26

 オルフがボーデベルフ家の玄関を踏んだ頃には、既に日が随分ずいぶんと傾いていた。


「おかえりなさいませ。街は楽しめましたか?」


 出迎えたというよりも、まるで待ち構えていたかのようにドアを開けるとバルバラが立っていた。その顔は相変わらず濃い化粧がされているが、今日は目元に青みの強い紫が塗られている。

 足元までを覆うロングのワンピースは絹製だろうか、光沢がある紺で、その胸元が大きく開くように切り込みが入っていた。その間から、下着すら付けていない自慢の張りの良い乳房の上半分が覗いているが、それよりもオルフの気を惹いていたのは何とも言えない甘い匂いだ。ミルクのそれをずっと煮詰めたような強烈な芳香が漂っていて、踏み出した足に力が入らなかった。


「大丈夫でございますか?」

「ああ。少し遊びすぎたようだ」

「それでは、お風呂など、先に入られますか?」

「いや、それよりも少し話がある。書斎にシンデレラとお前の娘たちを呼び、集めておいてくれ」

「お話、ですか」


 と、ようやく彼女は気づいたようだ。


「あの、そちらの方は?」

「その時に紹介しよう。では頼んだ」

「え、ええ」


 バルバラは不満そうに眉をしかめたが、一礼すると、娘たちを呼びに向かった。


「では行こうか」


 オルフは背後に立ち、大きな鞄を手にしていた女性に声を掛け、歩き出した。


 書斎で待っているように言ったが、先に入ったのはオルフたちの方だった。背後にぴたり一メートルの間隔で付いてきた彼女を部屋に入れ、バルバラたちが来るまでに書類に目を通させる。

 オルフたちが書斎に入ってから五分ほどで現れたのが、エルマだった。今日は手足の裾が広がった、随分と緩いレモン色の服を着ている。やや眠そうなのは既に寝ていたからだろうか。

 続いてデボラ、バルバラの二人。最後にシンデレラという順だった。

 シンデレラはへとへとのようで、背中を曲げ、何とか体を部屋まで持ってきたといった有様だ。着ている服が汗で張り付いているのが分かり、それを目にしたデボラが「寄らないでよ」と言うので、彼女は仕方なく一番後ろの壁の本棚の前で、棒立ちになった。

 オルフはオーク製のしっかりとした机とセットになった椅子に腰を下ろしていたが、右斜め後方に両手を腹部の上で合わせて控えていた漆黒のメイド服の女性の声で、閉じていた目をゆっくりと開いた。


「あの、オルフ様。彼女は?」


 質問はバルバラではなく、デボラだった。


「儂が秘書兼使用人として雇ったミーネだ」


 その言葉に一番驚いていたのはバルバラだった。彼女に僅かに遅れ、シンデレラが大きく口を開き「なぜ」と声に出さずに言った。


「この姿で元の国に戻る訳にもいかぬし、ここで只飯喰らいとして置いてもらうのも忍びないでの。だから少し事業を始めさせてもらおうかと思ってな」


 オルフの言葉の意味を、シンデレラは当然としてデボラもエルマも理解していないようだ。バルバラは不安そうな視線を向けたまま、口をつぐんでいる。


「ちょうど良い物件が売っていたのでな、買わせてもらった。そこを仕事場として使い、ゆくゆくはこのサン・ドリヨン侯爵の地位を奪おうと考えておる」

「侯爵様と懇意になろうというのではなく、その地位を奪う、のですか?」

「そうだ。デボラ。お前は考えたことがあるか? 何故自分は王妃ではないのかと」


 無言のままデボラは母、バルバラを見た。それが彼女の答えなのだ。当然だろう。そういう思考すら人生で一度もしてこなかったのだ。


「エルマ。お前は姫になりたいと、一度も思ったことはないか?」

「夢物語りはしますけど、そんな大それたことは……」

「ではバルバラ。貴様は? そういう野望を抱いたことはないか?」

「私には貴族様方のような華やか過ぎる舞台は縁遠い人生だと思っております」


 三人それぞれの顔をしっかりと見たオルフは、ずっと本棚の前で何故かオルフではなくミーネを睨みつけて見ているシンデレラに尋ねた。


「して、シンデレラ。お前はどうだ? 今の自分のままで良いのか? それとも綺麗なドレスを着て、華やかな舞台で、憧れの王子様と共に、広くて何人も使用人がいるお城で、暮らしてみたくはないか?」

「わた、わたしはぁ……そんな……無理な話……」

「無理かどうかを聞いている訳ではない! 儂は貴様の願望をこそ、聞いておる! どっちだ! 望むか、望まぬか!」


 オルフは立ち上がり、屋敷中に響く声を上げた。それは正にオオカミの咆哮で、その場にいた誰もを震え上がらせるに充分な声量と迫力だった。

 シンデレラはあまりの衝撃に思わず倒れそうになったが、何とか踏みとどまり、それどころか一歩、また一歩前へと進み出て、いつしかバルバラたちの前まで出ると、机の上に両手を乗せ、しっかりとオルフを見据え、こう言った。


「わたしはぁ……わた、わたしは! 美しく、なりたい! そして、憧れの人と、一緒に、幸せになりたい! です!」


 おそらく今までに見たことのない姿だったのだろう。バルバラだけでなく、デボラもエルマも、そのシンデレラの姿には口を開き、目を見開き、驚きに言葉を失っていた。


「よくぞ言ったシンデレラ。今日から貴様を、儂の一番の下僕にしてやろう。良いな?」

「はい!」


 目を光り輝かせたシンデレラを見て、オルフはにやり、と口を歪めたのだった。


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赤ずきんとオオカミ卿〜おとぎ異世界世直し草紙〜 凪司工房 @nagi_nt

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