第17話 九郎義経『熊野、四国』行脚す。

文治2(1186 )年3月 京都 鞍馬 貴船神社

九郎義経(28才)



 史実では、俺は3年後に藤原泰衡に裏切られて死に、藤原家も頼朝との奥州合戦に破れて、滅びる。

 生き延びるために、泰衡を廃嫡し、義仲を生かし、平家を陰から支援し滅亡から救った。

 しかしまだ、足りぬな。これでは奥州合戦を先延ばしにしたに過ぎぬ。


 

 また、史実ならこの年は朝廷が頼朝の要請に基づき、諸国への守護地頭の設置を認めている年でもあるが、兄 頼朝が平家や義仲を討伐できそこねていることで、未だ平安時代だが平安とは行っていない。

 この頃、諸国では平家の捨て去った荘園や領地、更には、支配者の失せた地方寺社の荘園を

我がものとする乱暴狼藉が後を立たず、混乱が続いていた。


 そんな世情の中、俺は平家が九州に去って、平家の影響が薄れた、四国の制定を決意した。

 平家の全盛期に、やむを得ず従っていたが、源平合戦に負けて都落ちした平家に、失望している豪族達も少なくないはずだ。

 彼らに、我らの力(武力、財力、技術力)を示して、めざす政の意義を説けば、傘下を選ぶ者達もいるはずだ。

 たとえ、歯向かう者達がいても、排除しても成し遂げるつもりだ。

 あとは、紀州。あそこには羽黒山に並ぶ熊野の修験者達がいる。味方につけたい。




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文治2(1186 )年4月 紀伊国熊野 那智大滝

九郎義経(28才)



「御曹司、さすがに後白河院が参詣しているだけあって、道が整えられておりますなぁ。」、


「弁慶、院が参詣に行かれたのは熊野本宮大社などの社だ。院の息のかかる場所など行かぬ。

 俺達が向かうのは、修験者がいる修験場だ。 

 きっと羽黒山と変わらぬ難所ばかりだぞ。」


「ありゃあ、ぬか喜びでござるか。はははっ。

常陸坊、良かったな、また修業ができるぞ。」


「弁慶は相変わらず修業嫌いだのぉ、熊野権現様の修験道も霊験あらたかと聞くぞっ。」


「儂ゃ、生来の生ぐさ坊主じゃで、霊験より、武威と勇猛なる気概を所望じゃっ。」


「ははは、弁慶。熊野の修験者と競うてくれるなよ。纏まる話も纏まらなくなるでな。」


「御曹司っ、儂ゃあ、こう見えてそこまで抜けとりませんぞ。」


「なんだ、自分でも見えているのか。」


「「あははははっ。」」


………………………………………………………



 過去、熊野三山の管理は、那智一山は、那智執行・滝本執行・宿老・在庁の合議制度で管理されていた。  

 しかし、後白河院の行幸以降一変し、京都の熊野三山検校の下、熊野別当が実務者だった。

 宗務は無論のこと、所領経営、治安維持、さらに神官・僧侶・山伏の管理である。



 早朝、那智大滝の前に着くと、多くの修験者達が勤行を唱えていた。

 本来の純白ではなく、朱色の鈴懸の法衣を着付けた俺は、一目で目立ち勤行を唱える修験者達の不遜な視線を集めた。

 俺は那智大滝の前に近寄ると、声を上げた。


「俺は羽黒山の修験者だ。熊野の修験者一同に問う。今世を如何に思うてか。

 生きとし生けるものが共存し、生命の尊さを知り、互いに尊重し合う人の営みとなっておろうか。

 違うな、権力者という欲に溺れた者の弱さが罪無き人々を禍に巻き込み、世に戦禍を撒き散らしている。誠に儚ないことだ。

 そなたらは、これをいつまで見過ごすのだ。

 罪なき民らが死にゆく様を、ただ眺めておるだけか。

 人は一人では弱き生きものだ。しかし、皆で力を合せれば、他者を思いやる気持ちを持って立ち上がれば、大いなる力となる。


 我らは立ち上がったぞ。都の民らを飢餓から、大震災から救うためにな。

 だが足りぬ。救いを求めている民は都だけではない。この国中、至る所におる。

 熊野の修験者一同にお願い申す。我らと共にこの国の民らを救う助力を願いたい。」


「もしや、養和の大飢饉の際に畿内に雑穀を配し、文治の大地震の折に予言を広め、倒壊した建物から民らを救い出したのは、出羽三山のそなたら修験者であったか。」


「そうだ。我らだけではそれしかできなんだ。だから、熊野の一同に助力を頼みに来た。」


 その時、俺の頭の中に怨霊義経の声が響き渡った。


『我はこの世の理不尽に葬られし者。この世の静謐なるを願い、この者を召喚せし者。

 願わくば、この者と力を合せ、理不尽に苦しむ者らを救うてたもれ。』


 どうなやら、怨霊義経の声は一同に聞こえたらしい。熊野の修験者達が皆、驚愕している。

 その中の一人の修験者が、声を張り上げた。


「ご一同、聞こえたか。熊野権現が我らに伝えし、奇跡の言葉じゃ。

 儂はこの方に従うぞ。ご一同はどうじゃ。」


「しかし、熊野別当のことはどうするのだ。」 


「古来、この熊野の修験場においては、神職などなく、修験者は社僧として平等である。

 近頃、参詣の者達の宿泊などの商い事など、利権を求め為政者が職を定めたに過ぎぬ。

 我らが従う謂れはない。」


「されば、我もこのお方に従おうぞっ。」


「「「儂もっ、俺もっ、某もじゃっ。」」」



 こうして、熊野の修験者達が傘下に入った。 

 最初から、怨霊義経が彼らの夢枕に立てば、良かったのじゃないかと思ったら、怨霊義経の奴が言った。


『儂はお前と一体じゃからな。儂だけで、お前と離れて動くことはできんのじゃ。』


『そうかよ、でもお前が話すとか言えよな。

 おかげで、俺が長演説しなきゃならなかったんだからな。頑張って、損した気分だよ。』



………………………………………………………



 ついでなので、那智大社などを詣でて、田辺の浜に出る。道々なんだか沈んでいる弁慶に、声を掛けようと思ったら、すれ違ったおなごと弁慶が、顔を見合わせていた。


「その顔はっ、もしかして、鬼若丸殿ではありませぬか。」


「 • • もしや、お小夜殿か。」


「まあ、やはり鬼若丸殿でしたね。お館様は、3年前に亡くなり、鬼若丸殿の勘当はもう解けていますよ。

 今は弟の半蔵殿が跡を継ぎ、御母堂様とお暮らしになられております。

 さあ、早く顔を見せて上げてくださいな。」


「しかし、今、儂は主君のお供で来ておるのじゃ。じゃからして。」


「構わぬぞ、弁慶。我らが供を致そう。」


「なら、鬼若丸殿。早く、早くっ。」


 お小夜さんに連れて行かれた先は、中々立派な武家屋敷だった。

 聞けば、熊野那智大社を統括する熊野別当家の屋敷だと言う。

 弁慶はこの家の長子であったが、10才の時に民を庇って、修験者を殺めてしまい、それがために父親から勘当されていたという。

 父親は熊野別当家の立場上、やむを得なかったようだ。それでも伝手を頼り、弁慶を比叡山の寺に預けたというが、修業に辟易した弁慶は寺を飛び出してしまったとのことだった。


「まあ鬼若っ、よく無事でっ。母は、母は一日たりとも、そなたのことを忘れたことはありませんよ。」


「母上、申し訳ありませぬ。なれど、某は男でござる故、どこででも生きて行けまする。

 心配をご無用にござるよ。」


「兄者っ、心配無用などと母上の気持ちが、分からないのですか。この20年余、母上がどんなに兄者に会いたがっていたか。」


「半蔵殿、そんなに鬼若丸殿を責めないであげて。鬼若丸殿だって、ここに戻りたかったはずよ。だって、母様がいるんですもの。」


「弁慶、どうやら小夜殿の一人勝ちだな。何はともあれ、向後、母親孝行を尽くすのだな。」


「はぁ。」


「これは申し遅れました。兄者のご主君であらせられまするか。某、熊野別当家 田辺半蔵にございます。本来、この家は兄者が継ぐべきでありましたが、仔細あって某が預かっておりまする。」


「九郎義経と申す。熊野の修験者殿達にお会いして参った。ここが弁慶の生家とは知らなんだ。これも何かの縁かも知れぬな。」


「半蔵、九郎義経様のお父上は、清和源氏の血を引く河内源氏の棟梁 源義朝公なるぞ。」


「ええっ、そのような方になんで兄者がっ。」


 

 それから、弁慶との出会いからこの15年の共にした歳月のことなど、話は尽きず終いには田辺半蔵が、京都の熊野三山検校に背いても、俺に臣従することになった。

 なんとも、奇遇な出会いである。一つ懸念したのは、弁慶が修験者を殺めてまで救ったのは小夜殿の父親だったとのこと。

 以来、小夜殿は30の年まで嫁いでおらぬという。

 さて、どうしたものか。この時代は、主君が命じれば娶るとかあるのか。

 この問いに、怨霊義経は無言である。




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文治2(1186 )年5月 四国土佐 介良荘

九郎義経(28才)


 紀州の田辺から、浜に迎えに来た三本帆柱キャラック船『海王丸』に乗船し、土佐湊へと乗り込んだ。


 土佐の国名は、古くは『土左』『都佐』と表記され、和銅6(713)年の好字令で「土佐」に改められ、その後も混用されて平安中期に至り「土佐」が一般的になったという。

「トサ」の語源は、俊聡、遠狭、門狭などからの諸説がある。


 この地は、父 義朝の五男で俺の同母兄 希義まれよしの流刑地で、兄 頼朝の挙兵時に自らも挙兵しようとしたが、鎮圧されて亡くなった地でもある。

 希義兄は土佐の介良荘けらのしょうに配流され、土佐冠者とさのかじゃと呼ばれたそうだ。


 希義兄は兄頼朝の挙兵を受け、合力の疑いで平家の追討令を受け、夜須荘の夜須行宗の救援を頼りに逃亡。吾川郡の年越山で追いつかれ、討たれたとのことである。 

 介良は高知平野のほぼ中央で、夜須は東で、吾川郡は反対の西にある。


 俺は、夜須荘の夜須行宗のもとを訪ねた。


「九郎様っ、申し訳もござりませぬ。この行宗の救援が間に合わず、兄君を討たれ申した。

 四国の田舎にいては諸国の情勢に疎く、未だ頼朝公の下へ参陣しておらぬあり様。この遅参何卒お許しいただきたく、お願い申します。」


「行宗殿、まず、希義兄を救おうとしてくれたこと、弟として深く感謝致す。

 だが、いたずらに挙兵なされる前に、諸国の情勢を心して聞かれよ。


 既に聞き及びのとおり、平家は俺の従兄弟の義仲に都を追われ、福原に籠ったが、義仲が都を荒らしたがために、院の意向を受けて、鎌倉の兄頼朝が義仲を破り、能登へ追いやった。

 そして、兄頼朝の軍と平家一門が福原で戦い、平家が防衛に成功したが、さらなる追討を回避すべく西国九州へと去った。

 

 兄頼朝は、自分の脅威となる者を見逃さぬ。 

 ために、奥州藤原家におる俺も、兄に敵視されておる。今のところ、敵の多い兄は戦を仕掛けて来ては、おらぬがな。

 俺はその兄に備えるために、ここ四国にやって来た。

 俺の勢力を広げ、兄の横暴を許さぬためだ。


 兄頼朝の政に希望はない。坂東武者が領地欲から兄に味方しただけだからな。

 俺は違う。朝廷が武士を虫けらのようにあしらい、武士達は領地を争って戦いを繰り返す。

 そんな世に静謐を取り戻し、民が平穏に暮らせる世を造る。

 そのために、ここへ来た。武士の戦いは、目的なくして戦ってはならぬのだ。

 しかしてその目的は私利私欲ではならぬ。」


「御曹司。分かりましてございます。 

 この夜須行宗、微力ながら御曹司の国造りの手伝いをさせていただきまする。」



 こうして俺は、四国での足掛かりを得た。

 次は武威を示し人を見極めて、制定を図る。

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