『たくちゃん』


「友達に聞いた話なんだけどね」


 大学生の頃。住んでいたアパートの隣室に、妙なおばさんが住んでいたそうだ。


 白髪頭の疲れ切った女性で、いつも地面ばかり見て歩くので、しょっちゅう人とぶつかりそうになっていた。

 友達も何度かぶつかられそうになって、身を捩って避けていたらしい。

 明らかに何処かがおかしい人にしか見えなかったので、関わること自体が怖かったんだそうだ。


 女性は常に『たくちゃん』という名の人形を脇に抱えていた。名前は、たまに呼びかけているので分かった。

 赤ちゃんを模して作った、よくある市販の人形だ。

 可愛らしいベビー服を着ていて、なのに荷物みたいに小脇に抱えているから、妙な扱いだなあ、と思っていたらしい。


 子供の代わりにしているなら、もっと丁寧に抱きかかえるだろう。

 時折、片手で髪の毛を掴んでぶら下げたまま歩いていることもあって、それがなんとも言えず異様な光景なのだという。


 友人は早々に引っ越しを考えたが、生憎と金が無い。

 家賃が低いのはこんな理由があったのかと、よく考えずに即決した迂闊な自分を呪った。


 ただ、言ってしまえば、不気味なだけで実害がある訳では無い。

 選べる家賃を考えるに、下手に焦って引っ越して、その先で騒音やらなんやらのトラブルがあっても困る。

 少なくとも静かだし、遭遇しても避ければ問題はないのだ。何処までも、気味が悪いだけで。


 どうしても耐えられなくなったら引っ越そう。

 友達はそう決めて、しばらくの間は我慢することにした。

 言っても相手は痩せたおばさんなので、いざという時はなんとでもなるだろう、とも思っていたようだ。


 それからしばらくして。

 ある夜。家に帰ると、ドアノブに黒いビニール袋が掛かっていたらしい。

 手に取ろうとして、すぐに嫌な予感がして、大学の友人を呼んだそうだ。ひとりで触るの嫌じゃん、と話して。

 怖い話を面白がるタイプの友人だったから、急な呼び出しでも嬉々として来てくれた。


 二人は並んで、黒い袋を手に取った。

 袋の口が硬く結ばれているので、無理矢理ちぎって中を確かめたらしい。


 袋の中身は、手足をばらばらにした人形だった。

 艶々としたつぶらな瞳がこちらを見上げていたのを、今でも覚えているらしい。


 中には、手紙が一緒に入っていたそうだ。


『たくちゃんはりんごが好きです。

 おべんきょうがとくいな良い子です。

 よろしくお願いします』


 二人は顔を見合わせて、それから、ばらばらの人形をもう一度確かめた。

 目的も、意味も、理由もさっぱり分からなかった。


 まあ、隣人に勝手に押し付けて行くのは、百歩譲って良いとする。

 だが捨てて行くにしても、四肢を外す理由はなんだ。外しておいて、一緒に入れているのも分からない。


 頭のおかしな人間のすることなど、考えても仕方ないのかもしれないが。

 あまりに不可解で、しばらくあれやこれやと考えてみたのだが、結局気持ち悪くてすぐに捨ててしまった。


 おばさんは、その夜以来姿を消した。わざわざ尋ねることもないので、行方も何も知らない。


 友達は家賃の安さと、大学への通いやすさを取って、卒業までそこに暮らしていたそうだ。

 おばさん由来の怖い体験は、それきり何もなかったという。


 今でもたまに、ビニール袋に入った人形をふとした時に思い出すらしい。

 その度に、一番薄気味悪かった光景が頭をよぎる。

 人形の股間の部分は、刃物か何かで滅多刺しにされていたそうだ。






 ────いつもなら、此処で『怖かった?』と聞かれるのだが、今日は違った。


「タカヒロは、怖いものある?」


 感想を口にしようとしていた喉が、一旦言葉を仕舞う。

 珍しく、生きてる人が怖い系の話だったな、と言おうと思ったのだが。

 面食らいつつ、間を埋めるようにとりあえずカップの紅茶を一口飲み込んだ。


 怖いもの。

 怖いもの、ねえ。


 自慢じゃないが、俺はなんだって怖い。老若男女すべてが怖い。

 怒鳴ってるジジイを見ると逃げるように離れるし、高い声で話してる女だって苦手で道の端に寄るし、子供だって何やり出すか分かんねえから避けるし、職場の上司に似た背広の男を見ると目眩がするし。


 あとは知らねえ間に増えてる借金とか。どういう訳か居場所を突き止めてくる母親とか。突然読めなくなる文字とか。朝日とか。着信音とか。へんな耳鳴りとか。

 立ってることそのものだとか。


 この世って怖いもんしかねえんじゃねえかな、とずっと思っている。

 生まれてからずっとだ。なんなら、あの人が俺を産もうと決めたこと自体が恐ろしいと思っている。


「なんで?」


 ただ、言っても上手く伝わらない気がしたから、俺は笑いながら聞き返すに留めた。

 こいつは言葉が通じるだけで、心が通じる訳ではない。今の俺が求められている言葉を探すための材料が足りなかった。


「タカヒロ、怪談怖がらないでしょ、あんまり」

「……いや、怖いとは思ってるぜ? でもほら、俺、リアクション薄いから」

「うん、だから、タカヒロの怖いものの話しようよ」


 とりあえず、此奴は俺を怖がらせたいんだろうな、と言うのは分かった。

 やはり怪異として存在するからには、怖がってもらわなければならないのかもしれない。

 いやまあ、こいつは存在自体が充分怖いんだけども。そういうことではないんだろうな。


 マグカップを見下ろして、俺は仕切り板に軽く寄りかかりつつ、再度考えてみた。


 怖いもの。

 怖いものねえ。


「母親かなあ」


 言うつもりはなかった。

 ただ、勝手に口から零れ落ちていた。


「ジュリナか」

「…………おう」


 人の母親を呼び捨てにすんなよ、と笑ってやろうとして、見事に失敗した。

 俺はこいつに、母親の名前を教えたことはない。

 そもそも話したくもない人のことだ。話題に上げることすらない。

 高良珠漓奈については、字面を見るだけでも吐き気を催す。だから、普段の俺はなるべくぼんやりと認識して、あの人と呼ぶようにしている。


 こんなに寒いのに、嫌な汗を掻いていた。


「ジュリナ連れて来たら、怖い?」

「……怖いってか、嫌だな」

「いや」

「凄まじく嫌だし、多分友達辞めると思う」

「ぬわ」


 心の底から嫌すぎて、体裁を取り繕うことすら出来なかった。

 わたわたと、視界の端で長く伸びた指がもつれている。


 焦っている。まあ、そうだろう。こいつには今現在、俺しか友達が居ないので、俺に友達を辞められたら困るのだ。


「連れてこないよ、ほんとだよ、タカヒロ。ほんとだよ」

「分かってるって。もしもの話だろ」


 俺はあの人が何処に居るのか知らない。こいつはもしかしたら知ってるのかもしれないけど。

 あの人も、俺が何処に居るのか知ってるのかもしれないけど。

 もしかしたら此処にも来るのかもしれないけど。


 考えたくないから、早々に思考は放棄した。


 隣人は、少なくとも『しない』と約束したことは本当にしない。

 立証済みだ。こいつは、俺をずっとタカヒロと呼ぶ。俺がそう呼んでくれと頼んで、了承したからだ。


「ね、タカヒロ」

「うん?」

「ジュリナが死んだら嬉しい?」


 俺はしばらくの間、ただじっと、目を閉じていた。


 悪意でもって聞かれた訳ではない。

 どちらかと言えば、善意かもしれない。


 嬉しい、と答えたらどうなるのだろう。

 どうなってしまうのだろう。どうしてくれるのだろう、この隣人は。


 ふと、サイトのレビューに並んだ『ありがとうございます』が、ぼんやりと頭に浮かんだ。

 緩慢な仕草で瞼を持ち上げる。自分の身体じゃないみたいに、全身が妙に重かった。


「……うーん、分からん」

「わかんない?」

「ああ。難しい」

「むつかしいか」

「……難しいよ」


 あの人がいなければ良かったのに、と思ったことは一度や二度じゃない。死んでくれと願ったことなら何度もある。本当に、何度もある。

 昔、寝ているあの人を包丁で刺そうとしたこともある。衝動に任せた行動なのは確かだったが、同時に頭の片隅はずっと冷静だった。

 俺は小学生だから、今ならこの人を殺して捕まっても大丈夫な筈だ、と知っていた。


 まあ、結局包丁は台所に戻したんだが。

 だってさ、嫌だろ。なんで勝手に産んだ人間のせいで、俺がそんな最悪にしんどくて気色悪いことしなきゃならないんだよ。

 今だって嫌だよ。なんであの人のせいで俺が社会的に不利な条件を背負わなきゃならないんだよ。おかしいだろうが。


 それに。

 あの人が死んだら、この世に俺を必要とする人はひとりもいなくなる。


「ねえ、ねえ、タカヒロ、次はこーらのやつがいい」

「あ? 何が」

「ぐみ」

「あー……グミな。今度買ってくるよ」


 一体いつグミの話になったんだろうか。

 半分くらい耳に入ってなかったので、話の流れが分からなかった。


 こいつがこのマンションに憑いてから、随分と長いこと経ってそうなのに、誰も食い物をやろうとしたことはなかったらしい。

 グミを買って帰った日、隣人はあれこれと珍しがって、パッケージが開けられずに一度俺に戻して、それから開いた袋を嬉しそうに受け取ってちまちまと食べた。

 いたく気に入ったらしく、それから一週間に一袋の単位で美味しく食べている。


 食べる楽しみがあるのは良いことだ。

 本当に良いことだと思う。

 本当に。


「今度ね、絶対ね。かたいのじゃなくて、やわこいほうね」

「分かった分かった」


 どうやら余程気に入ったらしい。とびきりに楽しみにしているのが伝わって来たので、思わず笑い混じりに相槌を打つ。

 隣人はくふくふと笑いながら、やけに弾んだ声で言った。


「ありがとね、タカヒロ」


 随分と柔らかい響きだった。

 心の底から期待に満ちた声だった。

 そんな、今生で一番のプレゼント貰ったみたいなリアクションされても。

 たかがグミ如きで。


「や、」


 口走りかけた初めの一音を、無理矢理飲み込む。

 代わりに、普段通りの挨拶を、なんとか絞り出すように呟いた。


「……おやすみ、また明日」

「うん、おやすみ」


 やっぱりさ、死んだら嬉しいよ。


 部屋に戻って、窓を閉めて、マグカップを片付けてから、そこでようやく、言わなくて良かったな、と思った。


 同じくらい、言っとけばよかったな、とも思った。


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