第3話 正しき怒り

 ホームセンターには最後まで悪臭に抗った勇者たちの記録が残されていた。


 すでに俺の屁は日本中に拡散している。

 政府の発表はあったがすぐにテレビもネットもラジオも繋がらなくなったらしい。

 自衛隊が救助に来ると連絡はあったが到着した様子はない。

 消臭剤の大手メーカーである親父が務めている会社も国に全面協力している。

 父さんはどうしているだろうか。


 様々なことが記載されていた。

 中でも重要なのは安全圏の存在だ。

 安全圏。それは森や山。どうも自然という天然の消臭剤の中ではゾンビの動きは著しく低下する。臭雲も山などは避けるらしい。

 ゾンビを轢きながら車で逃げる家族もいたようだ。


 左腕の骨折。

 熱で頭が朦朧とするが国道を伝って山道に入っていく。


「……無駄だったか」


 大規模な玉突き事故があって道がふさがれている。

 その周りには事故車に乗っていたと思われる悪臭ゾンビが徘徊していた。

 ゾンビは道路から外れない。

 確かに自然は避けている。

 でも左手が骨折した状態で山道を行く力はない。

 デオドラントスプレーを噴射しながら事故現場を抜け出す。

 この先にはキャンプ場があったはずだ。

 そこまでいけばもしかすると生きている人間に会えるかもしれない。

 会ってどうしたいかもわからないが。


「なんで……自然の中は安全じゃなかったのかよ」


 まだキャンプ場にはついていない。

 ついていないのに悪臭がする。

 俺の屁の臭いだ。

 自然という天然の消臭剤が俺の屁の臭いに負けている。

 すでに山の中。山の中なのに臭い。臭かったらダメなのに。


「……猪がこんなキャンプ場の付近に出たらダメだろ」


 悪臭ゾンビ猪。

 恐れていた事態だ。

 野生動物まで悪臭ゾンビに支配されて、自然界が俺の屁の臭いに覆われていく。


「こんなの対応できるのか?」


 デオドラントスプレーを噴射しながらけん制して逃げる。

 幸いなことにゾンビ化した野生動物の方が人間よりも逃げやすい。

 嗅覚が優れているのであまり強くない消臭剤でも避けてくれるのだ。

 だが消臭剤が尽きればたちまち餌食になるだろう。

 山の中にも安全圏はない。

 でも降りる気力も体力もない。

 デオドラントスプレーを噴射しながらキャンプ場を徘徊していたゾンビを駆逐して今日は泊まることにした。


 火と消臭剤は絶やさない。

 キャンプ場には保存の利く食料が多くあったのでなぜでラーメンを食べる。

 泣きながら食べる。

 俺はまだ生きている。でももう死ぬだろう。こんな生活が長く続くはずがない。

 救いはない。

 救われたいとも思わない。

 ただ生きている人間に会いたかった。

 使用者不在のテント。誰のかわからない寝袋。その誰かは俺の屁の臭いさせながらキャンプ場を徘徊していたゾンビの一人のはずだ。

 次第に俺は悪臭に呑まれてゾンビになれないことを呪うようになった。


 ――ブオオオオォォォォーーーーン


 疲労と激痛と吐き気で眠れない夜。

 文明の音がした。エンジンの音だ。ヘリコプターが飛んでいる。

 生きている人間がいる。

 そのことに気付いた俺はテントから這い出して、上空を見上げた。

 自衛隊のヘリだ。この辺りの上空を巡回している。

 キャンプ場の焚き火を発見して見に来たらしい。

 俺は焚き火の前に身を晒し、事故車両から拝借した発煙筒を炊いて生存をアピールする。

 そんな俺に気付いたのだろう。

 ヘリコプターがキャンプ場の広場に無事着陸した。


 中から防護服に身を包んだ二人の隊員が出てきた。

 手には銃とスカウターのようなモノ。

 生きている人間だ。

 俺が教室で屁をしてから初めて遭遇した人間だった。

 スカウターから甲高い警告音がなっていた


「君は……生きているのか。この悪臭の中でどうやって? 基準値は超えているぞ」


 どうやら悪臭の濃度を測っていたらしい。

 どうやら俺の鼻は麻痺をしていたようだ。この辺りはすでに俺の屁が充満している。目が痛くないから大丈夫な濃度だと勘違いしていた。

 すでにこのキャンプ場は致死量のエリアらしい。

 俺は右手を上げて無抵抗と知性が残っていることを主張する。

 俺自身が人間かどうかはもはや自信がない。


「生きてます。俺の名前は上冬明士って言います。ちゃんと生きています」


「上冬明士? 君は臭くないのか?」


 自衛隊員は銃口を俺に向けたまま降ろさない。

 当たり前だろう。

 ここで俺の受け入れるはずがない。

 俺も受け入れられるはずがないと思っている。

 臭ってないつもりだが、もう自分の体臭にも自信が持てない。自分を人間だと思い込んでいるだけのゾンビかもしれない。

 警戒されて当然だ。


「臭いです。ずっと臭いです。目も痛いです。もうわけがわかりません」


「……そうか。大変だったな。報告にあったキャンプ場で要救助はっけ――」


「――待て。まだ要救助者とは報告するな」


 もう一人の隊員が静止する。

 ヘリコプターを降りてからずっと周囲と俺を警戒していた人だ。

 こちらの方が上官なのだろう。

 防護服越しでどんな顔をしているのかわからない。

 でもずっと銃口を俺に向けてわずかな隙もない。


「この中で生きている君をすぐに要救助者として迎い入れることはできない。我々も情報がほしい。どうやってこの悪臭の中で正気を保っているんだ。……それに君のその制服。神在高校の生徒だな」


「そうです……けど」


 神在高校。

 俺の通っている高校の名前。

 そういえばずっと制服姿だった。

 左腕が動かなくて。着替えるのも億劫で。教室で屁をしたあのときからずっと制服姿のままだった。

 どうして自衛隊員が高校の名前まで知っているんだろう。


「俺達は昨日あの高校の制圧に行った」


「え?」


「全校生徒がゾンビ化した。現在全国で起こっている悪臭ゾンビ化現象の発生源だとされている。どうしてその高校の生き残りがこんなキャンプ場にいる? どうやって逃れた!?」


「隊長! 落ち着いて!」


「俺は落ち着いている! 聞かせてくれ! 神在高校には俺の娘が通っていたんだ! どうしてこんなことになった! どうして俺は自分の娘を撃たなければならなかった!」


「むすめ……?」


 血の気が引いた。

 心臓がバクバクと破裂しそうなほど脈動する。

 もう自分は人間ではないかもしれないと思っていた。救われたいとも思っていなかった。死にたいとすら思っていた。でもまだ最悪の底ではなかった。

 好きだった人は父親を尊敬していた。屈強な父親を誇りにしていた。だからも俺も筋トレを始めたりした。


「柏原さん?」


「娘を知っているのか!?」


「はは……ははは……ははははははははははははははははは」


 口から笑いが漏れている。

 なぜ笑っているのかわからない。

 膝から崩れ落ちた。

 もうぐちゃぐちゃだ。

 どうしてこんなことになった?

 俺にもわからないでも原因はわかっている。

 ひとしきり笑った後。

 俺は完全に壊れた。


「全ては俺の屁が臭すぎたせい。そう言ったら信じてもらえますか?」


 気づけば全てを告白していた。

 好きだった人を殺した。

 屁が臭すぎて殺した。

 皆殺した。

 そして今俺の前には娘を殺された父親が銃を持って俺の前に立っている。

 やっと楽になれると思ったにに。


「そうか……屁か」


「隊長信じるんですか!」


「信じるかは調査次第だ。でも嘘は言っていないだろう」


「……信じてくれるんですか?」


 カツカツと音を鳴らしながら柏原さんの父親が俺の方に歩いてくる。

 信じてくれた。でも優しさではない。冷静なだけ。警戒は緩んでいない。その証拠に銃口は下がらない。

 俺は心のどこかで、怒りに任せて殺してくれることを望んでいた。

 世界は優しくないのに。


「屁は生理現象だ。君は意図したわけでも望んだわけでもないだろう。君は生きていた。そして屁をした。それだけだろう」


「……はい」


「だが人類は君を許さない。俺もお前を許さない。君は生きているだけで世界を滅ぼす。人間とすら認められない化け物だ」


「…………」


「だから苦しめ。苦しみ続けろモルモット。人類のために生きたまま地獄を味わえ。楽に死ねると思うな」


 銃口は下げられた。

 そして一発殴られて俺は意識を失った。

 最後の一発は娘を殺された父親としての義憤か。

 それとも俺を人間として扱ってくれた優しさかはわからない。

 こうして俺は実験動物となり、全てを抹消された。

 いつ死んだのかは俺も知らない。

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