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 一方その頃、右腕を痛めて眠っていた元オオカミ卿こと、オルフはと言えば、実に奇妙なことになったとその毛深い目元に深く皺を刻んでいた。


「お姉さま、ほんと、オルフ様のもふもふときたら、触れているだけでまるで天にも昇ってしまいそうな心地ですわね」


 応接間の金細工が施された手すり付きの椅子に腰を深く下ろしたオルフの足元に屈み込み、エルマと自己紹介した二人姉妹の妹の方が頬を赤らめながらも、その手で彼のお腹や胸の毛並みをでている。


「このような高貴なもふもふをお持ちのお方が偶然わたくしたちの家の前で倒れていただなんて、何という好機、いえ、本当に危ないところでしたわね。賊にでも襲われていたらどうなっていたことか」


 背後に周り、その豊満な胸元をオルフの後頭部に押し付けながら、姉のデボラの方も彼の首筋からあごの下に掛けて、何度も撫で付ける。

 その様子を部屋の入口に立ち、ボロ頭巾を被ったシンデレラはじっと見つめながら、その視線が合う度にオルフに小さく頭を下げていた。それで謝罪をしているつもりなのだろうか。


 チェルが屋敷を出ていったすぐ後のことだ。客室に寝かされていたオルフはそろそろ腕の痛みが紛れてきたので水でも飲みに起きようと、部屋を出たところ、ちょうど歩いてきた姉のデボラとぶつかってしまった。幸いどちらも怪我こそなかったが、自分の家に全く知らない人物、それも見た目が明らかに人ではないそれがいたとなると、悲鳴だけに留まらず、失神してしまったのだ。

 そこに駆けつけた継母と妹に、シンデレラが思わず、


「この方はさる侯爵様ですが、悪い魔法使いに呪いに掛けられ、今はこうしてオオカミの姿をしていらっしゃるのです。危うく行き倒れになりそうなところを、家の前で拾いました」


 そんなへんてこな理屈を並べたのだが、継母たちはすっかり信用してしまったらしく、高貴な人物として丁重に扱われる運びとなったのだ。しかも何故か姉妹はオルフの毛並みをえらく気に入ってしまい、一度撫で始めたら離れなくなってしまった。

 オルフは娘たちを何とかしようと自身の不機嫌さを荒々しい鼻息に混ぜるが、彼女たちの水仕事を知らない綺麗な手で撫でられる度に体の芯からぞわわぞわわと言いようのない快感が競り上がり、その気が紛れてしまう。


 ――何故こんなことになってしまったのか。


 かつて誰もが恐れ慄き、その前にひれ伏したあのヴァーンストル侯爵の威厳は今や微塵みじんもない。娘二人に籠絡ろうらくされているかの如くに体毛を撫でられ、甘えた声を掛けられ、それを振り払うことすら叶わない。

 オルフは必死に自分に言い聞かせようとしていた――これは儂が弱くなったのではなく、この首輪の所為だ――と。

 しかしいくらそう言い訳してみたところで、こんな痴態ちたいを自分を知る人間に晒せる訳がなく、ずっとチェルとかいうあの娘が戻ってこないことを願っていた。


「あなたたち、そろそろオルフ様もお疲れでしょう?」


 部屋に入ってきたのは薄く透けた紫のワンピースと、その内側に白の上下の下着を身に着けている彼女たちの母親だった。名前は確かバルバラとか言ったか。化粧を直してきたようで、先程までは濃く塗られた頬と唇の赤みの強い紫が目立っていたが、今はそれらが抑えめになり、代わりに目元が強調され、睫毛まつげが増え、そこにかすかに光る粉が掛かっているようだ。

 オルフに近寄ると鼻が曲がりそうな強烈な香水の臭いがした。いや、これは人間ではなくオオカミになった所為かも知れない。ともかくこの世界に来て以来、オルフは自分の感覚が今までと違い過ぎて戸惑うことが増えている。特に嗅覚に関しては元々敏感な方ではあったとはいえ、それとは比べ物にならない程に鋭敏になっていた。


「ほら、あなたたちがずっと撫でているからオルフ様もお困りじゃない。そうですよね?」


 それは貴様の香水の所為だ、と言いたいところだったが、母親の言葉で娘二人がようやく離れてくれたので、文句は控えておいた。


「すみません。つい、こう、触れるといつまでももふもふとしていたくなりまして」

「そんなこと言って、本当はお母様が楽しみたいんじゃないの?」


 妹は素直に謝ったが、姉は名残惜しそうに離れた後で、母親を意味ありげに見つめてそう言った。


「あのぉ……」


 か細い、それこそ虫のような声だ。シンデレラのものだが、それすらも今のオルフの耳にはよく響く。


「何? あんた、自分がオルフ様を助けたとでも思ってるの?」


 エルマは小柄で、どことなくチェルに似た雰囲気があるが、その口ぶりの生意気さもそっくりだとオルフには思える。ただチェルと比較して、知識も教養も語彙力ごいりょくも足りていない。おそらく姉と母親の影響だろう。後ろ盾として彼女たちの存在を利用し、自分では何もしてこなかったことが、チェルのそれとは大きく差をつけたのだ。


 オルフはおよそ三十年の人生の中で、様々な人間と対峙してきた。出会う、ではなく、それぞれと命のやり取りをするような対話ややり取りをして、侯爵の地位を掴んだ。そこで養われた経験と選別眼にはそれなりに自信を持っていたし、チェルに何度も馬鹿呼ばわりされたが、そういう態度を取ることでこちらを冷静ではなくさせようという意図があったことも、見抜いていた。

 ただそれでも頭に血が上りやすく、面倒ならさっさと殴るか殺すかして相手を黙らせてきたオルフだ。

 それが気に入らない娘たちにこんなに長時間囲まれ、しかもまるで犬コロのように撫でられ、甘やかされ、可愛がられているという屈辱くつじょくに、自分が爆発してしまわないことが不思議だった。

 牙が抜けたオオカミ卿など、確かに役立たずでしかない。そんな自分に苦笑する。


「だから何? シンデレラ。はっきりお言い」


 いつまでもぼそぼそとしか話さない彼女に苛立った姉が、床をりつけてそう言った。


「ひ、ひぃ! す、すみません! あ、あのですねぇ、ヴァーンストル侯爵様もとてもお疲れになられていらっしゃるので、今日のところは客室にて、お休みいただいた方がよろしいのではないかと、こう思う訳でしてぇ」

「そんなことあなたに言われるまでもなく分かっているわよ。ねえ、お母様」

「ええ、そうよ。分かっているわ。ただ」


 ただ、とバルバラは付け加える。


「オルフ様がどこで寝たいのか、ということについては、聞いてみないとねえ」


 目を細め、オルフに向けてそう言うと、バラバラは唇をゆっくりとナメクジのような舌で撫で回し、軽くキスする真似をした。


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