第一章 赤い頭巾

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 まだまだ夕刻にはほど遠い。だというのに見上げても木れ日すら差し込んでこない陰鬱いんうつとした暗がりが、どこまでも続いている。右を見ても左を見ても同じような背の高い針葉樹が回廊を作っている。祖母からはトウヒと呼ぶのだと教わったけれど、彼女にとっては葉っぱが落ちるのか落ちないのか、大きいのか細いのか、その程度の認識しか必要ない、と思っているから、いちいち名前なんて覚えていられない。

 記憶力が悪い方ではない。

 ただ祖母の家までの道が、分かりづらすぎる。道案内の看板一つ立っていない上に、こうも同じような場所ばかりでは流石の彼女も何度か道を間違えてしまう。


 ――また同じ場所じゃない。


 目印にナイフで切り込みを入れておいた木が目に入り、彼女は今日三度目の溜息を零した。

 母親から葡萄酒ぶどうしゅが頃合いになったから、せんぐすりと一緒に祖母のところに持っていって欲しいと頼まれ、仕方なく五メルクで引き受けてやったけれど、こんなことなら大人しくパイ焼きでも手伝っているのだった。

 苛立ちを足元の小石にぶつける。それは三メートルほど前に立つ木立に当たり、どこかに消えてしまう。

 彼女はもう一度頭に祖母の家までの地図を思い描き、歩き出す。しかし、歩く度に背中にフードが当たるものだから、それが彼女の苛立ちを助長する。


「これは魔除けの頭巾だから、森を歩く時には決して脱いではいけないよ」


 一体どんな魔をこの真っ赤な頭巾が退しりぞけてくれるというのだろうか。いくら祖母が『森の魔女』としてこのアースヴェルトで有名だといっても、今時、魔だとか魔法だとか、それこそ呪いといったものの存在を信じろという方がどうかしている。

 彼女の細い右腕は籠の持ち手の部分が食い込んで、既に小さな悲鳴を上げ始めている。その元凶たる葡萄酒を全て飲んでやろうかしら、と思ったが、まだ十五歳。酔っ払っている姿なんかを見かけられた日には村中で放蕩娘ほうとうむすめと笑われてしまう。これでもみんなからは『赤頭巾』と呼ばれ、可愛がられているのだ。その印象をぶち壊しにしては自分の今後の人生に支障が出る。

 ただその通称を、彼女は酷く嫌っていた。何故なら彼女にはレイチェルという立派な名前があるからだ。ちなみに母親と祖母は彼女のことをチェルと呼ぶ。

 チェルには父親はいない。母からそう説明された。彼女が小さい頃に家に同居していた男は酒に溺れ、女に溺れ、ついには川で溺れて死んでしまうような、そんな惨めな人生を送ったことだけを教わった。

 だから彼女はその男のようには決してならないと、決意を固くしている。

 と、がさがさと茂みがざわめいた。

 この森を歩くとよく獣に遭遇する。多くはいのしし鹿しか、あとは狐もいる。また時折野犬にも遭遇するが、中には狼や熊という危険な猛獣に遭うこともあった。

 ただこの魔除けの頭巾のお陰か、彼女は一度として、そういう危険な獣に出会ったことはない。

 だからこの時もどうせ狐だろう、と思って気にせずに通り過ぎてしまおうとしたのだが、


「おっと、待ちな」


 茂みを割って現れたのは獣は獣でも、人間のオスだった。それも三人もいる。彼らは手にナタを持ち、その刃先を彼女の方へと向けながら、ニタニタとした笑みを浮かべている。

 おそらく噂に聞いている娘攫むすめさらいだろう。

 山賊や盗賊、通りすがりの殺人鬼という可能性もあったが、葡萄酒一つ奪ったところで三人もいたら一瞬の楽しみにしかならないし、彼女は百五十センチにも満たない小柄で、どう見ても成人している女性とは考えられないからだ。


「あたし、用事があるから」


 付き合う義理はない。

 それだけ言ってさっさと行ってしまおうとしたが、大柄な一人が腕を伸ばし、彼女の右腕から下がるバスケットを掴んだ。


「その手、何日洗ってないの?」


 だが男は笑っているだけだ。彼女の言葉が分からない訳ではないだろうが、三人の中で一番小柄に見える猫背の男だけが口を開き、話しかけてくる。


「この森が誰の持ち物か知っているな?」


 土地というものが誰かの所有物になっている。その現状について彼女は正直気に食わないのだけれど、このアースヴェルトと呼ばれる地域の西側の大部分を占める森は、ある人物の私有地ということになっている。

 その人物こそ誰もが『オオカミ卿』と恐れるヴァーンストル侯爵である。身の丈は二メートルとも三メートルとも云われ、暴力を好み、残虐を愛し、血肉を踊らせることに無上の喜びを見出すという、彼の領民からすれば歓迎したくない人格をしている、とても残念な領主のことだ。


「無断で入って許されると思っているのか? なあ嬢ちゃんよ」

「そのヴァーンストルなにがしがそう言ってるの?」

「そんな口を利いてタダで済むと思うなよ」


 猫背の隣にいた厳つい男はどうにも血の気が多いらしい。彼女をにらみつけると「こいつさっさと捕まえりゃいいんだろ」と束ねていた縄を両手で握り、二歩ほど前に出てきた。


「おい待て。娘には傷一つ付けるなときつく言われてるだろう? ここはちゃんと交渉で分からせた上で、縛るんだよ。ということで嬢ちゃん、俺たちに大人しく付いてきてくれないかな?」


 丁寧な人攫いとは少し珍しいと思いつつ、彼女は口元に笑みを浮かべる。


「ねえ。付いていってやってもいいけどさ、その前に、あたしを連れていけばあんたら幾ら貰えるの?」

「百メルクだ」

「娘一人でたったの百なの。ほんとそのヴァーンストル某ってケチなのねえ。噂通りだわ」


 チェルたちの村の人間の一般的な月収が約千メルクほどだから十人も連れていけばそれなりの稼ぎになるとはいえ、そんな端金はしたがねで売られてはこちらはたまったものではない。


「じゃあその百メルクを三人で山分けなの? 一人たったの三十三メルクぽっち?」

「うるせえな。ライスがこれを元手にして大儲けさせてやるっつってるから、いいんだよ」


 どうやら猫背男はライスと言うらしい。


「あんたらバカねえ。特にその脇の木偶でくぼう二人」

「ああん!?」

「凄んだって駄目よ。分かんないの? 二人してそのライスに担がれてんの。だまされてんのよ。そいつが全部賞金持ち逃げするつもりなんだから。そうでしょ、ライスさん?」


 チェルの言葉で明らかに二人の目の色が変わるのが分かった。これはチャンスとばかりに言葉を並べる。


「どう考えたってあんたら二人の方がそのライスさんより強いじゃない。実際力仕事は全部あんたら任せ? 自分は楽な立場で稼ぐだけ稼いでおいて、それで賞金は自分が全部持っていくつもり? 儲けさせてやるって、具体的な話、聞いたの? あ、バカだから話聞いたところで分かんなかったんだ。そうだよね。だからそんな簡単な詐欺さぎに引っかかるんだもんねえ。ほんと、持つべきものは脳筋バカの捨て駒って訳」

「おい、ライス。ほんとか?」

「あの小娘の言ってること、どうなんだ?」


 信頼のない関係性ほど、ちょっとした疑いから崩壊し易い。


「なあ? 何とか言えよ、ライス」

「おい!」

「お前ら、ちょっと落ち着けって。俺がいつお前らを騙すなんて言った? あの小娘の話を信じる前に俺の話を信じろよ。絶対に損はさせないって。な?」

「オレら、まだ、具体的な話、聞いてない」

「そうだそうだ! どうやって儲けさせてくれるってんだよ!」

「いや、だからそれは」


 三人の視線が完全にチェルから外れている間に、彼女は足音を殺しながらその場から離れてしまった。

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