初夢
あの人は不満がある時、よく泣きながら物に当たった。
殴ったり叩いたりして痕が残ると面倒だからと、代わりにその辺のものを壊しにかかる訳だ。
私はこのくらい傷ついていて、このくらい怒っている、というのを、物を壊すことで表していた。
直接的に傷がつかなければ暴力ではない、と考えている人だったのだ。
まあ、あるいは分かっていて見ないふりをしていたのかもしれない。
目を開けてすぐに、これは夢だと気付いた。
視界に映る間取りが子供の頃に住んでいたアパートで、布団にはあの人が寝転んでいて、俺の身体は随分と小さくて、そして、手には包丁があったからだ。
黙って包丁を戻したあの日から、俺はたびたびこの夢を見る。
現実世界では、あの人は何も気づかずに寝ていた。
夢の中では、俺がまごついている間に目を覚ます。
そうして俺に飛び掛かって、馬乗りになって首を絞めてきて、大抵、苦しくなって目が覚める。
一応断っておくと、現実のあの人は俺を殺そうなんて考えたことはない。
そりゃあ、死んだら嬉しいとは思っていたかもしれないが、それは誰が見ても確実に過失のない事故だと分かる状況で、の話だろう。
事故だろうと、己に非のある理由で殺したりでもしたら、自分の方が加害者になってしまうからだ。
もしかしたら、殺した後でさえ被害者面をしてみせるのかもしれない。けれども、世間はそれを許さないだろうし、何より自分の心を守ろうとするあの人には、きっとそんな扱いは耐え切れないだろう。
あの人にとって、加害者は俺だ。ずっと俺だけが悪かったし、俺だけが悪くなければならない。
子供が出来れば結婚が出来る筈で、結婚が出来れば幸せになれる筈だったのに、産まれた俺のせいで全てがどうにもならなくなったからだ。
幸せを引き戻す手段として痛い思いをして子供を産んだのに、子供は自分を幸せにしてくれなかった。
だから悪いのは子供である俺であり、罰せられるべきは俺であり、ただ親であると言うだけでその責を負わねばならないなんて、私はなんて可哀想なのだろう、と心底自分を憐んでいた。
あの人はよく、虐待関連のニュースがあると俺をテレビの前に引っ張っていった。
そうして何処か甘えた口調で囁くのだ。お母さんはちゃんとしてるでしょ、と。
『たまにね、赤ん坊を捨てたり殺したりする碌でもない女がね、いるでしょ。おかあさんはそういう女とは違うの。×××××のことを捨てたりせずにちゃんと育ててるでしょ? ちゃんとお母さんしてるでしょ? この世にはね、×××××よりももっともっと大変な思いをしている子がいるのよ、そういう不幸な子と比べてごらん。×××××はご飯も食べれて、寝る場所もあって、寒い中放り出されもしないし、ほらね? お母さんはちゃんとしてるでしょう。
お母さんは×××××のために毎日大変な思いをしてるの。だから×××××もお母さんのために我慢しなきゃいけないの』
それは確かに、事実の一面ではあっただろう。誰にも頼れない、自分で生きる力にも乏しい、崩れやすくて脆い人が、それでもひとりで母親をやらなければならない、というのは、耐え難い辛さがあった筈だ。
そもそもが、好きで産んだ訳ではないのだ。好きな人の子だから産んで、その結果、あの人だけが純愛だと勘違いをしていたものだから、酷いことになった。
俺が出来たせいで愛する人にさえ逃げられて、産んだ俺の価値が足りないから戻ってくることもなくて、そうして一人で、しなくてもいい苦労をしている訳だ。
だからやっぱり、俺が悪いと言うことになる。俺という個人ではなく、俺という存在が悪い。
印象がマイナスから始まってるものだから、俺はそれを常にプラスに──は無理だから、少なくともゼロにはしていなければならなかった。
当然、無理な話だ。呼吸してるだけでもムカつくだろう相手が、呼吸しながら何をしようと苛立つだけである。
けれども。常にそうかと思えば、あの人はたまに、ぞっとするほど優しく俺を甘やかした。
昔の俺が感じていた薄気味悪さを言葉にするなら、あの人は時折、『ちゃんと母親をしている』という実感を自己肯定に繋げている節があった。
俺を『可愛い子供』と定義することで、『可愛い子供がいる私』は幸せなのだと思い込もうとしていた訳だ。
『×××××、今日誕生日でしょう? 美味しいケーキ買ってきたから、一緒に食べようね』
全くもって一欠片も掠っていない日を俺の誕生日だということにして、切り分けたケーキを食べる。
あの人はずっと笑顔で、たぶん、外の付き合いで何かがあったのだと思うけれど、それは俺には理解の及ばないことで、ただ、こういう時に頼み事をすると通る時があるから、俺は好きでもないケーキを、出来る限り喜んで食べていた。
高校に進学出来たのは、俺の誕生日ケーキを買ってきた日に頼んだからだ。やっぱり、その日は全く誕生日では無かった。
それでも、小さい頃は本当に嬉しかったと思う。
もしかしたらこのまま、明日からはこれが続くのかもしれない、と、馬鹿みたいな希望を抱いていた。
結局、二人じゃとても食べきれないサイズのそれの残りが冷蔵庫に押し込まれて、次の日も次の日も放置されて、他に食べるものもないからと仕方なく残ったそれを食べている内に、夢から覚めるように正気に戻る訳だが。
ところで。この夢は一体いつになったら覚めるのだろう。
子供の俺は包丁を片手に、眠っているあの人をいつまでも見つめていた。
起きないと終わらない、という感覚はある。これまで通りなら、待っていれば勝手に起きる筈なのに、いつまで経っても眠ったままだった。
寝顔は、嘘みたいに穏やかだ。あの時と何も変わらない。
だから結局、俺は怒りも叫びもしないこの人を前にどうすればいいか分からなくなって、あれこれと言い訳をつけて戻ったのだ。
けれども。本当は、殺してやった方が良かったのかもしれない。
この人は多分、勝手な物言いで判断するなら、生きていくのに向いていない人だった。
いっそ殺してやる方が、この人の為だったのかもしれない。なんだったら、俺が産まれるよりも前に。俺なんかを産む前に。
もしかしたら俺はあの時、選択を間違えたのかもしれない。
「あ」
胸元に刃先を突き立ててから、何やってんだろう、とぼんやり思った。
わざわざ俺が殺してやるべき理由なんてひとつもないのに、何をやってるんだろう、と思った。
生きていくのに向いていないのならそれなりに責任の取り方はあって、まあ、それは別に全く責任を取るなんて呼んでもいいような行為でもなくて、けれども生きているだけで素晴らしいなんてこともなくて、ただ生まれたからには当然生きていくしかない訳で、俺は生まれたくもないのに生まれてきて、生きていたくもないけど死にたくもなくて、だから出来る限り努力をしようとしていて、他人の邪魔をしないように必死になっているのに、この人は俺の邪魔をしてまで生きたい訳で、そんなやつを、わざわざ俺が殺してやるべき理由なんて何処にもなかった。
動機はあるかもしれないが。なんでそんなことをしなくちゃならないんだろう。
何処か知らないところで死んで欲しい。死んだことすら知らないままでいたい。あるいは最初からいなかったことになってほしい。無理だけども。この人がいないなら俺はそもそも産まれていないので、いなくなったこの人を知覚する俺自体がいない訳で。
そうなると、まあ結局、産まれてきたくなかった、というのが結論になる訳だが、俺のこれだって、ただの被害者面なんだろう。
俺よりも大変な人間なんて、世の中には無数にいる。その人たちは、俺より余程立派に生きている。
嫌な夢だなあ、と思った。
毎回そうだが。今回は特に。
早く覚めてくんないかな、と何処かの何かに祈っていると、不意に、血走った目と視線が合った。
眠っていた筈のあの人は見る間に起き上がって、俺に掴み掛かる。
「お母さんを殺すだなんて、あんたはなんて酷い子なの」
包丁を胸に突き立てられたまま、あの人は喉に溜まった血を吐き出すように、ごぽごぽと言葉を繋げた。
歪な音だ。そもそもこんな声だったかもよく覚えていない。
あの人に会った後は、いつも頭が痛くて、記憶が碌に留まらない。大体が、いつも何か叫んでいるし、泣いてるから、まともな声は更に記憶に残らないのだ。
そういえば最近は頭が痛くないな、と殴られながら思った。あの人は俺を殴らないので、これは俺が作り上げた、何らかの感情による虚構である。
それが何かはあまり考えたくなかった。自分と向き合う時には、自分の抱いている感情を知らないとならないらしいが。そもそも別に向き合いたくもない。
首を絞められているのに目が覚めない。苦しくないからかもしれない。何故苦しくないかも分からない。
あの人は、唾を飛ばしながら何やら叫んでいた。
まあ、多分、いつも通りのアレだ。
なんでお母さんに苦労ばかりかけるのだとか、私はもっと幸せになるべきなのにだとか、どうして私ばかりが苦しまなきゃならないのだとか、何で誰も助けてくれないのだとか、育てた分の恩を返すべきだとか、そういうことだ。
脳味噌が聞き入れるのを拒否しているから、これまでに聞いた文言を繋ぎ合わせて予測している。
そもそもが夢なのだからそういうものの筈だが、そこでふと、俺の耳は聞き慣れない言葉を拾った。
「あんた、そこ出なさいよ。███様が視てくれないじゃない」
ゆっくり、瞬きをした。
なんだろう。
確かに聞き取ったのに、頭の中で形にならない音だった。
「お母さんはこれから幸せになるんだから、███様がそう約束してくれたんだから、子供ってのは親を幸せにするために生まれてくるの、だからあんたは私を幸せにしなきゃいけないの」
これは、単なる俺の夢、の筈である。
だからきっと、俺が言われてきたことと、言われたくないことを再構成して流しているだけ、の筈である。
けれども、俺には███様なんて名前は聞き覚えがなかったし、今し方聞き取った筈なのに、上手く覚えても居られなかった。
何かがおかしい。
けれども、何処がおかしいのかが、俺には具体的に掴めなかった。
「×××××はいい子だから、お母さんの言うこと聞けるでしょう? お母さんね、あんたのこと産んでよかった、って思いたいの。産まれてきてくれて本当に良かった、って喜びたいの。だから早くそこから出て」
そこ。
というのは、多分、あのマンションを指している。
この人は、俺が例のマンションに暮らしていることを知らない筈だ。少なくとも知ってるなら、すぐに来ている。
これが俺が見ている夢でしかないのだとすれば、俺しか知らないことをこの人が喋っていても、記憶の再構成なのだから何ら不思議はない。
でも、これがただの夢ではないのだとすれば、この言葉には明確な意図がある筈だ。
誰の?と聞かれれば、多分、███様の。そして、この人自身の。
「ねえ、×××××」
やけに甘えた声が響いた、その時。
チャイムが鳴った。
短めの、古い作りのベルの音だ。
首を絞めていた手が緩む。顔を上げて視線をやった先には、玄関の扉があった。
俺も、首を回してそちらを見やる。
もう一度、チャイムが鳴った。
玄関脇には小窓がついている。外は真っ暗で、物音ひとつしない。
夜だから、ではないのは、俺にも、そしてこの人にも分かっていた。
返事がないせいか、今度はノックの音が響く。
それでも答えず──答えられずにいると、扉の向こうから声が掛かった。
「タカヒロー、あそぼー」
随分と呑気な、間延びした声だった。
少し声色が違うが、あいつだ。
ぼんやり聞き入れる俺の上で、ひ、と妙に引き攣った、呼吸の出来損ないみたいな音が溢れた。
「タカヒロー、ねー、あそぼー」
腕を伸ばしてるのか、ノックの音は妙に高い位置から響く。
すっかり動きを止めたあの人は、あいつが扉を叩く度に身体を強張らせて、悲鳴の切れ端のような声を溢していた。
不明瞭なその響きは、やはり誰かの名前を呼んでいる。
███様、と縋るような響きが繰り返し、乾いてひび割れたような調子で聞こえる。
そこに「おすくいください」という文言が混じった瞬間、扉の向こうで平淡な声が響いた。
「タマグスなら来ないよ」
今度こそ、明確な悲鳴が上がった。聞き慣れた、甲高い嫌な音だ。
叫び声に引かれて顔に目をやって、俺はそれからすぐに後悔した。
真っ赤に染まったあの人の口から、冗談みたいな量の血が溢れていた。
あっという間に腹まで赤く染まって、それでも尚、抑えきれないように溢れ出る。
目を逸らせないでいる内に、たぶん、
最初に腹部が膨れ上がって、逃げ場所を探すように四肢へと流れる。皮膚が歪にあちこち伸びて、手足の太さは倍くらいになって、顔だけが普通で、どんどん肉に埋もれていって、そうして、あの人は見知った姿の三倍くらいに膨れてから、破裂した。
ばんっ、と水の詰まった風船が弾けるみたいに。
増えて弾けた中身には、骨も内臓も、何も無かった。
全部が全部、中で綺麗に溶けて混じり合ったみたいに、粘度の高い、濁った赤い水だけが飛び散った。
当然、下にいた俺は殆どそれを引っ被る。
反射的に瞼を閉じたので、目に入るようなことはなかった。
生温いそれを腕で拭ってから、恐る恐る、目を開く。
肘をつき、中途半端に身体を起こしてから、俺はゆっくりと辺りを手探りで確かめた。
残念なことに、視界は至って明瞭である。それとは裏腹に、俺の脳は眼球から入った情報を少しもまともに処理しようとはしなかった。
全く、本当に全く、欠片も理解が追いつかない。
けれども、単純な事実として、あるいはただの文字の羅列として、『母親の形をした肉袋が、膨れ上がって弾け飛んだ』という文面だけは頭に浮かんでいた。
起こした筈の身体が、気づけば膝をついて蹲っている。
吐きたいけれど、吐けるようなものが何も胃に入っていない。空気ばかりが気持ち悪い音を立てて出ていって、舌の奥が嫌な感じに引き攣っている。
しばらくえずいたような咳を繰り返してから、俺はようやっと、緩慢な動きで立ち上がった。
ぼんやりと、半ば無意識の仕草として、玄関へと目を向ける。
扉の向こうからは、変わらず呑気な声が響いた。
「タカヒロ、あそぼー」
「…………」
いいよ、とは言い難かった。何も良くはないからだ。
全身が妙に暑くて、それなのに手足だけが変に冷たくて、気味の悪い汗を掻いていた。
何だか喉が乾いている。みず、と知らず呟いて、ぼろいシンクへと向かう。
蛇口を捻るが、何も出なかった。血糊が指の形に残ったが、これも流せそうには無かった。
あいつは、扉の向こうから俺を呼んでいる。入って来ようとしないのは、何か理由があるのだろうか。
分からない。本当に、何も分からなかった。分からないことは、考えてたって仕方がない。
タカヒロ、と呼ぶ声を聞きながら、玄関へと近づく。
ノックの音も、断続的に続いていた。
「……遊ぶって言っても、何するんだ」
「鬼ごっこ」
「…………お前が鬼か?」
「うん」
「じゃあ嫌だよ」
何某かの不満を伝えるように、どん、と鈍い音が響いた。叩かれた扉が揺れる振動が、置いた手のひらから伝わる。
それでも嫌なものは嫌だったので、特に譲るつもりはなかった。
「タマグスって誰なんだ」
「知らない」
知らない訳あるか、と思ったが、突っ込むのも何なので、代わりの問いを口にした。
「…………あの人、生きてるのか?」
「どっちがいい?」
「……問いに問いで返すなよ」
「どっちがいい?」
「………………」
黙り込んだ俺に、隣人はゆっくりと続けた。
「ジュリナはねえ、もうつかまったから、大丈ぶだよ。タマグスは自ごうじとくだからね、しかたないから、たまぐすがせき任をとるよ、たまぐすがワるいんだからもん句いう方がおかしいからね、よくないことしたらおこられるからしかたないね、おれはがまんしてるのに」
端切れ未満の何かを無理やり継ぎ合わせて、一枚の布にしているような声だった。
どうにも感情が乱れてるのか、それとも場所が悪いのか、いつになく拙い響きで紡がれる言葉を聞きながら、とりあえず、さっきの
そうなると、此処が部屋の中であることにも、やっぱり意味があるのだろう。
あいつは外にいる。古びたアパートのちゃちな鍵なんて、壊そうと思えば人間でも壊せるのに。
「それに、ジュリナはもうだめだよ」
「……ダメって、どうして」
「つかいすぎた」
「…………何を?」
「にんげんはそんなうまくできてないから、もうだめだよ」
響く声からは、すっかり興味の熱が失せていた。素っ気なく、淡々とした事実だけを述べる声音だ。
そこから、今度はちょっと、呆れたような声で呟く。
「あと、たまぐすに頼るようなのは、どっちにしろダメだよ」
「だから、タマグスって誰だよ」
「ミヨコを騙してたやつ」
「ミヨコは誰なんだよ」
「ハヤトのばあさま」
俺はとりあえず、明確な現実逃避として一旦目を閉じてみた。そもそもの事実として、此処は全く現実ではない訳だが。
こいつにハヤトの話をしたことはない。ないけれども、あの人の話だってしたことがないのだから、全部が全部、今更だった。
何だかひどく疲れてしまって、その場に座り込む。
べったりと汚れた衣類でも不快感を感じないのは、きっと此処が夢だからだろう。
しばらく目を閉じていたが、起きる気配もなければ、これ以上眠る気配もなかった。
散らばった話から推測するに、あの人はどうやら、タマグスとかいう占い師に頼ったらしい。いつからかは知らない。あの人はハヤトの婆ちゃんとは違って、ただ普通におかしいだけで、変なルールを俺に押し付けることはしなかったから。
もしかしたら俺を見つけに来ていたのも、そういう、超自然的な方法でも使っていたのかもしれない。
まあ、方法がどうかなんて、俺にとっては関係のないことだ。大事なのは、これからどうなるのか。それだけだ。
あの人は俺に、此処から出て欲しい、と言った。だったら、その逆をすればいい訳だ。
「……よく分かんねえんだけど、とりあえずマンションに居ればあの人は来ないってことだよな」
「呼んだら来れるよ」
「でも呼ばないんだろ」
「うん」
これについては嘘ではないな、と思った。
俺が勝手にそう思いたいだけかもしれないが、信じた上での責任を取るのは俺なのだから、何の問題もない。
それに、『呼んだら来れる』を嘘ではないことにすれば、呼びは出来る訳で、少なくとも、生きてはいることになる。
何処か知らない場所で死んでくれるなら、それでいい。それがいい。一番マシだ。
目の前で破裂するあの人を見た時、俺は確かに怯えたからだ。人間が風船みたいに膨らんで死ぬことにでも、液状に溶けた内臓を全部引っ被ったことにでもない。
あの人が、俺を産んでよかったと思おうとしている──という事実を喜んだ自分に、だ。
どうやら、俺は此処に至ってもまだ嬉しいらしい。役に立って、産んでよかったよ、と言われたいらしい。
俺は今でも、あの人がケーキを買ってきたら、喜んだふりをして食べるだろう。そして、幻想に半分くらい浸かった脳味噌では、本心から喜んでいるのだろう。
今すぐ飛び降りたくて堪らなかったから、此処がマンションじゃなくて良かったな、と思った。
衝動に任せたって、どうにもならない。どうせ。
「ねー、タカヒロ、あそぼう」
「…………じゃあ、しりとりしようぜ」
「うーん……? うーん……いいよ」
良いのか。
大分ヤケクソ気味に持ちかけただけなんだが。
「じゃあ、リゾット」
「トリヌケリ」
「なんて?」
「トリヌケリ」
「……りんご」
「ゴマフジノメサリ」
「……リトマス紙」
「シノマイコユズリ」
「…………やっぱジェンガとかにしようぜ」
「じぁんが」
「ジェンガ、知らんか。積み木みたいなの組んで重ねて塔にして、引っこ抜いたのを上に乗せるんだよ」
「ふうん? ……んん? ええと、それは何がおもしろいの?」
「いや、面白さとかはよく分かんねえんだけど……崩れるハラハラとか? でもまあ、ベランダでやったら良さが消し飛ぶわな……」
このまま、しりとりが終わるまで延々知らない言葉を聞かされるのかと思ったら、遊びを変えたくなってしまった。
俺が知らない言葉すぎて判定が出来ないし、しかもこいつ、地味に初手からリ攻めを始めている気がする。
なんてやつだ。知らねえ言葉に突っ込めねえんだから、こっちが確実に負けるじゃねーか。
とりあえず遊びは中断して、今度何か買っていく約束をして、この場はのらりくらりと躱しておいた。
「ところでこれ、一生起きれないとかないよな」
「ないよ。でも、居てもいいよ」
「いや、俺は起きてせっかく買った飯を食いてえよ。それに此処汚ねえし」
逃げるための口実でも何でもなく、極めて素直な感想であった。
だってなあ、と後ろを振り返る。
薄暗く狭い室内には赤黒い液体が広がっていて、あちこちに俺の残した足跡と手形がこびりついている。大分どころでなく最悪の光景だ。
もう二度と、無事だった頃の部屋は思い出せそうになかった。今後夢に出るとしたら、まずこっちだろうな、と思う。
「七日まで居てもいいのに……」
隣人は何だか恐ろしいことを言いながら名残惜しそうにしていたが、渋々ながらも見送ってくれた。らしい。よく分からん。分かりたくもない。
そうして。
気づいた時には、自室のベッドで天井を見上げていた。
カーテンの隙間から見える外はまだ暗くて、スマホを確かめるに朝の四時だった。
ついでに確認してみるが、身体の何処にも血糊はついていなかったし、首にも妙な痕はない。夢はあくまで、夢でしかないようである。
けれとも、妙な倦怠感は残っていた。これは肉体的に、というよりは、精神的にかもしれない。
夢だろうと夢でなかろうと、結局はあの人に会ってしまえば、ひどく疲弊することに変わりはない。
一旦、このままもう一度寝た方がいい。考え事はそれからだ。
俺は再度布団に潜り込みながら、それにしても、と盛大な溜息を吐き出した。
「…………初夢がこれかあ」
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