22

 お城で侍女としてチェルが働き始めたことを知らないオルフは、その頃、ボーデベルフ邸を出て、南側にある繁華街へとやってきていた。どうしても付いていくと言い張ったエルマを睨みつけて何とか屋敷に貼り付けての外出で、橋を渡って幾つもの建物が目に入る頃にはようやく自分が身軽になれたのだと、ひと心地着くことができた。

 ただまだ右腕は痛み、添え木に包帯を巻いた痛々しい見た目になっている。


「あのぉ、大丈夫でしょうか」


 背中をかりかりと引っかかれるような声が響いてくるが、オルフは無言のまま、振り返ることもなく通りを歩いていく。


「あのぉ」


 何故だ。屋敷を出た時にはちゃんと確認し、誰も自分の後に付いてきていないということは覚えている。しかしどこからだろう。最初に気づいたのは足音だ。デボラやエルマは革製の靴をいていたから、それとは違う。けれど時折振り返ってみてもどこにもその姿は見つけられない。

 いつ背中から切りつけられるとも分からない世界を生き抜いてきたオルフに対し、完全に気配を断って尾行できる人間などどこの世界でもかなり数が限られるだろう。

 だからこそ、最初は信じられなかったのだ。

 それこそ元使用人の誰かが付けているのかとすら、考えたほどだった。


「あのぉ……オルフ様?」


 だが声を聞けばもうそれと信じる以外にない。


「何だ!」


 返事をしながら後ろを確認すると、背後五メートルの位置に背を少し曲げた汚れたエプロン姿のシンデレラが、心配そうにこちらを伺いながら立っていた。


「何故ついてきた?」

「オルフ様が心配だったのでぇ……いけませんでしたでしょうか?」

わしが言ったこと、覚えておるか?」


 彼女は小首を傾げるだけだ。


「儂は貴様に、先に水汲みを済ませておけと、言っておいたであろう?」

「瓶一つ分はあるので、とりあえず大丈夫です」


 その返答にオルフは頭を振る。


「何の為に済ませておけと言ったのか分かっておらんな。全ての瓶を水で埋めておけと言ったのだ」

「ですけどぉ、瓶がいくつあるかご存知ですか?」

「倉庫のものも勘定に入れて、全部で五十だ」

「それを全部、ですかぁ?」

「そうだ」

「あの」

「何だ」

「オルフ様は私のこと、お嫌いなんでしょうか?」


 はっきりと苦手だと言ってやろうかと思ったが、脳裏にチェルの嫌味ったらしい顔が浮かんだのでやめておいた。ここで下手に扱ってシンデレラが王子と結婚する未来が失われても困る。


「全ては貴様自身の為だ。意味は考えるな。とにかく、水を汲み、瓶をいっぱいにしろ。分かったら屋敷に戻れ。いいな?」

「はい。ですけどぉ」


 オルフは大きな溜息を落とす。


「返事をした後にけどとか、でもとか言うな。それは了承したことに対してケチをつける行為だし、もっと言えば一旦了承したという意思をかき消して相手に不満を感じていることを表明することにもなりかねん。その意味が理解できるか?」

「オルフ様の言うことは、正直、少し難しいと感じることがあります」

「言葉というのは単純なものではない。それは書き言葉、話し言葉変わらず、相手に対して単純に何かを伝える以上に、そこにはその人物の意思や心情が表現されてしまうものなんだ。まずはそのだらりとした口で物を喋る癖を直せ」

「こ、これを、ですかぁ……」

「そうだ」

「どうして、ですかぁ……ですか」


 おびえた目を向ける彼女の前までわざわざ歩いていき、その肩に左手を載せ、ぐっと顔を近づけてこう言った。


「お前を本物の令嬢にしてやる。今のままじゃ、公爵夫人には不釣り合いだからな」


 その言葉に、シンデレラの表情は澄んだ泉のように透明な輝きを放ち、胸の前で両手を組んで彼女は「はい、オルフ様……」と、恍惚こうこつとしてうなずいた。


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