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「何者だ?」
「わたしは物語の女神ポリム。あなたたちの世界の創造主にして絶対的な存在よ」
彼女がその長い金髪を右手で掻き揚げながらそう言うと、どうやったのか知らないが、周囲が突如、昼のように明るくなった。チェルはあまりの眩しさに暫く目を細め、慣れるのを待つ。
「目、目が!」
だが反応が遅れたらしいオオカミ卿は自分の顔面を押さえ、床でのたうち回った。
「ほんと、バカね」
ようやく輪郭がはっきり見えるようになり、チェルは改めて左右に寝返りを打ちながら唸っている卿を目にした。いや、ヴァーンストル卿であったものを目にした。
その容姿は人ではなく、完全にオオカミと呼んで差し支えないものだった。ただ手足は人のそれに近く、オオカミ人間とでも呼んだ方がいいのだろうか。何とも中途半端なようにも思える。
「おい、何だこの姿は! 一体どうなっている!」
目が見えるようになったらしい卿は二人を見て、怒鳴りつけた。流石にオオカミ人間は嫌らしい。
「本来の姿に戻っただけよ」
「何、だと……」
自称女神はその姿こそがヴァーンストル卿の本当の容姿だと、口走った。
「儂のあの
「だからね、それが元々の容姿なのよ。いえ、本来であれば完全なオオカミでしかないんだけれど、どういう訳か中途半端に人間的な部分が残っちゃってるのよね。流石にバグみたいなもんだと思うわ。後でちゃんとオオカミに戻してあげるから、それについては」
「オオカミになど戻らんぞ!」
「いや、だから貴方は元々オオカミなんだって」
「儂は、人間だ!」
卿は何を思ったか、自称女神の女性にその右手の鋭い爪を向け、襲いかかる。
「あっ」
見事に彼女の首筋を切り裂いた。そう思った次の瞬間には、
「うぐわぁぁぁぁ!!!! 爪が! 爪がぁ!」
卿が叫んでいた。
見ると右手の爪が全部反対側にひん曲がっている。
「あ、ごめんなさい。わたしは女神だから、あなたたちが危害を加えることはできないのよ」
「そういうことはもっと早くに言っておけ!」
涙を滲ませながら卿は叫んで訴える。けれどまだ爪はそのままのようで、歯を食いしばりながらも「ああ」とか「うう」とか呻き声が漏れていた。
「あのさ、自称女神さん」
「自称じゃなくて本物の女神なのよ。何かしら赤ずきんさん」
「あんた、どうやってあの地下牢から出てきたの? 誰かに出してもらえたの?」
泣いていただけの彼女が自分の力でどうこうできたとは思えない。それに、あの袋の中から出てきた闇に吸い込まれたチェルたちと同じ場所にいるというのも、何か妙だ。
「地下牢はもうないわよ。というか、あの城もなくなったわ」
「何だと!?」
チェルよりも大きな声を出したのはようやく爪が元に戻ったらしいオオカミ卿だった。
「儂の城をどうした!」
「どうもしない。そもそもアースヴェルト自体が消えたのよ」
「え? それは流石に意味が理解できない」
「意味を理解するかしないかはわたしの知るところじゃないけれど、あなたたちのいた世界はね、崩壊して、次元の狭間へと落ちてしまったわ」
チェルは自分の頭が悪いとは思わない。寧ろ村の中では賢い方だったはずだ。けれど今目の前で自称女神の女が語った内容は一ミリとして頭に入ってこなかった。
「赤ずきんさんの方にはちゃんと説明したと思うんだけどなあ……わたしはね、物語の女神なの。あなたたち『赤ずきん』の世界も元はといえばわたしが創ったようなものなのよ。そしてその世界であなたたちは物語の
「何、その物語の理って」
「簡単に言えば、ルールね。それぞれの物語世界にはね、ある一定の決まり事があるの。ウサギと亀なら最後には絶対に亀が勝つとか、三匹の子豚なら最初の子豚と二番目の子豚の作る家は失敗してオオカミに食べられ、最後の子豚が作った家だけがオオカミに壊されずに助かるとか、そういうどうしても外れてはいけない決まった筋道があるのよ」
「儂が大嫌いな『運命』という奴か」
「人間はそう呼ぶわね。けれど運命なんてものはちょっとしたさじ加減で変わってしまうものなのよ。そもそも誰か一人の運命の軌道が少し変わったくらいでは大勢に変化なんてないから。でもね、個人の運命とこの物語の理とは大きく異なるのよ。物語の理だけは絶対なの。仮にこの理で死ぬことが決まっているなら、その人物はどんなに頑張っても死ぬことになる」
「じゃあ、あたしたちの世界が崩壊したというのも、その理の所為?」
「それがねえ、違うのよお」
女神は顔を覆うと床に伏せて、おいおいと大袈裟に泣く真似をした。
「本当に儂の城はもうないのか?」
「そうよ」
顔を上げて答えた彼女の目は全然濡れていない。
「そうか」
大きな溜息と共に吐き出された卿の言葉には、簡単には表現できない積年の想いがありそうだと、チェルには思えた。
「そもそもあたしたちの世界が無くなったんだとして、今あたしたちがいるこの場所は何なの?」
「ここ? ここはね……物語の外側の世界。あなたたちの言葉にするなら、わたしの部屋、あるいは家かしらね」
彼女はそう言うと、指を鳴らす。
自分たちの周辺を照らしていた明かりがさあっと広がり、そこには普通の木造家屋の内装が現れた。
テーブルに椅子、暖炉、本棚もある。奥には台所も見えた。
窓越しには花畑が広がり、その向こう側には薄く青くなって見える山のシルエットが広がっていた。
どことなく、アースヴェルトを思わせる。
「ちょっと」
「少し見てくるだけだから」
「危ないわよ」
チェルはドアを開け、外に出る。
そこには一面の花畑が広がっているはずだった。
「え……」
しかし家を一歩出ようとした先から、地面が存在しなかった。真っ暗な闇が今にもチェルを呑み込もうと待ち構えている。空を見上げれば雲も太陽も月も星も何もなく、青くはない、奇妙なマーブル色が渦巻きながら広がっていた。
花畑どころか山もなく、意味の分からない黒い空間にぽつねんと小さな木造の一軒家が浮かんでいるだけに見えた。
「おいおい。こいつは何なんだ?」
「あたしが知る訳ないでしょ、クソオオカミ」
「クソは余計だし、せめて卿くらい付けろ。仮にもお前たちの暮らすヴァーンストル領の領主様だぞ」
「今更領主様もないでしょ。もうあんたの領土もなければ、あたしの村もないのよ」
チェルはただのオオカミになってしまった卿と二人横並びになって、その闇が広がる虚しい空間を見つめた。
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