帰り道


 ある日の午前三時半。

 どうにも眠れなかったので、コンビニに行くことにした。


 うちの近所にはコンビニが二つあるが、片方は24時間営業ではない。

 よって深夜に買い物に行きたいなら、高架下を抜けた先の、ちょっと離れたもう片方に行くことになる。

 俺が週に三日、深夜バイトに入っているコンビニだ。


 深夜帯シフトには大抵、外国人留学生と七十過ぎの爺さんが入っている。

 挨拶だけ軽く交わして、ホットミルクティーを買って出た。


 留学生のニラジさんは、俺の一つ上で二十一歳だ。日本で就職をする為に来たらしい。

 立派な人だなあ、と思う。もしも俺が同じことをやれと言われたら、早々に精神が参って逃げ帰るだろう。コンビニに限らず、接客業って前世が羽虫だったみたいな人間が来るし。割と頻繁に。


 そもそもが、関東から出るイメージすら湧かない人間である。

 確かに離れようと思っているのに、逃げ出そうとすると、いつも夜道に置き去りにされた時の記憶ばかり浮かぶ。

 俺の方が捨ててやりたいのに、何故か捨てられることに怯え続けている。なんとも、馬鹿みたいな話だ。


 ぬるくなる前に、とボトルに口をつける。

 コンビニを出て左に歩いて高架下を通り、最初に見えるパチンコ屋を曲がった道を進むと、あのマンションに着く。

 高さ制限の看板を見ながら高架下を潜ったその時、一旦閉めようとしたキャップを取り落としてしまった。


「ああ……」


 歩きながら飲んでたのが良くない。溜息混じりに屈んで、転がるそれを追う。

 オレンジ色のキャップに手を伸ばした俺は、それが赤いピンヒールの爪先で止まったのを見て、ふと目を上げた。


 女がいた。


 思わず瞬く。

 少なくとも、先程まで人影らしいものはなかった筈だ。

 いくら高架下が明かりに乏しく暗かったとしても、何も見えない程でもない。

 確かに誰もいなかった、と思うのだが。


 白いノースリーブのワンピースを着た、痩せ型の女性だ。

 長い黒髪が、顔を覆うように腹の辺りまで伸びている。


 まず初めに、今の季節が頭をよぎった。

 十二月半ば。気温は七度である。


 次に、俺の思考はこの女を不審者として定義した。

 幽霊だと思うよりは余程現実的だからだ。


 そうして最後に、足元のピンヒールと、此方を向いている後頭部・・・に気づいて、違和感に眉を寄せた。


 ピンヒールの爪先は此方を向いている。同時に、後頭部も此方を向いている。

 順当に考えるなら、首が捻れて・・・・・いなければならない。


 たとえばウィッグを被っているだとか、髪型で誤魔化しているだとか、そういうことを考えられない訳ではない。

 だが、わざわざ真冬に、こんな夜道でそんなコスプレをする趣味の女が居るとは思えなかった。


 まあ、もしかしたら、悪質なYouTuberとかかもしれないが。

 なんならそっちの方が有難いくらいだが。


 女は依然として、目の前に立っている。身じろぎ一つ、する気配は無い。


 踵を返して逃げるべきだろうか。それとも動かず去るまで待つべきだろうか。

 何がこの女を刺激するか分からない。仮に此奴が幽霊であっても、そうでなくても、俺がするべきはこの場を穏便に収める以外には無い。けれどもその方法が分からない。参った。


 不恰好な中腰で固まること数十秒、


「しりませんか」


 そろ、と足を引いて逃げようとした俺の頭上で、女が呟いた。

 捻り潰した管に無理矢理水を通したみたいな、崩れて濡れた声だった。


「しりませんか」


 ぐちゃぐちゃの声が、冷えた暗がりに淡々と響く。


「ゆなちゃん しりませんか」


 言葉を返すのは不味い、という確信だけはあった。


「すみえゆなちゃん」


 すみえ、と言うのが苗字だろうか。

 生憎と、俺には聞き覚えはなかった。


「しらないですか」


 見上げる俺の前で、後頭部が歪に曲がった──と思ったら、次の瞬間にはぐらりと頭が零れ落ちた。

 幸いにも、顔は見えずに済んだ。


「しらないならしってください」


 首の皮が伸びきっている。

 小指の折れた右手が、器用に頭を支えていた。


「しらないならしってください」


 左手が頭を掻きむしる。

 ぱさついた黒髪がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、すぐに爪先が真っ赤になるのが見えた。


「しらないならしってください」


 赤い指先が此方に伸びて来た瞬間──、俺は飛び退くように道を駆けていた。

 ミルクティーが派手に溢れる。ダウンジャケットが濡れたが、構っている暇はなかった。


 カツ、とヒールが踏み出す音がする。振り返る余裕は欠片も無い。


「ゆなちゃん ゆなちゃんゆなちゃんゆなちゃん」


 ペットボトルを投げ出して、俺は一目散にマンションまで駆け出した。

 パチンコ屋の角を曲がって、真っ直ぐに走って、走りながら鍵を取り出して、エントランスに飛び込む。


 エレベーターを待ってる間は気が気じゃなかった。

 階段は使う気にはなれない。夜中にアレに遭遇するのは、今から彼処に引き返すのと同じようなものだ。


 乗り込む直前まで気を張っていたが、ヒールの靴音は聞こえなかった。少なくとも、俺の耳には。




「なんっだアレ……!」


 扉を背に、玄関に座り込む。

 上がった息を整えながら、俺は混乱する思考の中で、『友達から聞いた話』を思い出していた。


 夜道で白いワンピースの女に会う話を、いつだったか聞いた気がする。

 最近では無い。あの一件から、俺は友人の話をスマホのメモに残すようにしている。

 記録を確かめた限り、直近の『怪談』にはその類の話はなかった。

 多分、だいぶ初めの方だろう。


 それにしても。


「…………本当に起きる話なのかよ……」


 俺は、あいつの話す怪談を100%創作だと断じている。

 怪異がこの世に居ることをこの目で見ているし、このマンションに溢れる怪奇現象も知っている。

 けれども、あいつの語る話は『無い』と思って聞いている。


 『友達に聞いた話なんだけどね』が嘘だから、その後も嘘に違いない、と思っている訳ではない。あいつが虚偽の友達を挙げることと、怪談が嘘かどうかは関係がないしな。

 それでも、俺はこの半年の間に聞いた全ての話を、創作だと思っている。

 これはどうにも奇妙な感覚で、俺にも上手く説明出来ないのだが、どういう訳か聞いていると分かる・・・のだ。


 隣人が語るあれらは、全くの創作である。

 失踪して何処か・・・で溺死した妹さんも居ないし、奇怪な造形の妊婦も居ないし、死んだ同級生の声で話す犬が登校してくることもないし、ドアノブに人形が吊るされていたりもしない。

 全部が全部、ただの作り話だ。

 実話怪談ではなく、創作怪談というやつである。


 だが、白いワンピースの女は現れた。多分、あいつが話したものと同じやつが。


「どんな話だったっけな……」


 靴を脱ぎ捨て、額に手を当てながら小さく唸る。

 もしも話の中で『出会った奴は死ぬ』だとか言われていたら、それすらも本当になるかもしれない。


 一先ず汚れたジャケットは適当に拭いて、ベッドに腰掛ける。

 遠慮なく座ったので、隅っこで膨らんでいた何かが床に落ちる音がした。が、放っておいた。

 今はお前に構っている場合では無い。


 友達から聞いた話なんだけどね、というあいつの声を何度か思い出す。


 白いワンピース。

 赤いピンヒール。

 捻れた首。

 すみえ ゆな。


 異様な出立が目を引くが、語り口で一番手掛かりになるとしたら、『スミエ ユナについて聞く女』という部分だろう。

 あいつの話で、固有名詞が出てくるものはあまりない。

 名前が出てくるだけで絞れる筈なのだが、しばらく考えてみても、『スミエ ユナ』の方はピンと来なかった。


 白いワンピース姿で赤いピンヒールを履いていて、首が捩れた女の話は聞いた覚えがあるのに、だ。

 ちなみに、思い出せた限りだと遭遇しただけで死ぬような話ではなかった。

 夜道で例の女に遭遇して、伸びた髪が前に垂れているのかと思ったら、首が捩れていた、と気付くだけの話だ。

 だけ、つっても、十分怖かったけども。


「すみえゆな、ね」


 取り出したスマートフォンに、とりあえず名前を打ち込む。音で聴いただけで漢字が分からなかったので、まずはひらがなのまま調べ、それから適当にいくつか当て嵌めてみる。

 『怪談』や『事故』なども共に入れてみたが、それらしいものは引っかかりそうになかった。


 訳が分からん。さっぱり分からん。

 そして、分からんことはさっさと忘れるに限る。


 緊張と緩和のせいか、それとも脳にかかった負荷のせいか、眠気に似た感覚も来ていた。

 このまま飲まれて眠って、起きてから考えた方がいいかもしれない。

 そう思ってベッドに背を預けて目を閉じたその時、──インターフォンが鳴った。


 目を開ける。

 なんとなく、そのまましばらく天井を見つめてしまった。


 下に来たのか。

 扉の前に居るのか。

 それとも、いつもの不調か。


 どれか分からんが、どれでも嫌なことに変わりはなかった。


 このマンションはオートロックがあるが、インターフォンにモニターがついてない。

 誰が来たのか確かめるには、受話器を取って話すしかない。


 寝っ転がったまま天井を見上げる俺には、立ち上がって玄関を確かめに行く勇気も、受話器を取る勇気も、ちょっと無かった。


 音の名残すら消えてしまうと、もはや幻聴だったのかも、という気さえしてくる。

 じっと、息を潜めるようにして待つ。


 結局、その後は何もなかったが、俺は昼過ぎまで少しも眠れなかった。



    ◇ ◆ ◇



「なあ、前に話してくれた白いワンピースの女って、この辺であった怪談なのか?」


 翌日、夕方。

 妙な時間に寝たせいで妙な時間に起きた俺は、珍しく、自分からベランダに出て隣人へと話しかけていた。


 普段は、用事がある時にはベランダの窓が叩かれる。どうやって叩いてるかは知らん。早く出過ぎた時、伸びた腕がずるずると仕切り板の向こうに戻っていく様を見たことがある。知らん。

 とりあえず、俺は十秒待ってからベランダに出ることにしている。


 友人は怪異であるが、日のある内でも問題なく出てくる。にょろ、と口を伸ばして来た友人は、俺の問いに不思議そうに答えた。


「神奈川のお話だから、此処じゃないよ」

「……そうか」


 神奈川なのか。あれは。

 まあでも、都市伝説とかは各地で噂になるから、怪談も同じように場所がずれることはあるか?

 いやでも、そもそも俺はアレが実際の神奈川で起こったとは信じていない訳で。信じていなかった訳で。

 場所がどうとか以前の問題な気もする。


 何処からどう考えればアレに理屈をつけられるのか、さっぱり分からなかった。

 思わず小さく唸った俺に、隣人は軽い調子で尋ねてくる。


「どうして?」

「……いや、昨日、お前が話してくれた怪談に似たやつと遭遇してさ」


 素直に言っていいものか少し迷ったが、結局は特に取り繕うことなく事実を述べた。

 この先、もしも別の話のやつにも遭遇するなら、対策くらいは聞いておきたいしな。


 ふと視線を向けると、此方に伸びた管状の口の中から、目玉が此方を覗いていた。

 反射的に、視線を首ごとずらす。

 間違いなく、視認してはならない分類のものだった。


 逃げるように目を逸らし続けること数秒。

 じっと此方を観察していた目玉が、するりと向こう側へと消えて行くのが気配で分かった。


 次いで、情を削ぎ落としたような機械的な声が響いた。


「ちがうな」

「…………何が?」

「順番」


 ……何の?

 と、聞く勇気はなかった。


 どうやら、順番が違うらしい。

 そしてそれは、隣人にとっては少しばかり、許容出来ないことのようだった。


 カチ、カチ、と金属を叩き合わせるような音が隣から響いている。

 何の音かはさっぱり分からなかったが、何処か威嚇音を思わせるような色をしていた。


 居心地の悪さを抱えつつ、ただじっと言葉を待つ。迂闊に話しかけたら不味い、ということだけは何となく分かっていた。

 話しかけてはいけないタイミング、についてはかなり察しの良い方だという自負がある。対母親と前職の上司相手に培った技術だ。

 ちなみに、関係が最悪のまま続くと、『どんな状況だろうとこっちが話しかけた時点で機嫌が最悪になるパターン』に収束する。こうなったら終わりである。


 終わりたくはねえなあ、と思いながらじっと組んだ指の先を見下ろしていると、数分後にベチ、と仕切り板を叩く音が響いた。


 大袈裟に肩を跳ねさせた俺の隣で、隣人はやや詰まらなそうに呟いた。


「知りたいなら、イノヒラに聞くといいよ」

「何を」

「スミエ ユナ」


 伊乃平、というのは神藤さんのお兄さんのことである。

 隣人は俺のことを、お兄さんに雇われて此処に来たと思っている。だから、伊乃平さんの名前が出ること自体は別に不思議なことでもなかった。

 隣人は、神藤さんの存在を認知していない。俺にはよく分からないが、何かしら理由があって、そうなっているのだろう。


「別に、そこまでして知りたい訳じゃないんだが……聞いておかないと不味いとか、あるか?」

「無い」


 あんまり、無さそうな声音じゃなかった。

 多分、嘘をついている。


 仕方がないので、俺は神藤さん経由で聞いてもらえないか、メッセージを送ることにした。



     ◇ ◆ ◇



 後日、神藤さんからはメッセージアプリのスクショが送られてきた。

 どうやら、スミエ ユナはこのマンションの住人だったようだ。


『澄江由奈?』

『七〇五号室の住人』

『五年くらい前から居るかな』

『当時小4とかだったか』

『元々は母親と二人暮らしだったね』

『しばらくして母親の彼氏と二人暮らしになった』

『そんで今は一塊になってる』

『母親込みで』


 分かるような、分からないような。なんとも言えない説明だった。

 ただ、七〇五号室の扉が開いているのには何かしらの意味がある、ということだけは分かった。

 あの真っ暗闇の向こう側に、三人ともまだ居るのだろう。


 もう一度調べてみたが、やっぱりそれらしいニュースは出てこなかった。

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