23

 何度も振り返るシンデレラを見送ると、オルフは細心の注意を払い、今一度、屋敷の人間が誰もいないことを確認する。


 ――大丈夫なようだ。


 しかし尾行に気づけなかったのはオルフの落ち度でもあるが、シンデレラにあまりにも存在感がなかったからだろう。気配というものが感じられなかった。それともオルフ自身に問題があったのだろうか。

 まだ痛みの残る右腕を何度か握り、その感覚を確かめる。手そのものは人間のそれに非常に酷似している。だが全体がしっかりとした毛におおわれた上、掌には肉の塊のようなものが節ごとに付いている。それに何より明らかに人のそれではない、鋭い五本の爪だ。強度のほどは分からないが、表皮程度なら容易に切り裂くことができそうだ。

 身体の方も筋肉質なのは良いとして、やはり背中から肩にかけてはしっかりと毛で覆われ、それが胸の上、腹部へと続いている。辛うじて腹筋の部分に肉が露出して見えるが、手で触れるとほとんどが毛の感触で、それが自分のものだとは未だに思えない。


 ――本来の姿に戻っただけよ。


 あの女神と名乗った女はそう言っていた。中途半端に人間の部分が残ったとも言った。

 自分が本当はオオカミだったと言われて納得する人間などいようか。


 幼い頃、オルフにとってオオカミの遠吠えが聞こえる距離は自分の死までの近さでもあった。森に捨てられ、何が食べられるのか、飲めるのか、それすら分からない中で必死にその日を生き延び、見つけた旅人の死体から服やナイフを漁った。

 本物のオオカミに襲われたのは一度だけだ。まだ十歳にもなっていなかったと思う。

 薄暗い森の中を、水場を求めて歩いていた。突然、目の前に影が飛び出した。かと思ったら自分の右の腕から血が流れていた。飛びかかってくるその影に無我夢中になって腰にあったナイフを突き刺し、わめく声が聞こえなくなるまでそれを続けた。最後には馬乗りになって、何度も何度も突いていた。

 それがオオカミだと分かったのは、完全に息絶えてしまってからだった。

 もしあそこで死んでいるのが自分の方だったとしたら、今ここに立っているオオカミもどきの人間は奴の方だったのかも知れない。


 物語の世界だとか、その世界の理だとか、それはオルフにはよく分からなかったし、理解して何か得があるとも思えなかった。

 オルフは誰かを頼りにして生きていくような、そんな人生は歩んでこなかった。誰も信用せず、部下も家臣も役人どもも兵士も何もかも、ただの手駒として使い捨て、ただただ己の権力を高めることばかりに必死だった。それはまた、逆も然りで、誰かに信頼され、色々と任されることはあっても、あくまで仕事上の付き合いで、自分に得がないとなればすぐに裏切ることもよくあった。

 誰を使い、誰が使えないのか。また誰が裏切り、誰が裏切らないのか。

 そこを間違えてはいけない。


 シンデレラは別として、あのデボラとエルマ姉妹、それに母親のバルバラは言葉と考えが単純に一致しているような、そんな馬鹿ではない。特にバルバラに関しては細かく調べておく必要がある。

 だからどうしても一人にならなければいけなかったのだ。


 既に日は高い。

 通りには人の姿が増え始めた。

 籠を背負った野菜売りや水売り、小物修理の御用聞きが店に顔を出しては声を掛けている。

 懐かしい街の臭いだ。

 石と煉瓦で地道の脇が固めてある。そこを馬車が抜けると土煙を巻き上げ、糞尿混じりの臭いを振りまいていく。

 オルフは貴族たちの中では綺麗好きな方だった。だから自分の居室や自分が使う通路に関しては使用人に綺麗に掃除をさせていた。

 けれどいざ街に出ればそこら中に物が捨てられている。水道も整備されていないし、下水以前の問題を感じ、幾つかの街には都市から技術者を雇い入れて上下水道の建造を行った。ただ領土の全てにそれをできるほどの余裕はなかったし、いずれは捨てる予定の土地だ。そこまでの思い入れもなかった。

 だからこういう何もされていない、誰も気にしない、街の臭いを感じると、オルフの中の血が妙に騒ぐ。ならず者たちを殴りつけ、自分の富と権力を拡大していったあの頃を思い出すからだ。


 少し歩いてみて分かったが、立ち並ぶ建物はそれぞれ煉瓦造り、石造り、木造とその製法も材料も実にバラバラだ。屋根も簡単な板を置いただけのものもあれば、わら葺きされているものもあったり、薄く焼いた煉瓦を重ねているものもあったりと、実に多種多様と言える。

 看板を眺めても、飲食店や金物屋、被服に仕立て屋、木工細工の店など、実用的なものが目立つ。

 どうやら領主が技術的な統一を図ったり都市整備計画を立てたりして、城下を整備するという意思がまるで感じられない。

 確かあの小娘が城に向かい、王子に会ってくると言っていたが、オルフが気にするような人間はここの領地にはいないと考えて良さそうだ。


 『アレンビー商会』という看板が目に入った。


 赤煉瓦で土台と屋根が、壁は白く、陽光によって照らし出されている。おそらく混ぜものがされた土壁だろう。支柱は黒っぽい木材になっていて、窓が開けられていた。


「まさかこんな街にもしっかりと事業を考えてる奴がおるとはな」


 看板の下に吊り下げられた札には『使用人紹介承ります』と小さな字で書かれている。

 木製のドアの取っ手には金属製の輪が付けられていて、オルフはそれを手に取り、コツ、コツ、と音を鳴らしてから、声を掛けた。


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