『芋虫』
「友達から聞いた話なんだけどね」
中学生の頃の話だ。
普段通る道に、いつからか、よく芋虫が落ちているようになったのだという。
別にそれだけだったら不思議な話でもない。
その通りには庭木の立派な家が何軒もあって、春になると蝶が舞うのも珍しくなかった。
蝶がいるのなら、当然芋虫だっているだろう。
友達も、毛虫じゃないだけマシだと思ったくらいで、特に気にすることもなかった。
少し変だな、と思い始めたのは、落ちている芋虫の数が増えてきたあたりだった。
一匹二匹だったら、木から落ちたと言っても納得出来る。
でも、それらは十匹近く、それも等間隔に並んでいて、脇の小道に続いていたそうだ。
生きてはいるようだが、弱っていてあまり動く気配はない。
子供の悪戯だろうか。
小さい子というのは、結構生き物で遊びがちである。
別に害のある虫でもないし、飛びかかってくる訳でもない。
邪魔だと思ったら避けて歩けばいいだけだ。
わざわざ片付けなくとも、鳥だのなんだのが来てすぐに食べてしまうだろう。
その道を通らないと家まで変に遠回りになってしまうので、友達は変わらず同じ道を使い続けたそうだ。
そうしている内に、なんとなく芋虫の先が気になってきたのだという。
芋虫たちは、友達が使っている比較的広い道から、細い路地に向かって並んでいる。
友達は真っ直ぐ進んで別の通りに出てしまうし、先もまだまだ長そうで、覗いただけで終わりを確かめるのは難しそうだった。
初めて見た時からひと月ほどが経っていたが、芋虫はまだ置かれている。
ここら一帯にいる虫なんてそう多くはないから、此処で捕まえたものではないだろう。
飼育して増やしでもしているのか、はたまた別の場所から連れてきたのか。
分からないが、誰かが一定の執念を持って芋虫を配置していることは確かだった。
ある時。
学校が半日で終わった日に、友達はその芋虫を追ってみることにしたそうだ。
単なる興味本位だったという。
こんな変なことを趣味にしている人間がいると思うと不思議な気分だったし、何より、もしかしたら本当は何か意味のあることかもしれないと思うと好奇心を刺激された。
芋虫たちは、道に等間隔に並んでいた。
大人の大股で二、三歩ごと、といった調子だ。
友達が普段使っている道には八匹並んでいて、そこから右に曲がって更に続いている。
周囲の住宅が高いせいか、若干影の濃い道だった。
よくよく見ていないと、芋虫が落ちていること自体に気づかないかもしれない。
うにうにと体をくねらせている個体が何匹かと、完全に死んでいるものが何匹か。
進んでいく内に、友達はちょっと変だな、と思ったそうだ。
芋虫の様子が、段々普通ではなくなっているのだ。
頭が潰されているものや、串や針が刺さったものが増えている。
明らかに害意を持った扱いをされた芋虫たちの列が、道の奥まで続いている訳だ。
小道の奥には何処かの民家の塀があって、丁字になっている。
恐らくは別れた道のその先にも、芋虫たちは右か左に続いているのだろう。
友達はそこで、なんだか妙に気分が悪くなって、引き返すことにしたそうだ。
多分、誰か一人でもいつもの仲間がいたなら、無理して進んでいただろう。
けれどもその時は自分しかいなかったし、帰ったところで何一つ問題はなかった。
そう思って踵を返した友達が、元の普段使っている通りに出ようとした瞬間。
男の声で、
「あー、惜しい」
と聞こえたそうだ。
それは例えば、せっかく決まるはずだったシュートを外したような、クレーンゲームで景品がギリギリ取れなかったような、そういう軽い響きの声だった。
別に何か、強い感情のある言い方ではなくて、だからこそ不気味だった。
友達は振り返ることもなく道を抜けて、それからは違う道を通るようにしたそうだ。
「────怖かった?」
「おう、怖かったよ」
引き返していなかったらどうなっていたのだろう。
知りたいような、知りたくないような。
好奇心は猫をも殺すというから、やっぱり興味を持たないのが一番なんだろう。
加えて言うと、一応は都会っ子だからか、虫は苦手だ。
芋虫毛虫もそうだし、特に部屋に出てくるアレとか。アレとか。それとか。
そういえば、このマンションではあの類の害虫は見ない気がする。
もしかしたら、何かしらの存在が魔除け的に虫を払っていたりするんだろうか。
それとも単に立地か。
一番有力なのは、そもそも入居者が少ないから、かもしれない。
「タカヒロも変なのについてっちゃ駄目だよ」
「いや、行かねえよ。何歳だと……ああ……」
何歳だと思ってんだ、と言おうとしてやめておいた。
二十歳だと分かった上で、六歳くらいに思われている。
先日鏡開きをしたから、もしかしたらもうちょっと上かもしれないが。
餅は結局、食べれるだけは食べた。
せっかく木槌も買ったしな、というノリで。
食べ物として何かおかしい訳ではないようだし、腹も壊さずに済んだのでよしとしよう。
なんだったら、結構美味しかった。
正月に限らず、わざわざ餅を食う意味があんまり分かっていなかったのだが、これからは食べる機会を増やしてもいいかもしれない。
もちろん、既製品を買う、という話だが。
「まあ、気をつけるよ。行ってきます」
「いってらっしゃい」
出勤前だったので、俺は挨拶と共に部屋に引っ込んだ。
もう身支度は整えてあるので、あとは鞄を持って部屋を出るだけである。
横目に見る限り、今日は布団は静かだった。
一応、部屋を出る時に郵便受けを確かめる。
最近は澄江由奈からの手紙が、ちょこちょこ入っていたりするのだ。
別に内容は大したことではない。
『おかあさんをください』と、あとはその日の気分で内容が変わる。
『わたしはちろろちょこがすきです おにいさんはなにがすきですか』だとか。
『いもうとがほしいです』だとか。
『もっとうさぎのしゃしんがほしいです』だとか。
最後のは、この間動物園に行った時の写真をあげた後に入っていた。
相手がなんだろうと、ご近所付き合いは上手くやった方がいいかな、と思って、一枚入れてみたやつだ。
澄江由奈自身、隣のあいつにはなにかしらの筋を通した様子だったしな。
一体いつ話したのだろう。
まあ、仮に近所付き合いの会があるよ、と言われても別に行きたくはない訳で。
気にはなったが、わざわざ尋ねたりはしなかった。
◇ ◆ ◇
今日のシフトはニラジさんと一緒だった。
別に何が起こるでもなく、普段通りに仕事を終える。
帰り道では毎回、高架下を通る時に若干の警戒心が湧く。
気づいたら白いワンピースの女が現れたりしないだろうか、と不安になるのだ。
全く、とんでもないことをしてくれたものである。ちょっとしたトラウマだ。
俺に許容できるのは精々が話を聞くくらいのもので、生身で怪奇現象と遭遇するのは勘弁願いたい。
隣に暮らしてんだろ、という話は置いておいて。
だって、顔馴染みがヤバい怪異であることと、見も知らぬ謎の怪異が襲ってくるのは別問題だろう。
そう考えると、あいつはそれなりに俺の中でも友人ということになっている、のかもしれない。
グミだって買っていってやってるし。
動物園の写真もあげたし。生姜焼きだって奢ったし。
あとは最近、ジェンガもしたし。
それからリバーシもした。あいつ、怪異のくせにリバーシ結構強いんだよな。
……俺が弱いだけか?
頭使うゲームなんて殆どやってこなかったしな。
ハヤトは結構詳しいらしいが。
などと思いながら角を曲がって。
俺は前方に立つ人影を見て、足を止めた。
女が立っていた。
多分、あの人である。
確信が持てなかったのは、少なくとも俺の記憶の中では、あの人は間違いなく人間だったからだ。
顔が真ん中から縦に割れていたりもしないし、両腕もあんなに長くはなかったし、舌もあんなに長くなかった。
ああ、いや。
人間の舌は案外結構長いらしいから、もしかしたら、あれが本当の長さなのかもしれないが。
俺はぼんやりと突っ立ったまま、ふらつきながら近づいてくるあの人を眺めていた。
人間というのは、ここまでになっても案外区別がつくもんなんだなあ、と思った。
どうでもいいことを考えているのは、ただの現実逃避だ。
夢で顔を合わせて以来、俺はあの人についてはあまり考えないようにしていた。
多分生きているんだろうな、と思っていたし、半分くらいは、もう生きてないのかもな、と思っていた。
どっちでも嫌だから、考えない方がマシだと思ったのだ。
だが、まさか、どっちつかずの状態で現れるとは思っていなかった。
マンションに居れば安心なんじゃなかったっけ。それとも、あいつが呼んだのだろうか。
違うだろうな。呼んだら友達やめるって言ったし。俺はそう断言したし、実際に覚悟を持ってそうする。
絶対に譲らないつもりでいることなんて、あいつには分かっている。
だからきっと、いろいろな要因が重なった結果、ここに居るだけなんだろう。
死に損ないのあの人は、いつものように泣いていた。
痛い痛いと繰り返して、上手く使えない手足で俺に縋り付いていた。なんで抱き止めているのか、俺にはちょっと分からなかった。単に、理解が追いついていないか、あるいは、理解したくないのかもしれない。
日が出始めているのに、誰も通らなかった。
普段は朝早くに通勤する人が、結構通る筈なのだけれど。
もしも誰か一人でも通りかかったら突き飛ばせたかもしれないのに、誰もいないから俺はずっとあの人の声を聞いていた。
夢の中で聞いたのと、さほど変わらないことを言っている。気がする。言葉らしい言葉になっていないし、何より上手く頭に入らないので、やっぱり勝手に俺の脳味噌が補完しているだけだった。
痛い痛い、と耳元で泣き声がする。
その切羽詰まった鳴き声を聞きながら、ふと、いつものは嘘泣きだったんだなあ、と察した。
なんと言えばいいのか、響きが全く違った。俺は多分、生まれた時から嘘泣きしか聞いてこなかったから、この人はこういう泣き方をするんだ、と思っていたのだが。
多分、今のこれが本当の声なのだろう。心の底から苦しんで、自分を上手く取り繕う余裕もなくて、ただ絞り出すように呻いている、動物みたいなこれが。
本当は違うのかもしれない。俺がそう思いたいだけかもしれない。でもまあ、そんなのはどうでもいい、些細なことだった。
助けて、と、痛い、が半々くらいに混ざって響いている。
そのくらいしか言えるリソースがないのだと思う。
だって、頭は半分に割れてるし。よく分からない肉がどんどん溢れて、落っこちているし。
もしかして、俺が何もせず放っておいたら、この人は一生このままなんだろうか。
死んでいるのか生きているのかは知らないが、とにかく、このまま一生、痛みに呻きながら動いているしかないんだろうか。
可哀想だな、と思った。素直に思った。
それは別に同情だとかではなくて。許してやりたいと思った訳でもなくて。
そこまでされるほどのことをしただろうか?という純粋な疑問だ。
でもきっと、人生というのは見合った応報があるなんてことはなくて、単に上手く世界を泳げなかったら、いつだって
悪いことをした分だけの罰をちょうど受けられるなんて、そんな都合のいい話はないのだろう。
あの人は俺に抱きついたまま、ずるずると何処かへ歩き始めた。
ついていったらヤバいんだろうな、とすぐに察する。
そんなんは馬鹿でも分かる。つまり俺でも分かった。
でもなあ、と頭の片隅が勝手につぶやく。
そもそも俺があのマンションに行かなかったら、流石にこの人だってこんなことにはならなかったかもしれないし。
そうなったらやっぱり、俺にも責任の一端はあるような気がするし。
というより、もしかしたら、俺は責任を取る、という形で何かを終わらせたいのかもしれない。
なんて思いながら引き摺られている内に、ふと意識の端に何かが引っかかって、前方を見上げた。
この道路からは、例のマンションベランダ側が見える。
七階の角で、なんだかソワソワした調子の影が、ベランダを彷徨いているのが見えた。
遠すぎて、形はよく見えない。
そもそも、角度的にもちょっぴり覗いているだけだ。
見慣れた形の手が、ゆるく空に振られている。
変なのについてっちゃ駄目だよ、という声がなんとなく脳裏に浮かんで、俺はポツリと呟いていた。
「あー…………いいよ、お母さんあげても」
こんなんで聞こえるもんかなあ、と思ったけれど、俺を引きずっていたあの人の足が止まった。
それからなんだか、ものすごい悲鳴が上がった。
俺はあんまり見ないようにしていた。だって見たくなかったし。それだけだ。
劈くような叫び声だったのに、近所の人間が反応するような素振りはなかった。
実際には聞こえていない声なのかもしれない。あるいは聞こえていて、知らないふりをしているのかもしれない。
俺も深夜に怒鳴り声だの悲鳴だの聞こえてもわざわざ出て行かないから、そんなもんなんだろう。
絡みついていた腕はいつの間にか離れていた。
姿が消えているかどうかは、特に確かめなかった。
そうして、なんだか妙に重い身体でマンションまで戻って、なんだか死ぬほど疲れたからそのまま寝た。
翌朝。
郵便受けには見慣れたノートの切れ端が入っていた。
『ありがとうございます だいじにします』
ちょっと曲がった字で、それでも精一杯丁寧に書かれている。
どうやら大事にしてくれるらしい。
何よりである。
「よかったなあ」
全然、全く良くはなかったが、そう呟いておいた。
言っておけば、そうなるような気がしたからだ。
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