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「という訳で自分たちが置かれている状況をようやく理解してくれましたでしょうか?」


 自称女神はうなだれるチェルとオオカミ卿を前に正座させ、自分は椅子に掛けながら温かい紅茶を淹れて飲んでいた。


「大体ですね、わたしが女神と言っているにもかかわらず、それを誰一人として信用しようとしない。こんなにも信仰心のない人たちが暮らしている世界だとは思いませんでした」


 首を横に振り、目を細めて気まずい表情を浮かべているチェルと茫然自失といった感のオオカミ卿を見やる。


「女神ともあろうわたしが、あの地下牢でどんな仕打ちを受けたか。そもそもですね、元はと言えばあなたたちが世界を歪めてしまったから、こうなってしまったんです。分かっているんですか?」


 チェルはそろそろ足が痛くなってきたと思いながらも、今の自分たちの状況を整理していた。

 目の前の自称さんはチェルたちの暮らしていた世界が無くなったと言っている。その上、その責任はチェルたちにあったと言い始めた。


「今まではほとんど何事も起きることなく、わたしはのんびりと紅茶を嗜みながら読書をしていられたんです。それがですよ、あなたたちで言う十五年前辺りのページから、どうにもおかしなことになり始めて、気づいたらいつの間にか赤ずきんの物語世界は歪みが生じてしまっていたんです」


 十五年前といえばちょうどチェルが生まれた頃だろう。


「その世界の歪みっつーのは、一体何だ?」


 神妙な顔つきで話を聞いていたオオカミ卿が口を開く。


「そもそも儂らの世界がおかしくなったっていうが、そいつは管理者であるあんたの責任なんじゃないか?」


 責任、という言葉に明らかに女神の表情が歪む。


「世界が歪んだというのはですね、その世界の物語の理が失われてしまっているということです。本来であればあなたはオオカミとして、その赤ずきんの祖母を食べ、続いてやってきた赤ずきんも食べ、お腹を大きくして眠っているところを猟師に殺される訳です。けれどオオカミであるはずのあなたは何故かヴァーンストル侯爵としてその地域の領主となり、権力を奮っていた。その上、赤ずきんの祖母は昔、大魔法使いと呼ばれたとても力のある人物になり、あなたが襲うこともなく、この物語の理を無視したまま、何もかもが無茶苦茶な状態でどんどん時が進んでいた。その結果、何が起きたか分かる?」


 オオカミ卿は何故か一度チェルの方を見た。チェルは分からないと首を横に振っただけで、何も言わない。


「世界がね、他の世界に侵食を始めたのよ」


 女神は小さな溜息をつくと、立ち上がり、壁際に立っていた本棚に歩み寄る。そこにはしっかりとした茶色い革の本が何冊も並べられていたが、どういう訳か彼女がその一冊を引き抜くと、その中身がどろりと床に落ちてしまった。


「溶けてる?」

「いいえ、これはね、世界が食べられているのよ。ほら」


 彼女は自分が手に取った一冊を開く。そこには真っ白なページはなく、どこまでもどろどろとした黒っぽい何かが蠢き、時折それがぷつり、と泡を弾かせ、その大きなものは飛び散って、どろりとしたタールのように床へと垂れ落ちた。


「一度侵食された世界はまるで病気にでも罹ったかのようにどんどん壊れていく。それはまるで癌のように、放っておけば手の施しようがないほどにボロボロになり、やがてその世界はどこにも存在しなくなってしまう」

「けどさ、あんた言ったじゃない。あたしたちの世界はもう無くなったって。だったらその元凶は綺麗さっぱり消えてしまって、他の世界を侵食しなくなるんじゃないの?」

「そういう可能性も考えたわよ。けどね、消えたのは元凶じゃなくて、あなたたちの世界だけなの。どういう訳か知らない。ただ一つ考えられるのは、赤ずきんが持っていたあの袋。あの中身が世界を終わらせるものだったんじゃないかしら」


 祖母から呪い袋だと言われた、あの袋のことだ。


「呪詛じゃない、何か黒いものが出てきて、気づいたらあたしもこのオオカミも、ここに連れて来られてたの。もしあれが元凶ならあたしたちはどうしてまだ生きてるの?」

「あなたたちは生きてないわよ」

「何?」

「何だって?」

「だから、生きてる訳じゃないわ。ただ存在しているだけ」


 生きていることと存在しているだけの違いがまず、分からない。


「あなたたちの世界が失われたと言ったわよね。けど、あれはあなたたちの世界の全てが失われた訳じゃないの。世界を構成していた様々なものがバラバラになり、そのうちの大部分については次元の狭間へと落ちてしまってもう戻らない。でもね、世界の欠片として赤ずきんとオオカミは辛うじて残ったのよ。なんと言ってもあなたたちはあの世界の重要人物だからね。他の世界の欠片とは比べ物にならないくらいしぶといの」

「生きてるかどうかはどうでもいい。儂はこのオオカミの体で、これからどうやって過ごせばいいんだ? ここにはお前とその小娘しかいないんだろう? それとも儂に新しい世界でも用意してくれるのか?」

「新しい世界にあなたたちを放り込んだら、それこそ世界の侵食が早まるだけじゃない。一体何を……」


 女神はそこまで言ってから、口に手を当てて何やら考え込んだ。


「あたしも嫌よ。女神のおばさんはまだいいとして、このクソオオカミと一緒に暮らすだなんて、どんな拷問よりも酷い仕打ちじゃない」

「何だと? そんなこと言うなら儂が本物の拷問というものをだな」

「あの」

「もう自分の城も権力も何もないっていうのに、まだそんなこと言ってんの? だからバカだっていうのよ。ちょっとは現実ってものを見なさいよ。ここにはあんたの部下も、あんたを助ける役人も、あんたを守る兵士すらいないのよ?」

「儂がそんなものを必要とすると思っているのか? ヴァーンストル侯爵になるまで、いくら自分の手を汚してきたのか、小娘には分からんだろうな」

「あの!」


 女神が手を挙げて声を出す。


「何よ?」

「何だ!」

「あの、一つ提案があります。あなたたちにとっても悪い話じゃないと思うんだけど?」


 彼女はそう言って口元に微笑を浮かべ、チェルとオオカミ卿、それぞれを見つめたのだった。


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