クリスマス


「タカヒロ、くりすますどうする?」

「はっ?」


 十二月中旬。出勤前、午後九時。

 短い怪談だと良いなあ、なんて思いながらジェル式の湯たんぽを抱えていた俺に、隣人は突如として妙なことを言い出した。


 くりすます?

 くりすます・・・・・って、クリスマスのことか?


 どうするって、あれか?

 俺がクリスマスに予定入ってるか、確認してんのか?


 思わず阿呆面で仕切り板側へと目を向けてしまう。

 視界の端で、真っ黒に爛れた指先がなんだか楽しげに揺れていた。


「ちきん、食べる?」

「チキン」

「あと、けぇき」

「……え、一緒にって話か?」

「? 別に一人で食えば良いよ。くりすます、する?って話」

「する、っても何も……」


 それは一体、何の為の確認なんだ?

 混乱し切ったまま言葉に詰まった俺に、隣人は何処かうきうきしたような声で続けた。


「タカヒロがくりすますやるなら、贈り物するよ」

「…………何くれんの?」

「ないしょ」

「内緒かあ……」


 聞きたいことは山程あったが、それらが俺の口から出ることはなかった。


 お兄さんからは、此方から『手作りの食べ物は渡すな』とは言われている。だが、向こうから何か贈られる場合については何も対応を聞いていなかった。

 断ったことで気分を害した方がよろしくないのか、機嫌伺いで受け取った結果、よろしくない贈り物が来るのか。俺にはちょっと判断がつかない。


「いる?」


 十秒ほど、対応に迷って黙り込んでしまう。

 妙に空いた間を気に留めた様子もなく、あいつはあくまでも明るい声で言った。


「大丈夫だよ」

「……おう?」


 何やらあれこれと警戒しているのが、態度に出てしまっただろうか。

 身構える俺に、隣人はなんてことはない声で告げた。


「タカヒロはいい子だから、ちゃんとプレゼントが貰えるんだよ」


 今度は数十秒の間が空いた。

 対応に迷った、訳ではない。面食らった、というのに近い。

 だが、俺は自分で思うよりもずっと早くその言葉をきちんと噛み砕いて受け止めたし、抱えたし、なんなら大事な場所に置きかけてしまった。

 そこまでではないだろう、と思い直したけれども。


 いや別に。自分がプレゼントを貰うに値するかどうかは、特に考えてなかったけど。

 この場合、考えるべきはそこではない。そんなことを心配した覚えもない。多分。


 なんとなく、抱えた湯たんぽを殴る。

 何かにぶつけでもしないと、どうにかなりそうだった。

 湯たんぽがあって良かったなあ、と心底思った。


「もう、いい子って歳でもないけどな」

「うん? そう?」


 心底不思議そうに呟いた隣人が、ぼんやりと言葉を重ねる。


「タカヒロはまだ子供に見えるよ」

「そうかあ?」


 今度は俺が首を傾げる番だった。

 けれども、それ以上突き詰める必要もない疑問なので、納得はいかないながらも何となく頷いておく。

 まあ、人間じゃないものから見れば、二十歳だってまだまだ子供なのかもしれない。


 ただ、『いい子』かどうかについては、やっぱり首を傾げたままだった。

 俺がもし本当にいい子・・・なら、もっと全てが上手く行っていたような気がする。何もかもが良くなって、どうにかなったような気がする。

 それに。クリスマスにおける良い子というのは要するに、生まれてきて良かった子のことではなかろうか。


「くりすますは窓の鍵開けておいてね」

「ああ、そっから来るのか…………来るのか!?」

「だって、プレゼントは枕元にないといけないんだよ」

「いや、まあ、そうだろうけど……ベランダに靴下吊るしておくから、そっちがいいかな俺は……」


 俺は知っている。隣人は間違いなく、俺の部屋の窓まで腕を伸ばすことが出来る。

 当然、それ以上に伸ばすことだって出来るに決まっているだろう。そんなことは分かっている。


 だが、それを目の当たりにしたいかどうかは別だった。

 そんな事実を聞かされた上で、黙っていい子・・・で寝ていられる気もしない。


 出来ればそうなるといいな、くらいの気持ちで要望を口に出すと、隣人は少し迷ってから言った。


「いいよ。じゃあ、楽しみにしててね」


 どうやら要求は無事に通ったらしい。思ったよりも深い安堵の息を吐きかけて、慌てて飲み込む。

 心の底からホッとしてしまったのは、勝手に鍵を開けるような手段はない、と示されたからかもしれない。


 何はともあれ、俺は靴下を買わねばならなくなってしまった。クリスマス用に。

 そんなん、これまでの人生で一度もやったことないぞ。クリスマス用の靴下ってなんだ?


 まあ、ともかく。

 今年はどうやら、真っ黒の爛れたサンタさんが、俺の為に何かを用意してくれるらしい。


 嬉しくない、と言ったら嘘になる。だが、それ以上に『何をくれやがるつもりなんだ……』がまさった。

 割合で言うなら、後者が九割四分くらいだった。

 一体、何をくれやがるつもりなんだ。先に教えてくれ。いや、やっぱり知りたくないな。


「ちきんも食べる?」

「……まあ、せっかくだから買ってくるかな」


 クリスマスはどうせコンビニのバイトに駆り出される。普段と勤務時間が違うのだが、他の人達はそれぞれ付き合いやらなんやら予定が入っているようで、頼みこまれて断れなかった。

 残ったチキンとケーキを買って帰るだけでも、充分にクリスマスらしいと言えるだろう。


 俺の答えを聞いた友人は満足そうに何やら呟くと、怪談を話すこともなく部屋に戻ってしまった。

 おいまさか、本当に予定聞きに来ただけなのか。……そんなことあるのか? まあ、ある? のか?


 なんとも言えない気持ちを抱えつつ、俺はとりあえずバイト先へと向かった。



   * * *



 今の時期だと、退勤後も空は暗いままである。


 最初は『深夜帯に仕事しとけば、怪談聞くのも昼間になるかな』と思って始めたのだが、結果として言えば出勤前に聞く羽目になったりするので、そんなに意味はない。

 加えて言えば、この時期だと暗い中でこのマンションに帰ることになるので、あんまりよろしくもない。

 まあ、決めたのは俺なので特に変えるつもりもなかった。


 店長は正直、爺さん──矢向さんの代わりをずっと探しているようで、シフトを増やせないかと聞かれたりもするが、あれこれと言い訳をして断っている。

 俺が部屋に居ない日が増えるのは基本的には良しとされないので、出来ても週三日くらいが限度なのだ。

 もしも無理を言われるようなら、別のバイトを探すだけである。


 半年前は税金払うだけで眩暈がしてたのに、随分と気楽になったもんだな。

 ひとりでこのまま暮らすだけならなんの問題もない。どころか、貯金すら出来ている。まあ、貯めたらまた現れそうな気がするのだが。一種の妖怪だろもはや。


 なんて、脳内でぼやきながらエレベーターに乗り込んだ瞬間、ブザーが鳴った。


「…………」


 こういう時は、一旦素直に降りる。

 扉が閉まって動き出すまで待ってから、再度上階へのボタンを押す。

 すると大抵、閉じたエレベーターは五階に向かって、しばらくすると戻ってくる。


 上でかかる時間はまちまちだ。

 すぐに戻ってくることもあれば、何に手間取ってるのか、いくら待っても戻ってこないことがある。


 まあ、少なくとも待ってさえいればやって来るので問題はない。

 人間以外の何かが乗っていたことも、少なくとも俺の目から見れば無い。


 今日はちょっと遅い方だった。

 五階で止まっているエレベーターを待っている間、なんとなくクリスマスについて調べる。


 ネットは便利だ。大抵の『普通』が転がっている。

 それがある種の理想であり幻想であり、到底『普通』で収まるものではない場合でも、少なくとも一般的な生活の形は知ることが出来る。


 この世で一番恐ろしいことは、自分が『おかしい』と分からないことだ。自分の世界が間違っていると気付けないことだ。

 俺は小学校に上がってからようやく、どうやら自分の家はおかしいらしい、と気付いた。


 当時、とある年配の先生が随分と熱心に俺の面倒を見てくれようとしたおかげで、(その結果としてあの人はもっとずっと巧妙に、悪質になった訳だけども)少なくともおかしいことには気付けた。

 結局、そこから先の具体的な解決は叶わなかったが、別に先生のせいじゃない。むしろ、随分と良くしてくれたものだ。

 だって、生徒に古着とかくれるし、学校の洗濯機も貸してくれたんだぜ。いい先生だったと思うよ。


 ただまあ、俺が先生──というか他の大人と関わりすぎるとあの人が更におかしくなるから、俺にとっての『先生』はずっと、公民館の無料ネットだった。

 当時、近所の公民館には資料検索用のパソコンのようなものが置いてあって、申請も何もせずにちょっといじればネットにアクセス出来たのだ。


 俺はそこで、『普通』というものを調べた。ガキだったから知識も偏ってたし、嘘も嘘だと見抜けてなかっただろうし、多分どうしようもなく拙い調べ方だったと思う。

 それでも調べている内に、それなりに人としての体裁を取り繕えるようにはなった。


 ネットが出来る場所だけはないとダメだ、と思っていた。

 あの人は機械のことはてんで分からないので、人間相手ならダメなことでも機械相手に聞いてる分にはバレないのだ。

 いやまあ、高校の時には一度携帯ぶち壊されたけど。あれはたまたま機嫌が悪かったんだよな。

 あの人に知られずに済ませなければならないことが多すぎるのに、あの人の許可がないとどうにもできないことがそれ以上にあった。


 高校の時の友達の、『お前マジでよく生きてたなあ』という声を思い出して、なんとなく笑ってしまう。

 別に死ぬほどの状況に置かれたことはない。小さい子供を死なせた母親というのは、どうしたって周囲から責められるからだ。

 あの人はそういう、真っ当な大人から叱られる・・・・状況を何より苦痛に思う人間だった。


 『プレゼント ワースト』とかで調べている内に、エレベーターが戻ってきた。

 乗り込んで、七階のボタンを押す。

 通り抜ける時、五階はやはり真っ暗だった。


 五階について、短期入居者の人がたまに管理人さんに尋ねたりするのだが、『あの階は配線が駄目なので修繕の予定ないですし、そもそも貸してないんですよー』という答えが返ってくる。

 半年の間に二回ほど聞いた覚えがあるが、ほとんど同じトーンだったので、毎回そう伝えているのだろう。


 管理人さんは柔和で明るく丁寧で、とてもいい人だが、本当にきっぱりと事務的な人である。

 そのくらいでないとやってられないのだろう。こんなところの管理人なんて。


 エレベーターを降りる。


 七〇五号室の扉が開いていた。


「………………」


 全開である。

 ただ、エレベーターを降りた位置からは、まだ扉の表側しか見えない。


 この階は廊下に一号室から四号室まで並んでいて、突き当たりに五号室の扉がある。

 自室である七〇二号室の扉の前に立つと、ちょうど右を向いた際には玄関から奥がほとんど見えてしまう訳だ。


 だから俺は廊下に出て扉が開いている時には、出勤以外のくだらない用事なら、一旦見なかったことにして部屋に戻ることにしている。

 在るのはただの暗闇でしかないのだが、どう考えたって只事ではないので、見ないフリをするに限るのだ。


 今回に関しては、見ないフリで一旦降りてマンションを出て何処かで時間を潰す、という訳にもいかない。

 五階から戻ってくるのが遅かった、というのが、どうもネックだった。


 決めた。

 素知らぬ顔で部屋に入ってしまおう。


 視線を足元に固定しつつ、自室の扉の前に立つ。

 待ってる間に鍵を取り出しておかなかったことを心底悔やみながら鞄を漁ったところで、俺の耳が何かしらの声を拾った。


 濁った呻き声だ。

 警戒心から思わず、そちらを振り向く。


 七〇五号室の玄関の奥。

 暗がりの中に、真っ白な顔が浮かんでいた。


 血の気の失せた少女の顔だ。

 多分、あれが『澄江由奈』なのだろう。


 妙なのは、浮かんでいる位置だった。

 切り取られたような四角いの真っ暗闇の中で、少女の顔は随分と高い場所に浮いていた。


 思わず、鍵を取り落とす。

 かしゃん、と、硬質でちゃちな音が、静まり返った廊下に冗談みたいによく響いた。


 目が合っている。

 瞬きもせずに此方を見つめる少女は、小さな口を開きかけ、


 ドンッ


 そこで俺の後方から聞こえてきた鈍い打撃音に、怯えたようにぴたりと口を閉ざした。

 なんなら、俺も一緒にビビった。反射で思いっ切り振り返った。


 七〇一号室──つまりはあいつの部屋から、玄関扉を内側から叩く音が響いたのだ。

 一度切りだった。

 鈍い打撃音が響いた廊下は、それきりすっかり静まり返っている。


「…………」


 キィ、と掠れた音が聞こえたので恐る恐る振り返ってみると、七〇五号室の扉はすっかり閉ざされていた。

 閉じた扉の向こうで、確かに鍵のかかった音がする。

 幽霊って鍵かけるんだ……なんて思ったところで、俺はようやく落とした鍵のことを思い出した。


 足元の鍵を拾って、差し込む。

 元よりあまり回りのいい鍵ではないのだが、震えのせいか開錠は更に覚束なかった。


 それにしても。

 どうして、急に見えるようになったのだろう。

 これまでは真っ暗闇しか見えなかったのに。


 考えることしばらく。

 無事に帰宅して後ろ手に鍵をかけながら、俺はふと思い至った。


「あー……知った・・・からか……」


 なんとも簡単な答えだった。

 あれは別に今日突然に現れたものではなく、ずっと前から、開いた扉の向こうにはあの子が居たのだ。

 俺には見えていなかっただけで。

 あの子はずっと、此方を見ていたのだ。


「……………………」


 なんとも言えない気持ちになったので、俺はとりあえず別のことを考えることにした。

 クリスマスの靴下のこととか。

 あとは、クリスマスの靴下のこととか。

 それから、まあ、クリスマスの靴下のこととかをな。


 ……そういやあいつ、なんかすごい怒ってたな。


「……………………」


 通販サイトをしばらく巡って、とりあえずでっかい靴下を一足注文しておいた。

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