大晦日
バイト先は、大晦日から三が日までは休業日となった。
近くに競合店がある場合は赤字覚悟で開けたりするらしいが、この辺りにある他のコンビニはそもそも24時間営業ですらないものが一軒だけだ。
店長としても、開けておくメリットがあんまりないらしい。
そういう訳で、俺は自室でのんびり大晦日の夜を迎えている。
炬燵でもあれば良かったが、あるのは小さめのホットカーペットと折り畳みのローテーブルだけだ。
あとは毛布と半纏と湯たんぽで凌ぐ所存である。エアコンは残念ながら、大して頼りにならない。
この部屋には前の住人が残したものがそこそこ置いてあるのだが、テレビは無い。元々あまり見ない派なので、特に買い足さなかった。
配信されている除夜の鐘をスマホで聴きながら、インスタントの蕎麦を啜る。
ふと思い出して目を上げると、やたらめったらご立派な鏡餅が、簡素な室内で場違いな程に存在を主張していた。
「…………」
まあ、悪くはない。
これまで碌に見たことがないので知らなかったが、鏡餅というのは、ちゃんと飾ると割と格好いいものである。
今のところ、カビの気配もなさそうなので良かった。
食べる際には割らねばならないらしく、俺は諸々の飾り道具と共に木槌も用意した。
揃えたはいいものの、俺はとんだ大晦日初心者であるため、実のところずっとソワソワしている。
お年玉なんて貰ったことはないし、お雑煮もおせちも何が何だか分かっていない。知らない土地で手描きの地図を前に進んでいるような気分だ。
流石に見たことはあるし、存在は知っている。
けれども、テーブルマナーの存在を知っていてもいざやれと言われるとまごつくように、身についていないことを急にやれと言われても戸惑うばかりなのだ。
高校の頃に友達と一緒にどっかの神社を参拝したことがあるので、初詣はまだ分かる。
とにかく人が多かった。人混みが苦手なもので、それきり自発的に行ったことはない。
遠くから拝むだけでもいいらしいので、今年はこの部屋から拝む予定である。
遠くから祈るだけでも詣でたことになるとは。神様って優しいな。
コンビニにいらっしゃるタイプの神様も、そんくらい優しくあってほしいものだ。
「お、明けた」
日付が変わったのをぼんやりと眺めてしばらく。
ふと思い立って、メッセージアプリを開いた。
隣に住んでいるあいつには現状、俺以外の友達はいない。誰一人として、友達らしい友達にはなってくれなかった為である。
何とも切ない話だが、言ってしまえば俺の『友だち』欄だって大概である。
前の職場の人間は全員ブロックしたりされたりで切れているし、義理で連絡先を交換した知り合いとは最初の挨拶から何の繋がりもない。
連絡手段としてまともに機能しているのは神藤さんくらいのものだ。
残りは高校時代の友人が一人。その友人とも、もう二年近く碌に連絡を取っていない。
最後に連絡したのは、俺が退学届やら何やらの書類を出して、逃げ出した時だ。
しばらく連絡取れないと思う、と送った俺に、友人──ハヤトはしばらく迷った後に『OK』のスタンプを送ってきた。
その数ヶ月後に一度、気遣うように物陰から覗くキャラもののスタンプが来たが、俺は結局返事を返せなかった。
短文でもスタンプでも何でも良かった筈なのに、反応を返す、という行為自体がひどく億劫だったのだ。
結局既読だけつけて放置したし、落ち着いた今も、なんとなく連絡を取る気になれないでいる。
向こうも何かを察したのか、そこから踏み込んでくることはなかった。
あるいは、高校時代の友達に構っている暇などなくなったのかもしれない。
ハヤトは俺と違って社交的な奴で、俺の他にも友人は沢山いる。
だからきっと、俺程度の付き合いの奴が死んだとしても、そりゃあ、少しはショックだろうが、時間が経てば風化して忘れていくだろう。
それは予測というよりは、願望に近かった。
ハヤトには、俺の生死なんて気にも留めずに楽しく生きていてほしかった。あいつはあいつで、苦労をしている奴だったから。
知り合った当初、俺から見ればハヤトはまさに完璧で間違いのない、憧れをそのまま形にしたような人間だった。
俺でも知ってるような会社に勤める父親と、塾講師をしていた母親。明るくてスポーツ万能の兄と可愛い弟が居て、ハヤト自身も優秀だった。
面倒見がよかったのは、弟がいるからだろうか。仲良くなってからというもの、ハヤトは程よい距離感で俺を助けてくれていた。
ハヤトと出会っていなかったら、俺は中学までと同じような生活を送っていただろう。
奨学金を借りてまで大学に進もうとも思わなかっただろうし、これ以上自分の環境を良くしようなんて考えもしなかったかもしれない。
ハヤトの言葉は、大人に言われるそれよりも余程響いた。あの頃の俺にとっては、ハヤトが何より『先生』だったかもしれない。
どうしてこんな凄いやつが俺と友達でいようとしてくれたのだろう。
抱いていた疑問に答えが出たのは、友達になって二年が経った頃だった。
ある時、二人で遊びに出た日、ハヤトは努めて軽い調子で切り出した。
「うちさあ、婆ちゃんが頭おかしくてさ」
声色ばかりが妙に明るくて、上滑りした響きだった。
思わず隣を見やったけれども、ハヤトは何処か遠くを見ていて、視線は少しも合わなかった。
多分、合わせたくなかったのだろう。
ハヤトの家には、父方の祖母が同居をしているそうだ。
その祖母が、どうも昔から妙な占い師にのめり込んでいて、随分と長い間、おかしなルールを家族に強いているのだという。
それは物の配置という些細なものから、各々の排泄のタイミングなどという許容し難いものまで、細かく決められているそうだ。
父親は実母だからか祖母の肩を持ち、金さえ出せばいいだろうという態度で、母親も子供を全員大学まで行かせてやりたいから、と言って離れることなく我慢しているのだとか。
「この間、婆ちゃんが儀式だとか言って杖で母さんの頭ぶん殴ってさ。血とか出てんの。でも誰も、父さんも兄ちゃんも、母さん本人も病院行こうとか言わねえんだよ。なんか、俺、怖くなってさ。怖い、っつーか、キモいっつーか。
でも、婆ちゃんさえ居なきゃみんな普通な訳で、だから離婚してほしくないなって思ってて、なんかそんな自分もキモくてさ。傷の手当てとかして、ハヤトは優しいねとか言われても、いや別にこれって優しさでもなんでもなくね?と思って……なんか訳わかんなくなって……」
別に、話そうと思って話した訳ではないのだろう。吐き出しておかないとどうにかなりそうだから、ただ零してしまっただけだ。
聞いた時は、割と驚いた。単純に、そこまで内側の部分を話してくれるほど、俺を信頼してくれているとは思っていなかったから。
ハヤトは人の悪口を言うのも聞くのも苦手な奴だった。
誰かを貶めて笑いを取ろうとすると察知して空気を変えにいったし、時には自分がお調子者枠になってさえいた。
そんなハヤトが『頭がおかしい』というのだから、その婆ちゃんとやらは、本当に
ハヤトが俺でも通えるような高校に居たのも、婆ちゃんが理由だそうだ。
なんたらかんたらが良くないだとか、何々様の災いがどうだとか。喚いて話にならなかったから、諦めて進学先を変更したらしい。
「でもまあ、そのおかげでお前と会えたんだから、来てよかったかな」
その時の俺はなんと返したんだったか。よく覚えていない。
なんだかあまりにも予想していない言葉だったから、凄まじく卑屈なことを言った気がする。
覚えているのは、ハヤトが心底心外だとでもいうような顔で俺に詰め寄ったことだけだ。
「ちげーよ! 俺はクラスん中でお前が一番まともそうだと思ったから声かけたんだって!」
俺は面食らってから、ちょっと笑ってしまった。
まともそう、なんて言われたのはほとんど初めてだったからだ。
「……元気でやってんのかね」
画面を見つめながら、小さく呟く。
まあ、ハヤトのことだから間違いなく元気では居る筈だ。
この先何があるか分からないのだから連絡を取っておきたいような、だからこそ今更俺のことなんぞ思い出してほしくもないような。
なんとも言えない気分が胸の内に渦巻いていた。
少し、いや、かなり迷って、『あけましておめでとう』とだけ送った。
日付が変わってすぐなら、他に来る無数の連絡に埋もれるだろう。返事が来ればそれでいいし、既読がつくだけでも十分だし、もう何も反応が無ければそれもそれで、別に良かった。
残ったそばのつゆを片付けるついでに、沸かし直したケトルの湯でお茶を淹れる。
大晦日というのは寝ないものらしい。今まで何も考えずに普段と同じように過ごしていたので、今年は試しに起きていることにした。
お茶を啜りつつ、管理人さんから貰ったみかんを剥く。
せっせと皮を揉んで剥いてから、一房取って口に運んだ。
「あー、酸っぱいやつだ……」
ハズレを引いてしまった。食べ終えてから、酸っぱいまま終わりたくないのでもう一つ手に取る。
今度は無事に甘かったので満足していたところで、着信音が響いた。
「うおお」
ビビって軽く跳ねてしまう。深夜の着信というのは何故こうも怖いのか。いや、深夜に限らずなのだが。
俺はどうにも、電話を取るのが嫌いなタイプである。切ってもいい電話だとしても、そもそも掛かってきて欲しくもない。
けれども、画面に表示された名前がハヤトだったため、指先を軽く拭いてからタップした。スピーカーにする。
『もしもし? タカヒロ?』
ハヤトは、学生時代と同じように、俺をタカヒロと呼んだ。
俺の本名は漢字だけでも四文字あって、読みには長音記号が入っている。まあ、言っちゃなんだが人間につける名前ではない。
ハヤトと出会ってからしばらくして、あれこれ考えてタカヒロと呼んでもらうことにした。
ゆくゆくは改名手続きをしたい、と思っていたのだが。結局それどころじゃないことばかり起きて、今に至る。
光基さん曰く、こと隣人に関しては、呼ばれる名前と本名が違うのは悪いことではないのだそうで、まあ、しばらくはこのままでいる予定だ。
嫌な思いをすることも当然あるが、昔よりはマシだし。
つっかえそうな喉から、なるべく平静を装って声を出す。
「久しぶり」
『おーおー、久しぶり。なんだよ、今、元気? 大丈夫か?』
「まあまあ、ぼちぼちかな」
元気なことは元気である。大丈夫かどうかと問われると、ちょっと微妙だ。
そっちは?と話を振ると、ハヤトは明るい声で答えた。
『俺の方もまあまあかなー、サークルやら何やら、楽しいけど面倒だし。あ、今度飲み会やるけど。来る?』
「行かねえ」
『あははは、だよなあ! 人多いの嫌いだもんなー』
高校時代と何一つ変わらない、はっきりと良く通る声だ。懐かしくて、なんだか涙が出そうになってしまった。
この場面で泣いてんのは流石にちょっと恥ずかしい。茶を啜るふりをしつつ、雑に目元を押さえる。
『ま、今度二人で飲みにでも行こうぜ』
「……おう、予定が空いてたらな」
予定なんぞ空きっぱなしのくせに、今更顔を合わせるのもな、と妙なところで尻込みしてしまった。
察したらしいハヤトが、『おし分かった、俺が合わせるから空いてる日教えろ』と笑いまじりに言ってくる。どうやら全部お見通しらしい。
いや別に、会いたくない訳ではないんだが。単にそういう性分なんだよ。
苦笑いと共に予定を伝えると、あっさりと月末あたりに会う日が決まってしまった。
近くなったらまた連絡すると言われて、そこで通話は終わると思ったのだが、ハヤトは少し訝しむような声で続けた。
『あのさー』
「何?」
『タカヒロ、今誰かといる?』
「いや、」
一人だけど、と言うより早く、軽い調子の声が響いた。
『さっきから誰か呼んでるんだけど、気のせい?』
俺は静かに目を上げた。
ベッドを確認した限り、特に膨らんではいない。
「……呼んでるって、俺を?」
『あー、いや。おーい、って感じ。どっか遠くから』
「……ふーん」
なんてことはない様子を装いながら、室内を見渡す。
狭い部屋である。確かめるのに五秒もかからなかったし、やっぱり誰もいなかった。
俺の言葉を待つことで生じる間が、やたらと静まり返っている気がして、耳が痛い。
「今住んでるマンション、混線しやすいんだよ」
『ええ? スマホで? 何処の使ってんの』
「めちゃくちゃ安いやつ」
『いやそれでもおかしいだろ、スマホってさ、電波とか、あっ、ほら。まだ聞こえる』
「遠くで?」
『そうそう。結構遠くで』
「……割と良い声だったりする?」
『いやぁ? 男なんだけど……結構若いかんじ? 子供かな』
ということは隣人ではない。
いや、隣人の声はどうも時折子供のようにすら聞こえることはあるのだが、そもそもあいつは今は眠っているので、呼びかけて来ることはない……筈である。
「……ちょっと、試したいことあるから付き合ってくれ」
『お? なんだよ』
状況が分からずに不思議そうにしているハヤトを前に、俺はスマホを持って立ち上がった。
まずは一旦、玄関に向かう。
「声、近くなったか?」
『えー……いや、さっきと変わらんかも』
次は風呂場。
「どう?」
『いや、変わらん』
念の為ベッドにも近づける。
「こっちは?」
『変わんないぜー。てかこれ何? ドッキリ?』
「まあ、そんな感じかも」
此処だったら嫌だな、と思いながらクローゼットの前に立つ。
『遠いかなあ』
「なるほど」
『何が?』
さあ、何がなるほどなんだろうな。俺にも分からん。
とりあえず。
仕方がないので、俺は一番最後に回していた、キッチンの棚へ近付いた。
『あ、近い。近い近い。え、何? 俺いま何に付き合わされてんの?』
「マジかー……」
『何!? タカヒロお前、説明しろって〜』
「いや、俺にも説明とかは出来ん」
『えええ。てか離してくれ、なんか嫌だぞ、それ』
ごく真っ当な主張だったので、俺は素直にスマホを引いた。
俺にはさっぱり聞こえない訳だが、ハヤトのリアクションを見るにまだ呼び続けているらしい。
とりあえず、何も聞かなかったことにして、俺はそっとローテーブルの上にスマホを置き直した。
ふう、と溜息をついたところで、律儀に説明を待っていたらしいハヤトが、おっかなびっくりといった様子で聞いてくる。
『えっ。で、結局、何?』
「……隣の部屋に住んでるやつが、ちょっとおかしなやつなんだ」
完全に言い訳のつもりで口にしたのだが、図らずも事実を述べた形になってしまった。
俺の部屋の隣人は、まあ、確かにおかしなやつである。キッチンの棚と隣人の部屋の位置は全く持って真逆な訳だが。
『引っ越した方が良くね?』
「なんつーか、アレだよ。家賃補助出るから住んでる感じでさ。まあ、普段は静かだから」
『はー、なるほどねー』
納得した(というより、納得することにした)らしいハヤトは、危なくなったらすぐ警察呼べよ、と言い残して、今度こそ通話を切った。
さて。
静まり返った一人の部屋に残されたのは、俺だけである。
なんなら、布団の奴すら居ない。
こういう時には出てこねえのな。いらん時には邪魔するくせに。
「……マジかー」
呼んでんのか、
やっぱり、さっさと捨てておけば良かったのかもしれない。いや。知らずに捨てた結果、何かあったりするのも大分嫌かもしれない。
じっと、身じろぎもせずに耳を澄ませてみたが、室内は変わらず静まり返っていた。
相変わらず、不気味なほどに静かなマンションである。
この通り、耳で聞く分には聞こえないんだから、無視しておけばいい。
気になるのは、聞こえる奴だけだ。モスキート音みたいなものだと言える。
「………………」
静寂が嫌で、何か適当な動画でも見ようとして、画面をタップした。その筈だったけれども、俺の指はなんとなく、よしておけばいいのに、録音アプリに伸びていた。
スマホを通せば聞こえるなら、録音も出来る、ということにならないだろうか。
これで何も撮れなかったら、声はあくまで通話にだけ乗ることになる。
録音アプリを開いて、開始を押──してから、すぐに止めた。
開始数秒で、既に表示される波形が十分すぎる程に伸びていた。明らかに、結構な声量を拾っている。
わざわざ聞く必要はないだろう。
とりあえず記録を削除して、好きなお笑い芸人の動画を見て朝まで過ごした。
棚の扉が若干開いていたのは、見なかったことにした。
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