第20話 九郎義経『諸国晴朗なれど波高し』

文治2(1186 )年10月 四国土佐 夜須荘

夜須 行宗  


 

 御曹司が5月に来訪なされて以後、儂は四国各地の豪族の調略に掛かった。

 なに、調略と言っても武力を背景にしたものではない。


 儂はまず始めに、交誼のある諸家に稲の正条植えを広めた。田植えにはぎりぎり間に合ったからな。塩水選は教えてはおらぬ。我が領地だけで行なった。

 実りの秋となり、天候にも恵まれたが、正条植えを行った領地は、黄金色の穂をびっしりと垂れ、従前の収穫の5割増は堅いと農民が狂喜する、空前の大豊作となっている。

 こういうことに民は敏感だ。瞬く間に新農法の噂は広まり、真似るだけでは盗人猛々しいと友誼を結んで、教えを乞うべきだとの声が満ちている。 


 なぜなら、田植えが終わる頃に御曹司からの支援が届いたことが大きい。

 見たこともない鉄製の農具や脱穀機、それを時期に合せ貸し出す。それだけで大評判になったのじゃが、驚愕はそれからが本番じゃった。

 伊勢大山屋が、筆墨硯から鉄鍋やかんに陶器ではない磁器の器や便利な日用品を、次から次へと持ち込み、終いには、燃える石や燭台の油まで持ち込んで、安価で売り始めた。

 そうなってはもう、買うしかないからなぁ。

 それまで、我が夜須家と交誼がなかった諸家が、次々と友誼を結びたいと言うて来た。


 儂はその都度、我が主が九郎義経様で、奥州藤原家を差配して、民のための国造りをなされようとしていることを話し、まあ、調略と言うか、我が勢力に入るよう説得したところだ。

 それが皆、一も二もなしにあっけなく、瞬く間に四国中の豪族が、なびいてしまったがな。

 もっとも、伊勢平氏の勢力下にあったところが平家が都落ちし、九州へ去ったことで、大勢力の後ろ楯を求めていたところじゃ。

 皆にとって渡りに船じゃったのであろうよ。


 他領への調略を始めて、真っ先に応じて来たのは、既に、以仁王の令旨に立ち上がっていた伊予の河野かわの 通信みちのぶだった。

 遣いをやるとすぐに味方すると言うて来た。

 平家と戦う味方が欲しかったようだ。それに余程平家の治世に辟易していたようだ。

 だが此奴は要注意だ。令旨に立ち上がったのは、単に平家に冷遇されていたからに過ぎず、領地拡大の野望を持っているからだ。

 伊勢大山屋の荷と共に、熊野の山伏達も多数やって来て、四国各地へ散って行った。各地の民意や動静を探るためだ。

 河野通信が九郎様の意に反せば、たちどころに判明するであろうよ。そして、儂がただではおかぬ。



 来春からは、籾の塩水選と新たな作物の栽培を始めることになっており、その打合せなどで頻繁に顔合せをして友誼が培われており、四国は完全に我が主の勢力と化してしまったわ。


 御曹司には、我が夜須家の戦力向上にも配慮いただき、土佐湊に巨大な城を築城している。

 船で運び込んだセメントなるもので、石を固めた堅固な城壁と堀を巡らせ、武器には新品の長柄槍を数百本も拝領した。

 戦となった際に味方に渡すためだ。我が家で専有保持しているのだが、戦になったら武器が供与できることが求心力ともなるのだ。



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文治2(1186 )年10月 紀州国 口熊野ほとりくまの 田辺

田辺 半蔵 



 鬼若丸、いやさ弁慶兄上が20年ぶりに現れたかと思うと、あの源氏の嫡流 九郎義経様に近臣として仕えていると知って驚いた。

 そして、兄上を想い続けていた小夜殿を嫁にして、あっという間に掻っ攫って行った。

 それは良い。身内としては喜ぶべきことに、他ならないのだから。


 俺には、熊野別当職としての立場はあるが、本来当家を継ぐべき兄上に敵対するのは、断固として嫌だ。

 それに間近で九郎義経様に接して、お人柄を知り目指す国造りを聞き、このお方に仕えたいと、心底思った。


 それで臣従を決意したのはいいが、都の熊野三山検校はともかく、熊野の修験者達をどうやって、我が意に引き込むかと悩んだのだ。

 しかし、それを素直に打ち明けると、兄上が腹を抱えて笑い出した。


「済まぬ半蔵。実はな、修験者達は既に御曹司の配下となることに同意しておるのじゃ。

 言うのが遅れたわいっ。あはははっ。」


「兄上もし、某が敵対したらどうするおつもりだったのですか。」


「まあ、修験者達の意向次第じゃがな、謀反で殺してしまっておるかも知れぬなぁ。」


「そんなぁ、先に言ってください。修験者達が敵に回るなど、詰んでいるではありませぬか。

 はぁ、危うく兄上に殺されるとこでした。」


「許せ半蔵っ。修験者達はお前の味方じゃ。

 良かったであろう。あはははっ。」


 まあその後、九郎様の下、修験者達と話して熊野が一つになり、九郎様の配下として働くことになったのだから良いけど、俺の扱いがぞんざい過ぎないか。いつかこの仕返しを兄上にせずには置かないっ。


 九郎様からの最初のご下命は、熊野で薬草を栽培し、生薬を作って修験者達が諸国に売り歩くことだった。

 生薬は希少であり、民は腹下しや熱病に苦しんでいる。我が修験者達は山中の薬草に詳しくさらに九郎様から、薬草の種類、調合、処方の書き付けをいただいた。

 修験者達は、薬を安価で民に売り歩くと同時に、諸国の出来事、民の暮らしぶりを報せることに決まった。別途、事あれば立ち上がるが。


 それから、綿花の栽培を仰せ付かった。

 綿花は暑さ寒さに強いが、風通しと水はけの良い、弱アルカリ性の土質とかで、干し鰯と石灰の肥料で育てるとのことだ。


 驚いたのは、九郎様からの支援だ。

 九郎様が去って間もなく、田辺の湊に大船団がやって来て、岸壁と兵舎、土蔵造りが始まり運んで来た物資を受け取ったが、山伏の衣服、

袈裟けさ鈴懸すずかけ兜巾ときん、装具など盛り沢山であった。


 修験者達が感激したのは、まっさらな白地の衣服装束もそうだが、特に興奮していたのは、仕込みの金剛杖だ。杖の鞘から抜くと恐ろしいほどの斬れ味の直刀が現れる。いざという時の強力な武器なのだ。

 白装束の白さを保つための洗濯石鹸や洗濯板刀の手入れの植物油と鉱物油(石油)、打ち粉などの手入れ道具一式セットも付いておったしな。


 また、農民には鉄製農具や新たな農法、作物などがもたらされている。

 これじゃあ、誰も逆らうなんて気にはならない。民の暮らしを豊かにすると言って、既にそれを目の前に見せているのだから。 



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文治2(1186 )年10月 九州筑前国 太宰府

平 宗盛 (40才)



 平家の九州上陸が、順風満帆であった分けではない。

 宗盛は一門を引き連れて、福原から海路を西へ落ち延びた。目指す先は九州の大宰府だった。大宰府は日宋貿易の拠点として平氏が勢力を扶植していた地域であり、平氏の家人・原田種直が現地の最高責任者・大宰少弐となっていた。

 九州に上陸した平家は、豊後で院の近臣難波頼輔の知行国であったことから、緒方惟栄らの反攻を受けた。

 だが、一ノ谷の戦いを退けた平家は、残存の兵力に不足はなく、惟栄の軍勢を撃破した。



 太宰府は、飛鳥時代の白村江の敗戦(663年)直後、朝鮮半島の防衛拠点として設置された、吉備大宰(679年)、周防総令(685年)、伊予総領(689年)などの一つ、筑紫太宰で、大宝律令(701年)の施行後に、唯一残され他の大宰は廃止されたことから、太宰府は筑紫太宰を指す言葉となった。  


 面積は、約25万㎡余り甲子園の6倍超にも及び、政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされる。


 外交と防衛を主任務とし、九州全域と壱岐、対馬、多禰(大隅諸島)、三島の行政、司法を所管した。その権限の大きさから「とうみ朝廷みかど」とも呼ばれた。

 また、軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、西辺の国境の防備を担い、九州諸国の牧から軍馬を集めて、管理する権限を有していた。



 平家は、都落ちしたとは言え、こんな日本一とも言える軍事拠点を占拠したのだから、源氏の討伐も容易ではない。西国の瀬戸内では源氏の苦手な海戦も主流となる。

 ましてや九州の諸勢力は、京の都よりも太宰府に直接の統治を受けて来たのである。

 大宰府は日宋貿易の拠点として平氏が勢力を扶植しており、平氏の家人原田種直が大宰少弐であった。

 日和見していた豊後の臼杵、肥後の菊池なども形勢を観望して従属。さらに、宇佐神宮とは敵対しないとの盟約を結んだ。

 こうした状況で、太宰府に入った平家に従わぬ九州勢力はなかった。



………………………………………………………



 むねもりは、ずっと考えていた。平家の真の敵は誰であろうかと。

 都にあって、院の近臣らが鹿の谷の陰謀を企んだ。また、院は摂関家に嫁いだ妹盛子の遺領を没収。さらに兄重盛の死後も兄の知行国を没収した。傍若無人な振る舞いである。

 謀反の軍である義仲に味方し平家追討の命を出し、義仲軍が乱暴狼藉で都を荒らすと、今度は頼朝に上洛を促した。

 なんのことはない、その時の強者を利用して朝廷内の権力争いを行い、民政のことなど二の次で、私腹を肥やすための荘園領地を欲する。


 いったい何なのだ。誰が政をするですだ。

 父上きよもりは、秩序をもたらすために尽力し、民をに負担を掛けぬために、南宋との交易を盛んに行うことにした。

 政事の統轄を図るために、また一門の結束を図り謀反を防ぐために、平家一門の者達に官位を与えた。

 それを理解せぬ、院の側近や公卿どもが妬み平家を誹謗中傷したのだ。


 俺はこの恨みを忘れない。

 そうだ、俺の真の敵とは、いにしえからこの国に蔓延る皇統の者達なのかも知れぬ。


 宗盛はこの時から、京の都の奪還を考えず、九州の独立国家を嘱望して行く。

 朝廷との争いは、源氏に任せて高みの見物としたのである。

 時代は混沌として行く。果たして鎌倉幕府は成立するのであろうか。




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文治2(1186 )年10月 奥州平泉高館 衣川館

九郎義経 (28才)


 

 平泉に帰ってからは、実に平穏な日々だ。

 奥州各地は、相変わらず冷害の影響はあるが寒冷地作物や代替え作物の栽培で、農耕の維持はしているし、牛馬の牧畜や鉱山の採掘、或は製鉄及び鉄製品、陶磁器、木竹加工品、青苧、絹、衣料毛皮、筆墨などの各種日用品の生産で格段に、民の暮らしは潤っている。

 領地を治める武士達も、どや顔なのである。


「御曹司、南部の牧で、体高が190cmの雄馬が出たそうにございます。他の牧が悔しがって、来年こそは見ておれと申しておりますぞ。」


「うむ、例によって、金糸の鞍を与えよ。

 今年の年号を記して、栄誉を称えるとな。」


「まあ、人の背丈より高いなんて、乗馬できるのかしら。はしごが必要だわ。」


「お方様、既にあぶみの下に、騎上するための補助鐙が付けてございますれば、ご安心を。」


「まあ、奥州の方々は創意工夫を見事になさる方ばかりなのですねぇ。凄いですわっ。」


「これも主の人徳でございますよ。あはは。」


「秀綱殿(金剛別当秀綱)、その件は御曹司に随分やり込められておられたご様子だったが、違ったかなぁ。」


「なにを言うか。俺は御曹司に下問されておっただけで、教えを請うてはおらぬ。

 思いつくまでに数多のご下問をされたがな。

 御曹司は人徳はござるが少々お人が悪い。」


「と言う訳でございますよ、お方様。ふふ。」


「まあ、皆様ご苦労なさっていますのねぇ。」



 この頃、家臣らは俺に報告だけ言って、郷と俺への皮肉など話して喜んでいるふしがある。

 もっと厳しくせねばならぬ。下問の間を長くあけるか、冷や汗がでるまでな。


 郷は、寒がりなので、真っ白なうさぎの毛皮の外套を着込んでいる。それを見た近隣の民達からは、白無垢御前様と呼ばれているとか。

 新婚時代を終えたら、狐の外套にせねばと、俺は思っている。

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