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 ほーら、やっぱり魔除けなんてないじゃない。そんなことを思いながらも、上手く口で煙に巻いてやったことに気持ちよくなっているチェルは、珍しくスキップなんて踏みながら祖母の家へとやってきた。

 煙突からゆるりと煙が上がる、煉瓦造りの家だ。家の右手には大量の薪が積み上がっていたが、以前惚れ薬を調合して見事に結婚相手を捕まえた猟師が未だにきっちりと薪を持ってきては置いていってくれるらしい。

 木で出来たドアを叩く。


「ねえお祖母ちゃん、起きてる?」


 祖母は若い頃はそれはスリムで傾国の美女だと呼ばれていたと自分で言っているが、今はその面影を見つけるのは底なし沼に沈めた宝石を探すかの如くに困難で、横幅は猪よりも丸く、体重は雄鹿を優に超えるだろう。去年から歩くことすら困難になり、今では一日の大半をベッドの上で過ごしている。

 だから時々様子見も兼ねて、チェルがお使いを頼まれるのだ。ちなみに母親は薬師の仕事が忙しいといってほとんど来ない。


「ねえお祖母ちゃん?」


 ドアに耳をぴたりと貼り付け、様子を伺っていると、中で何かが動く物音がした。生きてはいるようだ。


「入るよ」


 声を掛けてから、ドアを開ける。

 中は右手側に暖炉が造り付けてあり、左側にはテーブルと戸棚が、その奥に台所、それからカーテンを挟んで寝室になっているのだけれど、そのカーテンの下の方がふくらんでいた。


「お祖母ちゃん?」

「ああ、チェルかい」


 もごもごとした声が響く。


「お祖母ちゃん?」


 彼女は用心しながらそのカーテンの膨らんだ部分に近づくと、声を掛けながら布を持ち上げる。


「ちょっと、どうしたのよ」


 三日前に見た時から体の大きさが横に倍は広がっている。まるで風船を膨らませたかのように体が膨らんでいて、立てずに床で仰向けに転がっていた。上着は一部が裂け、今にも胸やお腹の肉がはみ出してきそうになっている。


「いやね、台所に立つのも億劫になっちゃったものだから、体がふわっと浮かばないものかと思ってねえ」


 何とか頭を起こしてベッドを背にして座らせた。


「これ、直せるんでしょうね」

「何言ってるんだい。大魔法使いローサ様だよ? これくらい」


 伸ばした右手は何を掴もうとしているのだろう。とても床には届かず、自分の顔すら掻けない。


「チェル。すまないが、その魔法のステッキ取っておくれ」


 見ると足元に三十センチほどの木の棒が落ちていた。何ということのないただの棒切れだ。チェルはそれを拾い上げると「これのどこが魔法のステッキなの」と呆れ顔で宙をばたばたとさせている右手に渡した。


「魔法っていうのはね、えいや、って唱えたところで簡単には使えないものなのさ。これはね、魔力をハシバミの木の枝に注入して触媒にしたものだよ。これで元通りに……」


 虚空に何か文字が描かれた。一瞬光の粒子が飛んだように見えたが、目の錯覚かも知れないとチェルは考えてしまう。

 ぷす、という音が響き、あっという間に祖母の体は半分程度の大きさへと縮んでしまった。それでも半分だ。まだチェル五人分くらいはある。けれど彼女はその重そうな体で立ち上がると、


「あ痛たたた」


 やはり膝が痛いようで、すぐにベッドに横になってしまった。


「もう、そういうことしてるからお母さんが来なくなるんでしょ」


 溜息をつきながらチェルは床に置いたバスケットから葡萄酒と煎じ薬を取り出し、葡萄酒の方は地下の冷暗室に入れ、薬の方は一包を祖母に渡すと、カップに水を注いだ。


「いつもすまないねえ」


 そう言ってから薬を流し込むと、今度はせる。


「もうそういう歳なのよ。だから無理はしないで、ゆるゆる生きててくれればいいの」


 チェルは背中を擦りながらそう言い聞かせる。


「ありがとうねえ。チェルだけが心の拠り所だよ」


 涙を滲ませる祖母にハンカチを渡すと、彼女はそれで勢い良くはなをかんだ。ばっちいな、と思いつつもハンカチを受け取ると、台所の瓶から柄杓ひしゃくで水をすくい、それで軽く濯いだ。


「ところでお祖母ちゃん。前に言ってた、呪い袋って、本当にあるの?」

「何だい。誰か呪いたい奴でもできたのかい?」

「そういう訳じゃないんだけどさ、前に言ってたじゃない。呪いっていうのは魔法とは違うんだって」


 祖母はチェルがお使いにやってくる度に、魔法使いのことわりについて教えてくれる。あまり勉強は好きな方ではないけれど、学校もなく、算術すら村のほとんどの子たちは知らない。親か近所の人間が教えなければ子どもたちは何も知らないまま大人になるしかなかった。

 だからそうはならないようにと祖母が色々教えてくれていた訳だけれど、最近は生活に役立つことよりも魔法使いとして彼女を育てようとしてる節があった。ただチェルの母親と同じように、あまりそちらへの興味は持てない。母親がやがて薬草や魔法薬の方に傾倒していったように、チェルも祖母の後を継いで魔法使いになる、という選択をしないことだろう。


「呪いはね、魔法が使えない人間にも扱うことができるんだよ。魔力なんて要らないのさ」

「誰でも呪うことができる、ということ? その杖とかなくても」

「呪いに必要なのは言葉だけさ。人というのはね、自分で思っている以上に他人の言葉というものに影響を受ける。例えば私がチェルのことを毎日可愛いと言ったとしよう。すると本人が自分を可愛いと思っていなくてもいつの間にか自分は可愛いものだと思うようになってしまう」

「確かに毎日そんなに言われたら、もしかしてって思っちゃうかもだけど、それは洗脳っていうんじゃないの?」

「洗脳に興味があるかい? ひひひ」


 洗脳という言葉に祖母は皺だらけの鼻をひくひくとさせ、実に楽しそうにチェルを見る。


「興味はないけど、毎日言い続けて思い込むのって、洗脳じゃないの?」

「洗脳といえば洗脳だねえ。けど、ほんとの洗脳っていうのは一度頭の中を、いや、心そのものを砕いて平らにしてしまってから、その上に新しい気持ちや感情、考えを植え付けることなんだよ。当然そのやり方というのも魔法使いの理には書かれているわ。けれどね、洗脳というのは相手の心を破壊する行為でもあるからとても危険なんだよ。一度壊してしまえば元に戻すという訳にはいかないからね」


 時折、ぞっとするほど冷たい声で説明することがあった。それは常々言っている魔法使いの理というものがこの世界の仕組みを操作してしまえるほど強大な力を秘めているからなのだろう。洗脳によって人を壊せるというのなら、かつて存在したという闇の魔女たちは多くの人間の心を砕いていたことだろう。全ては祖母たちから聞かされた伝承に過ぎないのかも知れないが、かつてこの国を救ったという大魔法使いである祖母が言うのだから、ただの子ども騙しの昔話ではないのだ。

 それでもチェルは思っていた。今はもう、そんな強大な力はどこにも存在していないと。


「まあ呪いの方は洗脳とは違って、相手の心を壊すんじゃなく、相手の心を病ませるんだから、まだ優しい方かしらねえ」


 それはどちらも大差ないのでは、と思ったが声には出さずにおく。


「そうそう。誰かを三日くらい寝込ませる程度の呪い袋なら、確かここにあったわね」


 祖母は重そうな体を揺すって立ち上がると、ベッド脇の棚の引き出しを幾つか開けては「これでもないねえ」と探してくれた。


「ああ。これだね」


 そう言って手に取ったのは薄汚れた拳程度の大きさの袋だった。くすんだ赤色の紐できつく縛られている。


「これ、どう使うの?」

「簡単だよ。呪いたい相手の前で、この紐を引けばいいのさ。そうして中を覗いた人間が呪われる。中にはね、呪詛じゅそが詰められていて、それが三日三晩、耳から離れなくなるだけさ」


 聞いているだけで気が滅入りそうだ。


「ちょっと借りてもいい?」

「ああ。上げるよ。一度開いたら全ての中身は出てしまうからね」

「でもまた中身を詰めれば使えるんでしょ?」

「できなくはないが、呪詛を吐くというのもなかなか大変なのよ。普段そんなに相手のことを殺したいほど憎んだりはしないものでしょう?」


 チェルには度々そういう相手が目の前に現れることがあったが、笑顔だけ浮かべて黙っておいた。


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