第22話 九郎義経『初陣』義仲を折る。

文治3(1187)年11月 信濃国 更級郡 村上郷

九郎義経 (29才)



 信州に閉塞していた義仲が、再起を図り動き出した。北信濃の村山七郎義直らが傘下につくことを渋るので、業を煮やして武力での制圧を図って来たのだ。

 その数、およそ1,200騎余。対する村山勢は400騎余しかいない。

 その報せは、わずか半日で俺のもとに届き、すぐさま、騎馬1,000騎を率いて出陣した。

 報せは準備しておいた伝書鳩によるものだ。

 率いて出陣した騎馬隊は、弟 朝経の下で、金太郎三兄弟が率いる南部馬の精鋭部隊だ。

 今回は、移動速度を優先して騎馬隊のみだ。


「兄上、初陣ですっ。やっぱり、どきどきするものなのですね。」


「そうか、俺も初陣なのだが実感がわかぬ。

 大将が、これではいかんかなぁ。」


「御曹司、言わしてもらいますが、うちの騎馬隊はほとんどの者が、初陣ですぞ。

 だいたい、奥州藤原家には戦らしい戦など、ありませなんだからなぁ。」


「それにしては、皆、緊張が見えんぞ。」


「そりゃ、大将の誰かさんが、のほほんとしてりゃ、誰も緊張なんかしませんぜっ。」

 

 そうこう言いながらも、時速15km程の速度で駆け抜けている。

 原則として、休息は半刻毎に四半刻休む。  

 水場を見つけ、馬に水をやり休ませるのだ。

 

 平泉から信濃の村上郷までは、直線距離にして620km程。道のりだと700km前後になる。

 これを一日90km、7日半余で駆け抜ける。

 騎乗した馬以外に兵糧を運ぶ荷馬もいるから1,000騎と言っても馬は、1,100頭余りいる。 

 また、騎馬武者は各自、兵糧丸や竹筒の水筒を持って騎乗し、走破仲間に補給をしている。


 平泉を出て、出羽から上野に入り、頼朝方の佐貫広綱、義仲方の佐位七郎弘助、那和太郎の領地を抜けた。

 疾走する千騎の騎馬の蹄の音は、怒涛のごとく響き渡り、驚く領民や土豪達を尻目に駆け抜けて行った。

 領主達の下へ報せが届く頃には、既に去った後で追うことなど出来なかった。

 ただ、突然に現れた恐ろしく速い騎馬軍団に恐怖の余韻を残して行ったのである。



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 戦場となる北信濃の村山勢が籠もる横田城の近くに着いて見ると、義仲の軍勢が城を包囲して、陣を築いているところだった。

 少ない軍勢で籠城する村上勢に、援軍が現れることなど予想もしていないのだろう。

 のんびりと緩慢な陣作りに見える。

 時刻は、黄昏まで一刻余り。戦場手前で十分な休息と食事を、済ませていた我が騎馬隊は、無造作に敵陣を襲撃した。


 俺の突撃の命に、金太郎、銀次郎、銅三郎が各々200騎を率いて、東西北の敵陣に突入し、馬の蹄で蹴散らし手投げ火炎瓶を撒き散らす。

 それだけで、敵陣は大混乱に陥り、尚も繰り返す騎馬隊の突撃に大打撃を受け壊滅状態だ。

 義仲の軍勢にいる騎馬は、体高が140cm程。

 それに体高160cm越えの大型馬が襲い掛かるのだ。まるで大人馬と子馬、喧嘩にならぬ。


 一方で、義仲が本陣を敷いた城の南側には、俺と朝経が200騎ずつを率いて、東西から突撃した。

 俺は馬で蹴散らし、義仲の本陣に突入すると下馬して、義仲の面前に立った。

 そして大音声を上げて言った。


「義仲ぁ〜、粟津で助けた命を〜なぜ捨てるのだぁ~。お前に全国の武士がぁ〜、従うと思うてかぁ〜。巴御前を〜泣かすなぁ〜。」


 そう叫びながら、義仲の周囲にいる者達を、すれ違いざまに切り捨てて、無双する。


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 なぜ、俺が無双できるかというと、前世で、運動スポーツ万能でも、武芸の有段者でもあった訳ではない。いにしえからの日本人の武道の修練に起因しているのだ。

 

 明治期に西欧の文化が流入するまで、この国の走りは、両足と両腕を揃えるナンバ走りで、それが西洋式軍事訓練影響で、今の手足が逆の走り方、歩き方に変ったとか。

 全くの出たら目であろう。だって、女子供が軍事訓練を受ける訳がない。

 物を持ち歩く時には、荷物を持つ手は動かせないから、ナンバの動きなどしない。


 しかして何故に、ナンバ走りなどの動きが、広まり定着したか。それは、日本古来の武道の修練に起因すると思う。

 柔道、剣道など日本の武術において用いられる足運びは、摺り足である。

 常に接地しておき、重心を揺らさないこと。

 この足運びこそが武道の真髄であり、武士の子らは幼い頃から修練を積んでいるのだ。

 そして、ナンバ歩きが広まった原因である。


 欠点は重心が左右二箇所にあり、その重心移動の時間を要すること。また、足の向きに体も向き、正面以外への対応やそのための瞬発力が劣ることだ。

 このわずか数秒の遅れが、戦場では命取りになるのだ。

 それが、俺の無双の秘密だ。相手の引いている足側に回り込めば、相手はその足に重心を掛けたまま刀を振るい、さらに回り込む俺を追えない。相手の重心つまり位置が止まっているのを斬りつけ突く。それが俺の剣術の戦法だ。


………………………………………………………


 俺の周りには下馬した郎党が10人余、俺を護って囲み、さらにその外側には騎乗した騎馬兵が突入を繰り返している。

 俺は、さらに義仲に話し掛けた。


「従兄弟殿よ、互いの親が殺し合ったが、我らは親を失えば被害者でしかない。

 ここで、従兄弟殿を殺めれば、子らに恨みを懐かれ怨念が続く。そんなことは子らを不幸せにするだけだ。もう、やめようではないか。

 子を親として、成人まで育てなされ。

 そして、出家なされて世捨て人となり、人の世を見つめ直しなされ。

 以後、戦などなさるな。従兄弟殿よ。」


「 · · · · · 。」


 義仲は、なにも応えなかったが、目が潤んでいたようだ。

 俺は再び、大音声を上げた。


「勝負は着いたぁ〜、皆、引け〜ぃ。」



 これが、俺と従兄弟よしなか殿との最初で最後の対面であった。




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文治3(1187)年11月 甲斐国 山梨郡 八幡荘

九郎義経 (29才)



 北信濃の横田城外での戦闘を終えた俺達は、帰路を甲斐を抜け、相模の三浦半島の三浦義明殿の所から船で平泉へ向かうことにした。

 

 甲斐に入り、山麓を進んでいると、遥か先の尾根に騎馬の軍勢が並んでいるのが見えた。

 先行していた水面銀次郎が戻って来て、軍勢の正体を伝えた。


「御曹司、あの軍勢は甲斐源氏の安田義定殿の軍勢にございます。安田殿が御曹司にお目通りしたいとのことにございます。」


「そうか、朝経、一戦交えるぞっ。戦闘隊形を準備しろ。」


「えっ兄上。甲斐源氏を敵にするのですか。」

 

「朝経、孫子の兵法を覚えておるか。」


「はい、兵法36計にて知り得ました。」


「兵法36計は人について、教えてはおらぬ。 

 兄が教えるから確と覚えて置くのだ。

 朝経、己が死する時は、嘘をつかれ裏切りに会い騙された時だと知って置け。

 敵も味方にも、言葉だけを鵜呑みにするな。

 その言葉の証拠を見よ。」


「 · · · · · · 。」


「朝経、あれを見よ。山の尾根に軍勢がいるのはなんのためだ。どこの敵に備えているのだ。 

 我が行く手に陣を敷く者は敵でなくて何だ。

 それとも、ここで謀られ平泉に帰ることなく討たれる愚か者になりたいのか。」


「なりませぬっ、騎馬隊っ、戦闘隊形を取れっ三列縦隊だっ。兄上、準備出来ましたっ。」


「よしっ、突撃させよっ。行けぇ〜っ。」



『兵は詭道なり。』


 戦争とは、敵をだます行為である。

 【 孫子の兵法 】



 千騎の騎馬隊が、猛烈な速度で突撃すると、前方にいた安田義定の50騎余は、慌てふためいて、山の尾根側に避難した。

 彼らの前を十二分に通り過ぎてから、使者をやり、我らの行く手に陣を張り待ち受けるなどとは、甲斐源氏は我らと戦する気なのだなと、伝えさせた。


 お目通りしたいと申し上げたはずとの返答だったので、さらに、甲斐源氏は騙し討ちを得意とするのか。軍勢を平地に降ろさぬ限り、目通りなど、誰が許すかと言ってやった。

 すると、尾根の軍勢を平地に降ろしたので、会ってやることにした。


「御曹司、失礼を致した。甲斐源氏安田義定にござる。」


「 · · その首、跳ねられたいか。失礼ではない。襲撃しようとしたのだ。弁明を申せっ。

 理由いかんでは許さぬぞ。覚悟致せ。」


「御曹司、誤解にございます。我らは防備の、警護のために、尾根に軍勢を置いたのです。

 他意はございませぬ。お許しを。」


「義定、甲斐源氏はいつから俺を、尾根の上から見下すようになったのだ。甲斐の子馬で我らの騎馬武者と戦さができるとでも思うたか。

 その方、よほどの戦下手だな。俺の行く手を阻むなら、万の軍勢を連れて参れっ。」


「そっ、そのようなっ。そのようなつもりは、まったくございません。どうか、どうか平に、ご容赦のほどをっ。」


「で、用件はなんだ。兄の下に付けと申すなら100万の軍勢で、力づくで従わせて見よ。

 その時は、兄 頼朝 諸とも軍勢も消えておるかもしれぬがな。」


「そんな、ご兄弟ではありませぬか。今、頼朝公は苦難の時にござる。この時に御曹司のお力添えあれば、平家討伐も容易なことかと。

 なにとぞ、ご理解くださりませ。」


「我が父上の仇討ちも満足にできぬ兄に、助力などできぬわ。それに、私欲ばかりの坂東武者も甲斐源氏も、味方には相応しくないでな。

 義定、忠義があると申すなら、平治の乱からやり直して参れ。この次に会う時は、その首、取られると覚悟せよ。」


 

 この時、安田義定は義経を舐めていたことを後悔していた。 

 たかが源氏の御曹司というだけで、藤原家に拾われた若者だ。尾根に並べた軍勢を見れば、下手に出るであろうと思っておったが、それを襲撃と見做され、突撃されて逃げてしまった。

 そればかりか、馬上から下馬をせず、義定の方が下馬して、頭を下げざるを得なかった。

 たとえ、馬上にあっても、義経の騎馬の方が遥かに体高が上であり、見下され見くびられたに違いない。格が違う、義定はそう思った。




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文治3(1187)年11月 相模国 三浦半島 衣笠城

九郎義経 (29才)



 衣笠城に少人数で入ったのは、日が落ちてからだった。領民の目についてはまずいからだ。

 一千騎もの騎馬隊も、目につかぬよう森に潜ませた。明朝が迎えの水軍との約束の日だ。

 戦があまりにも早く終ったので、甲斐の山中で2日ほど待機していた。


「おおぅ、遮那王、いや御曹司、よくぞ参られた。お会いするのは11才の時以来だから18年ぶりになるのですかの。」


「済まぬ、三浦殿。兄に知れぬよう用心が過ぎて、中々来られなんだ。」


「なんの、なんの。気にせんでくだされ。

 それより、毎年多額の援助忝ない。おまけに新式の長柄槍まで。感謝申し上げまする。」


「いや、兄の動向を報せてくれて、助かっておる。これからもよろしく頼む。

 それより、三浦殿。これが兄の長子 千鶴丸今は元服して朝経だ。」


「三浦殿、朝経にございます。今は九郎兄上の可愛い弟でございます。(ペロッ)」


「おおぅ、ようご無事で。いろいろとご苦労なさいましたなぁ。しかし、良い兄君を持たれました。きっと、あなた様をお護りくださる。」


「いえ、俺が兄上を護って見せます。俺と母上を救ってくれた、恩がありますから。」


「そりゃまた、はははっ。兄弟で助け合うのは良きことですなぁ。

 そうだ、九郎様、嫁御を娶られなさったのでしたな。おめでとうござりまする。

 この義明からも祝品を。お納めくだされ。」



 三浦義明が結婚祝いにくれたのは、のぼり旗だった。白地に赤丸、日の丸じゃんっ。

 げっ、俺って日本を背負って立つの。

 旭日旗は、まずいっ。韓国に恨まれるから。

 でも、日の丸も、まずいんじゃねぇ〜。

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