第2話 全ては手遅れだった

 学校を抜け出した俺は家に逃げ帰ろうとしていた。

 その道中で俺は屁をしていない。

 急激にガスが溜まっている気がするが怖くてできない。

 せめて自宅で……家ならば……玄関?


 玄関のドアを開けて家の中に入ると急に目が痛くなった。

 それに俺の屁の臭いだ。


「はは……ははは……ははははは……そうだよな。今日は玄関で屁をしたもんな」


 家にいたのは母さんただ一人。

 日本でも有数の雑貨メーカーに勤めている父さんは会社に行っている。

 母さんは今朝からずっと家にいた。

 俺が帰ってきた物音に気付いたのだろう。


 だらりとして両腕。

 虚ろな瞳。

 柏原さんと同じ症状。時間が経っているからか彼女よりも体臭が濃い気がする。

 もう逃げる気力もない。

 どうやら俺は母親も殺していたらしい。


 なぜ俺は無事なのだろう。

 屁の発生源が俺だから?

 もうどうでもいい。

 すでに逃げる気力さえなくなった。動かない左腕。靴を脱ぐことすらできずそのまま座り込む。

 けれどいつまで経っても母さんは襲ってこない。

 いやなにかを警戒して俺に近づいてこなかった。

 俺が動くと反応するので生者に襲いかかるゾンビの性質は持っている。


「……玄関に近づけないのか」


 そうとしか考えられない挙動。

 玄関にはこの事態を打開するためのなにかがある。

 普通の玄関だ。

 特別なところはない。


「もしかしてこれか?」


 ゾンビの発生源は屁だ。ならば臭いが起因している。

 玄関で臭い関連と言えば置き型消臭剤しかない。

 試しに消臭剤を持ったまま近づこうとすると。


「……離れていく」


 悪臭ゾンビは消臭剤に弱いらしい。

 消臭剤ならば家にたくさんある。

 俺のポケットにも小型のデオドラントスプレーが入っている。

 父親の務めている会社の試供品だ。

 試しにデオドラントスプレーに母さんに噴射してみた。


「母さん!?」


 母さんのゾンビがわずかに苦しむような挙動を見せたあと、静かにその場で倒れ伏した。

 警戒は緩めない。

 それでも音を立てないように近づいてその手を取り、脈を計る。

 脈は止まったまま動く気配はない。

 ゾンビは活動を止めても人間として蘇ることはないようだ。

 デオドラントスプレーをかけ続けて完全に臭いを絶つ。

 父親が試供品を持って帰ってくるので家には大量に保管されていた。

 そのまま食事を取りながら一晩待つ。

 途中でテレビをつけたが映らなかった。ネットワークも地域が完全に遮断されているようだ。こうなるとスマートフォンも意味がない。


 学校はどうなっただろう。

 外の様子はわからない。

 怖くて見ていない。


 情報を遮断し、瞳を閉じ、耳を塞ぎ、現実から逃避して一晩経った。

 母さんの遺体はもう動かない。

 一晩隣にいた。左腕は折れているのか腫れあがっている。俺の心もだいぶ壊れているようだ。


「じゃあ母さん行ってくるよ」


 右手にデオドラントスプレー。リュックサックに食料と大量の消臭関連製品を詰めこんで家を出る。

 母さんの遺体は右腕だけでベッドに運んで安置した。

 消臭した後は再びゾンビ化することはなかった。

 残ったのは人間の遺体。

 それだけは救いかもしれない。


 とりあえずホームセンターを目指すことにした。

 コンビニにも消臭剤は売っている。でも量が足りない。

 ゾンビは消臭剤を嫌い、デオドラントスプレーで倒せる。


 この単純なことに気づけば自分以外にも生き残りがいるはずだ。

 その可能性を信じて、拠点となる場所を巡るつもりだった。

 だったのだが……。


「糞……これはきついな」


 街がすでに臭すぎる。

 家の中は消臭剤が置かれているので気付けなかった。

 すでに街中が人間をゾンビ化する俺の屁に覆われてしまっている。俺はシュノーケリング用のゴーグルとマスクをつけて街の中を歩き出す。


 屋外はすでにだめだが屋内ならば生き残りがいるはずだ。希望を捨ててはいけない。

 外には悪臭を放つゾンビがたむろしているエリアが点在している。

 奴らは自由に歩き回っているわけではない。

 どうもゾンビ一体では悪臭はそれほど広範囲に広がらない。これは母さんのゾンビを見てわかった話だ。

 けれど群れたら別だ。相乗効果で一気に悪臭が酷くなる。しかも集団になると臭いが可視化される。臭雲の発生だ。臭雲は臭いが強すぎてに手持ちの消臭剤では太刀打ちできそうにない。

 デオドラントスプレーで挑むのは無謀だ。

 悪臭が濃くなればなるほどゾンビの動きも活発になる。

 移動するゾンビの群れに呑まれれば俺はひとたまりもない。

 臭雲から逃げて移動するしかない。


 街を歩いていると俺の屁の悪臭がここまで急激に拡散した理由がわかった。

 犬やカラスなど嗅覚の鋭い動物たちが拡散の犯人だ。

 嗅覚の鋭い動物達は人間よりもはるかに早く俺の屁に汚染された。ゾンビ化して広範囲に臭いを拡散させているのだ。

 臭雲から逃げ回り、時折ハグレのゾンビを人間の遺体に戻しながら進むとついにホームセンターにたどり着いたが。


「……ここはもうダメだな」


 悪臭ゾンビの群れと交戦した痕があった。

 そして人間は敗れたのだ。

 ゾンビが建物の中を歩き回っている。俺の母さんと同じようにゾンビ化していない遺体が多く転がっている。

 無残に踏みつぶされた置き型の消臭剤によるバリケード。集まった人々は消臭剤とデオドラントスプレーで屋内に入れなように交戦したのだろう。

 けれど建物の規模が大き過ぎた。全ての入り口を塞ぎ切れるわけではない。消臭剤も絶対ではない。

 なによりデオドラントスプレーで交戦するのも問題だ。

 ゾンビの悪臭と距離が近すぎる。

 フィクションにある典型的なゾンビとは違う。本当の敵はゾンビ本体ではなくゾンビから放たれる悪臭だ。近づかれただけで人間は死ぬ。俺のように免疫がなければデオドラントスプレーで戦うのは無謀だ。


 自分の見込みが甘かったことを痛感する。

 俺は俺の屁の破壊力を舐めていた。

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