一番じゃん」

「まあ、それはそうだが」


 教師になれたら良いな、とは思っていたことはある。

 奨学金使い込みの時点で、無かったことにした夢だ。


 夢を叶えることが全てではないが、叶わなかった夢は引きずるものだとも思う。

 やれるだけやってみたけど駄目でした、と、そもそも挑戦することすら出来ませんでした、も違うだろうし。

 後悔していないかと聞かれれば、そんなこと考える暇もなかったな、というのが正直なところだ。


 生きてて良かったなあ、とか、飯が美味いなあ、くらいしか考えていない。そもそも本当に良かった・・・・のかも、あんまり分かっていない。

 生きている限り、どっかで苦しい目には遭うのだ。俺はまあ、そこそこ耐性のある方だとは思うのだが、それでもわざわざ苦痛を味わいたい訳でもない。


 このまま彼処で植物みたいに生きてくんじゃ駄目なんだろうか。

 駄目なんだろうな。きっと。


「でも別に、なれたらいいなくらいで、何がなんでもって訳でもなかったんだよな」


 半分くらいは、なれないんだろうな、とも思っていた。俺みたいなのがそんな上手く行くはずないだろうな、と。

 先生になって、俺と同じように困っているような子供を助けられたら、少しは昔の自分が報われるかもしれない。

 そんな遠回しの自己救済の為に、それらしく掲げていたような夢だ。


 だって、もし本当に心からそうなりたいなら、今の時点でもっと動いているだろう。

 だからきっと、俺にとってはその程度の目標だったということだ。

 そんな不誠実さで目指しても、結局のところ上手くはいかないだろう。


 そんなようなことを語ると、ハヤトは「お前がいいならいーけどさ」と頷いた。

 結局のところ、自分の人生なのだから、自分で選択するものである。

 選べる道が多いか少ないかは、また別の要因があるが。少なくとも、障害の一つは減ったのだし。


「あと、一応住み込みが条件で働いてるからなー。あんま部屋を離れるようなのは駄目なんだよ」

「へー。なんか色々、難しいんだな」


 でもまあ、資格を取ってみるのはいいかもしれない。

 なんだったら、本当にマンション管理士の資格を取ったっていい。頭を動かす為にも、何かに挑戦すること自体は良いことだと思う。


 もしも真剣に職を考えるとしたら、在宅で出来る仕事を探して行った方がいいんだろうな。

 今の仕事だって、終身雇用という訳ではない。

 恐らく辞める時が死ぬ時であるからして、ある意味終身雇用と言えなくもないが。言いたくはない。


「まあ、タカヒロなら大丈夫だろ。とりあえずさ、好きなことやれよ」


 酒が入って気が緩んでるのか、ハヤトは心底安心した様子でグラスを傾けている。

 そんな友人を前にして、とてもじゃないがこんな説明をする気にはなれなかったので、俺は曖昧に笑っておいた。



       ◇ ◆ ◇



 さて。

 めでたく嫌な印象を払拭出来る程度には楽しんで、結局、終電で帰った。


 ハヤトからは、何かあったら連絡しろよ、とあくまでも軽い調子で、でも割と真剣に言われた。

 それと、「この間の声何?」とも聞かれた。

 残念ながら、そっちに関しては答えようがない。

 とりあえず、もう大丈夫だから、とだけ言っておいた。


 伊乃平さんに任せたので、まあ、間違いはないだろう。きっと。


「…………ん?」


 最寄駅から、酔いで浮つく足取りで進むことしばらく。

 マンションの前に、何か変なのが立っていた。

 

 変なの、と言っても、この間のあの人のような存在ではない。

 至って普通の人間だ。

 ただし自撮り棒を掲げていて、変なお面みたいなものをつけている。

 察するに、なんらかの動画配信者のようだった。


 中途半端な位置で立ち止まり、酔いの回った頭でしばらく考える。


 マンションの前で撮影しているのだから、当然、目的は彼処だろう。

 あの通り、怪しさも満点な上に本当に実害があるタイプのマンションなので、その類の配信者に目をつけられるのは分からなくもない。


 一時期、レビューサイトがちょっと変だとかで話題になったこともあるようだし。

 ただ、派手な事件があった訳ではないし、詳細が分かる訳でもないので、本当にちょっとした噂程度でしかない。


 大方、ネタに困った配信者がわざわざやってきたのだろう。

 彼処を選んで撮影しないとネタがないあたり、たぶん、あんまりセンスがいいタイプの配信者ではない気がする。


 ある意味では良い、とも言えるかもしれないが。

 その場合は結局、結果として悪いことになるに違いない。


 様子を伺うに、許可を取ったようには見えなかった。

 どうせ、入れないからそのまま戻るだろう。

 そう思っていたのだが、その配信者くんは、動画を回したまま──と思しき仕草で──マンション内に入って行った。


 少し考えてから、気付く。


 ああ、そうか。

 短期入居者にも部屋を貸してるから、住む手続きさえしてしまえば入れるのか。

 あるいは、借りた後に怪奇現象が起きると知って、動画のネタにすることにしたのかもしれない。


「うーん……まあ、いいか」


 俺としては、鉢合わせずに部屋に帰れればそれでいい。

 面倒ごとに巻き込まれるのは御免だ。怪異が相手でも、人間が相手でも。

 エントランスを軽く覗いて、誰もいないことを確かめてから、エレベーターを静かに待った。


 多分、いつもだったら一旦コンビニに寄るなりなんなりして、もっと時間を空けて帰った。

 酔っていたし、何より寒かったので早く帰りたかったのだ。寒さと酔いで、危機管理能力が鈍ってたんだろう。


 階数表示を眺めながら待って、エレベーターが下りてきて、乗り込んで扉が閉まった辺りで、ようやく気づいた。

 これ五階に行ってたな、と。


 2、3、4、と上がっていく表示を見ながら、ちょっとばかし不味ったかもしれない、と思った。

 思ったけれども、もう遅かった。


「あー…………」


 押した覚えもないのに、エレベーターは五階で止まった。


 『閉』のボタンを押したけれども、一向に反応する気配はない。

 扉はずっと、開きっぱなしである。


 ブザーが鳴っている訳ではないので、少なくともこの中には誰もいない。

 しかして閉まる気配が微塵もないので、なんにせよ、降りなくてはならない。


 少し──いや大分迷って、なんだったら非常ボタンを押すことも若干検討してから、渋々、真っ暗な廊下へと降りた。


 二、三歩進んで、振り返る。

 扉は開いたままだった。


 明かりがつかないだけで、作り自体は俺の住んでいる七階とさして変わりない筈だ。

 いかんせん、暗くてさっぱり見えないのだが。


 気味が悪いのは、先にこの階に着いているであろう、配信者くんの気配が少しもないことだった。


 ここで俺が取るべき方法は二つある。


 一つは階段を上がって七階に向かうこと。

 もう一つは、何やらご機嫌を損ねているらしい五階の住人のために、さっきの配信者くんを連れて帰ることである。たぶん。


 前者の方が圧倒的に簡単だろう。

 エレベーターの脇にある扉を開けて、コンクリートの階段を上がって七階にいくだけである。

 とてもシンプルだ。

 簡単すぎて欠伸が出るが、とにかく絶対に嫌だったので、俺はスマホのライトを頼りに廊下を進むことにした。


 大した距離ではない。

 七階と比べるとやや並びが違うくらいで、部屋数も変わらない。

 こんな距離で迷子になる筈がないので、恐らく配信者くんは、何処かの部屋に入っている。

 連れ込まれたのか、自分で入ったのかは知らないが。


 とりあえず、五〇一号室の前に立った。

 軽く照らしてみるが、やはり他の階と作り自体は変わらないようだ。

 インターフォンもちゃんとある。コミュニケーションを取りたいなら、これのボタンを押せばいいだけである。


「押したくねえ〜……」


 極めて素直な気持ちを抱きつつ、仕方がないので、端の欠けたインターフォンに指を伸ばした。

 機械的に間延びした音が、ゆっくりと響く。


 返事はすぐに返ってきた。


『はーい!』


 やたらと明るい声だった。

 夜中に聞くと、少しぎょっとしてしまうくらいには。


「……あのー、七階のものなんですが、そちらに誰か来てません?」

『あらー! 残念ですけど、うちには来てませんねえ』

「ああー、そうですか。ええと、お邪魔しました」

『いいえぇ、なんでも聞いてくださいねー』


 それだけ言って、ぷつん、と会話は途切れた。


 真っ暗な廊下が、再び静まり返る。


 一息置いて、なんとか五〇二号室に向かった。

 インターフォンを押す。


『はーい!』


 さっきと同じ声だった。


「………………」


 一応、プレートを確かめてみる。間違いなく五〇二号室だった。

 もしかしたら、機械を通して聞いたからそう思っただけかもしれない。


「ええと……七階のものなんですが、誰かこちらに来ませんでした?」

『来てないですねえ〜』

「そうですか」

『もう下りちゃったんじゃないですか? 階段、下には使えるでしょ』

「あー、それもそうですね」

『よかったですねー、ちゃんとわかって』


 そこで会話は終わった。

 なんとも朗らかで、にこやかな声だった。


 確かに、六階さえ通らなければ普通なのだから、階段で下りる分には何も問題はない。

 全くもって合理的な話で、信ずるに値する理由づけだった。


 エレベーターが五階で止まってさえいなければ、すぐに信じたかもしれない。

 まあ、止まっていなければそもそも降りていないので、この人……人?と会話することもない訳だが。


 俺の方こそ階段で下りちまおうかな、と思いつつ視線を落としたその時。


「うわー……自撮り棒……」


 五〇三号室の扉の前に、自撮り棒が落ちているのが見えた。

 間違いなく自撮り棒である。なんならスマホも一緒についていた。


 全部投げ捨てて降りて行った、という可能性も捨てきれないし、そもそも俺がこんなことをしてやる義理は少しもないのだが。

 どうにも据わりが悪いので、ひとまずインターフォンを鳴らした。


『はーい!』


 やっぱり同じ声だった。


「七階のものなんですが、えーと……そちらに来ている彼、引き取ろうと思っていて」

『あら! 優しいんですねえ、でも大丈夫なんですよー』


 絶対大丈夫じゃないんだろうな、という確信があったが、別にわざわざ口にはしなかった。

 黙ったままの俺に、五〇三号室の人はのんびりした口調で続ける。


『どうしてもっていうなら、鍵は開いてるんですけどねえ』

「あ。いえ、結構です」


 流石に、その勇気はなかった。

 そもそもの話、『入らせよう』としてくるやつはかなり不味い気がする。

 慌てて、間を繋ぐように言葉を重ねる。


「すみません、なんだか余計なことを」

『いいえぇー、お気遣いいただいて、ありがとうございます』

「あの」

『はい』

「帰せたりとか、できます?」

『入らなかったらよかったんですけどねー』


 まあ、確かに。

 その通りである。

 

 会話はそこで終わった。

 真っ暗な廊下で、俺のスマホのライトだけがぼんやりと手元から下を照らしている。


 落ちたままの自撮り棒とスマホをどうするか。

 しばらく悩んで、とりあえず管理人室においてこよう、と思った。


 拾ったそれを手に、階段を下りる。

 夜間は誰もいないのだが、拾得物ボックスというのが設置されていて、扱いに困ったものは此処に置いておけばいいことになっている。


 スマホと自撮り棒を置いてから、俺は試しにエレベーターのボタンを押してみた。

 拍子抜けするほどすんなりと降りてきて、扉が開く。

 乗ってもブザーが鳴ることもなく。俺は予定通りに七階へとついた。


 要するに、落とし物を拾って帰って欲しかったのだろう。

 最初からそう言ってくれればいいのに、と思ったが、すぐに考え直した。

 通じているように見えるだけで、別に会話が出来ている訳ではないのかもしれない。

 やっぱり、触れないのが正解なんだろうな。





 幸いなことに、七階には特に異常はなかった。

 七〇五号室も、あれから静かなものである。たまに郵便受けにニコニコで並んだ様子の絵が入っているので、まあ、楽しくやっているのだろう。

 本当にそうかは知らない。そうであったら良いな、とは、ちょっとだけ思う。


 自室に戻って電気をつけると、布団が盛り上がっていた。

 そう。いつものやつである。


 しばらく眺めてから、なんとなくベッドに近づいて、布団の端をちょっと捲ってみた。


 何にも入ってなかった。

 見えないだけかもしれない。


 どうでもいいか、と布団を戻したところで、めくったのと逆側の端から鋏を持った手が出ていた。

 肘の辺りまで腕が出ていて、錆びた裁ち鋏が刃を広げている。


「………………………」


 見守っていると、しゃきん……とゆっくり刃が閉じられた。


「………………………」


 そうして、瞬きの間に、しゅっと引っ込んでしまう。

 布団はやっぱり膨らんだままだった。


「………………………」


 なんで俺の布団なのに、覗いたくらいで怒られているのだろう。

 別に出て行けと言った訳でもないし、上に乗っかった時はそんな怒らなかったのに。


 なんだか釈然としない気持ちで、俺はとりあえずお湯を片手にベランダへと出た。

 威嚇されたばっかりで、一緒の部屋で消えるのを待っているのも嫌だったのだ。



「なー、居るかー」


 思えば、俺の方から呼んだのは初めてである。


 俺は隣のベランダにアクセスする方法なんて持ってないので、当然の話なのだが。

 いや、一旦部屋を出てチャイムでも鳴らせばいいのか。


 酔いが回っているせいか、どうにも考えなしに動いている気がする。

 動画配信者の件だって、いつもだったらもっと、穏便に避けれたかもしれない。


 聞こえないだろうし、来ないかな。

 そう思っていたら、隣の窓がからからと開く音がした。


「どうした、タカヒロ。珍しいね」

「さっき変なのが居てさ」

「変なの?」

「Y××Tuberだと思うんだけど」

「ふうん? 生配信?」

「いやあ、どうだったんだろ。そういや、画面確かめなかったな……」


 不思議なことに、こいつはいつの間にやらY××Tubeについても理解を深めていた。

 少なくとも、少し前まではあんまり分かっている様子はなかったのだが。怪異も成長するものらしい。


 先日も、『怪談のY××Tuberいたら見せて』と言われたので、二人で怪談師か何かの動画を見た。

 何やってんだろう、とは思ったが、そこそこ楽しんでくれたようなので、まあ良かった。


「その人が五階に行ったみたいで」

「部屋入った?」

「……らしい」

「じゃあダメだな」


 隣人は冷めた声で呟いて、後は一切の興味を失ったようだった。

 この断定は、本当に駄目なタイプの『ダメ』である。もう戻ってはこないんだろう。


 ああ。

 ただバズりたかっただけだろうになあ。


 ていうか、やっぱり全然大丈夫じゃないじゃねえか。

 明るく響く声がまだ耳に残っている気がして、なんだか居心地が悪くなる。


 窓越しに布団を確かめてから、まだ退かねえな、と思いつつ話題を変えた。


「あのさあ、一個気になってるんだけど」

「うん?」

「お前って、なんて呼べばいいんだ?」


 先ほど呼びかけた時に、ふと気になったことである。


 今まで、半年以上一緒に居た訳だが、俺はこいつの名前に興味を持たなかった。

 入居時にも誰も教えてくれなかったし、知ったところでいいことがあるとも思えなかったから、知ろうとも思わなかった。

 それはきっと、正しい判断なんだろう。

 けれども、友達の名前を知らない、というのも、思えば変な話である。


 少しの間を空けて、笑い声が響いた。


 別に、嫌な笑いではない。

 単純に愉快で堪らないというだけで、馬鹿にしたような響きは一つもなかった。


「あのねえ、名前をつけると形になるからよくないんだよ」

「…………そういうもんか」

「言葉にすると信じるでしょう」

「……なるほど?」


 何がなるほどかは全然分からなかったが、とりあえず、分かったようなフリをしておいた。

 頭が上手く回っていない気がする。

 やっぱり、酔いがまだ残っているのかもしれない。


 くあ、と欠伸を溢す俺の横で、隣人は何だかしみじみとした声で言う。


「タカヒロは全然信じないから、いいね」

「……何が?」

「他の友達はみんな信じちゃうから。嘘だって分かるようにしてるのにね」


 先ほどまでと全く変わらず、どこまでも楽しげな響きだった。

 この場合の『他の友達』というのは、架空の存在のことではなく、七〇二号室ここに住んでいた人間のことだろう。

 俺より前に住んでいた人間の話だ。

 そしてやはり、こいつはそれらと怪談の中の『友達』を区別している。


 俺は、こいつの語る怪談が全くの架空の話だと断じている。

 感覚として分かるからだ。そういう風に向こうがしている、ということなのだろう。


 それでいて、そうしてもらっていても尚、信じてしまう人がいる訳だ。


「……信じたらどうなるんだ?」

「信じた時に分かるよ」

「要するに、信じないでいた方がいいんだな」

「そうだね」


 あんまり答える気のない声の響きだったので、俺もそれ以上は聞かなかった。

 信じるだとか信じないだとか、形のない感覚的な話を突き詰めたところで、しょうがない気がする。


 何をどこまで、いつまで信じないでいればいいのだろうか。

 ぼんやりと夜空を眺める俺に、隣人は軽い調子で口を開く。


「この先ずっとだよ」


 笑いまじりに呟かれたそれに、俺はゆっくりと吐息を溢した。

 それはまた、随分と果てのない話だった。


 まあ、でも。

 先があるだけ、まだマシである。


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