8

 ぽたり、ぽたりと水音が響いていた。

 気がついたチェルは目を開ける。しかし何も見えてこない。

 ただ両手を縛っていた縄は解かれていて、自由になっていた。その手で自分が横たわっていた床に触れる。

 冷たく、硬い。木の板や布ではない。石か何かだろうか。見回してみるが明かりがない。


「誰かいる?」


 声は響いたが、反響が感じられない。どうやらよほど広い部屋か空間のようだ。

 あの袋から出た闇に吸い込まれた、ということなのだろうが、一体あれは何だったのだろう。祖母は呪詛が詰まっていると言っていた。呪詛というのは単なる呪いの言葉で、相手を呪う気持ち、憎む念が言葉という形を取って空気のように入っているはずだった。


「おい」


 その声は遠くから響いた。


「おい」


 徐々に近づいてくる。

 どうやら相手はこの暗がりの中でもチェルのいる場所が分かるらしい。


「何よ」


 それにその声は耳馴染みのあるものだった。できればチェルの認識は間違っていて欲しいと願ったのだけれど、


「お前、レイチェル・フロウだな?」

「そうよ、ヴァーンストル侯爵」


 傍まで歩いてきたのはあの男だった。

 そのはずだった。けれど声の高さだろうか。何か違和感がある。


「ここはどこだ?」

「知らない」

「あの袋は何だったんだ?」

「知らないわよ」

「貴様は知らないものをぶちまけたというのか?」

「殺されるくらいなら訳の分からないものをぶちまける方がマシでしょう?」

「だがその結果がこれだぞ? この闇の中で、一体どうしろというのだ?」

「あんた、少しは見えてるんでしょ? だったら出口くらい探してきなさいよ」

「もう既に探したわ。だがどこまで行っても何もない。壁すらない。歩き疲れたところに声が聞こえ、お前がいたという訳だ」


 どこかの地下室か何かだと思っていたチェルにとって、その情報は絶望に叩き落とすのに充分なものだった。


「それ、嘘じゃないでしょうね?」

「なら自分で確かめてくればいい。ただ、夜目は利かないのだろう?」

「魔女じゃないんだからそんな闇の中で物を見る力なんてないわよ。というか、あんた、よくこの中で見えるわね」

「さあな。儂にも分からん」


 よいしょ、という声と共に自分の隣に卿が座ったのが分かった。


「ねえ。少しだけ触ってみてもいい?」

「何だ? 何をする気だ?」

「ちょっと確かめるだけよ。触るくらいでわーきゃー言わないでしょ、オオカミ卿ともあろう者が」


 一瞬だけ考えた後で卿は「いいだろう」と唸った。

 チェルは声のした方にゆっくりと右手を伸ばす。暗闇の中で何かに触れるというのは、それだけで何とも気持ち悪いものだが、現状明かりがないので仕方ない。指先に意識を集中しながらそこにあるはずのものに触れた。


「え」


 ものすごく毛深い。


「あんた、そんなに毛だらけだったっけ?」


 チェルは卿の体を思い出す。上半身は裸みたいなもので、確かに胸毛は結構生えていた。それに何かの毛が付いた革のベストを羽織っていたけれども。


「ゴワゴワしてるし、なんだかこの毛」

「儂をくすぐって楽しいのか?」

「触ってるの、分かる?」

「当たり前だろう?」

「というか、あんた、毛しかないんだけど」


 チェルは構わずに両手を使い、卿の全身に触れていく。それは明らかに体毛の多い人間の身体ではなかった。


「ごめん。ちょっと顔もいい?」


 そう口にしたが許可など既に求めてはいなかった。

 手は彼の体毛にしか触れない。それはどう考えても人間ではなく、ただの獣を撫でているようにしか思えない。卿の頭部は全て、体毛に覆われていた。それに鼻と口があるべきところが、随分と前に伸びている。それは明らかに獣の構造だった。


「あんた、本当にヴァーンストル卿?」

「何が言いたい?」

「いや、その……ただのオオカミみたいだなって」

「なぬ?」


 卿はチェルの体を突き飛ばすと、慌てて自分で自分の体に触れて確かめる。


「だって、どう考えたってそうでしょ?」

「儂が、オオカミ、だと?」


 その声に「そうよ」と答えたのは、チェルのものではなく、別の女性の声だ。

 声に続き、ぼんやりとした明かりが灯る。

 そこに浮かび上がったのはチェルが地下牢で出会った、あの自称女神だった。


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