第16話 九郎義経『文治大震災』を予言す。

文治元(1185)年3月 京都 比叡山『千光房』

九郎義経(27才)

  

 史実では、前年一ノ谷の合戦に勝利した後、

頼朝は、9月に範頼を追討に派遣した。

 年が明けた1月上旬には、義経が院の許可を取付け、頼朝を押し切って出陣する。 

 1月に讃岐の『屋島の戦い』、3月長門の『壇ノ浦の戦い』で平家を滅亡させるのだ。


 しかし平家は一ノ谷の戦いを凌いで、西国の九州へと去って行った。

 また、兄頼朝の坂東源氏は、派遣軍の大将 範頼を失って、その後任を巡り混乱している。

 勢力を失ったとはいえ、越前には逃げ込んだ義仲も健在だ。

 兄頼朝にとって、唯一の朗報は、甲斐源氏の諸豪族が、個々に臣従して来たことだろう。


 そして、頼朝にとっての最も不気味な存在として、奥州 藤原家が控えている。

 全国に散らばる源氏、平家はこれらの勢力にはっきり分かれている訳ではない。

 弱小勢力とはいえ、関東にも佐竹の残党勢力などがいる。


 世情が混沌とする中、後白河院は朝廷の再編を始めている。安徳天皇と神器が平家と共に、西国九州へと渡り、これを取り戻すことに苦慮しているのだ。



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 そんな情勢の下で、俺は各地の郎党、知己のある縁者一同を、ここ『千光房』に集めた。


「よく集まってくれた。皆を呼び寄せたのは、これから俺達の総力を上げて、やらねばならぬ事態が起きるからだ。


 来たる文月 (7月) の九日、午の刻(正午)に、京の都一円に “なゐ” (地震)が起きる。

 前後に余震が起きるが、葉月(8月)の12日、申刻 (午後4時) にも大きな “なゐ” が起きる。

 おかでは家々が倒壊し、下敷きの死人多数あり。また、火災で都が焼亡する。

 淡海の海や外海では、家も人も飲み込む海嘯かいしょう (津波) が襲う。

 逃げ遅れた者達が、数多溺死する。これらを救わねばならぬ。」


「なんということっ。」


「御曹司、我らは、御曹司の神通力を承知しておりまするが、世情の者が信じましょうか。」


「うむ、貴船神社の宮司殿の了解の下、祭神の龗神おかみのかみ様のお告げが下だされる。

 余震の始まる水無月(6月)の初めにな。」


「我らは、何をどうすればよろしいのでっ。」


「一同の総力で、“なゐ”が起きると噂を流せ。

 そして、“なゐ”が起きたら、火の始末を必ずすること、最初の縦揺れが止み次第に外の笹薮ささやぶに避難するよう教えるのだ。

 また、海の近くに住む者には、揺れのあと直ぐに高台へ避難し、1日様子を見るようにな。

 多大な“なゐ” の起きる日は直前に噂を流す。 

 一同、そのための用意を頼む。都の多勢の人々の命が掛かっているのだ。」

   

 地震は古語では“なゐ(ない)”と言う。

 地震で大地が揺れることを、“なゐふる” と言った。

 鹿島神宮の境内には、“要石かなめいし)”と言う不思議な石が祭られている。

 皿ほどの大きさだが、地面から顔を覗かせているが、その本体は地中深くに伸びて、地下のナマズを押さえているという伝承がある。

 この石の押さえが緩むと、ナマズが暴れて、大地震を起こすと言う伝承だ。


「恐れの中に恐るべかりけるは、ただなゐなりけり。」と方丈記に記されている。

 突如、襲ってくる地震は、昔から天災の筆頭とされてきたのだ。



………………………………………………………



 俺は、一条大蔵卿邸と貴船神社を始めとするかつて、俺が祈願をして回った都にある神社の建物を全て耐震構造に改修して回った。

 貴船神社でのお告げを伝え、なゐの際には、避難民を受け入れて、炊き出しをするように、依頼して寄進と備蓄食料を預けた。

 また、一条大蔵卿邸の隣家を買い取り、取壊して更地の笹薮とした。火事と地割れ対策だ。



 そして、水無月(6月)の初めに、噂を流して間もなく余震が始まった。

 そのため瞬く間に、貴船神社のお告げが広まって、“なゐ” への人々の警戒心が高まった。

 文月(7月)の始めには、九日午の刻(正午)に火気の使用を厳禁するお告げを広めた。


 元暦2(1185)年7月9日、京の都を大地震が襲った。多くの建物が倒壊し、津波も起きた。

 閑院の皇居が破損、近江湖(琵琶湖)の湖水が北流して湖岸が干上がり、宇治橋が落下して、渡っていた十余人が川に転落して1人が溺死。 

 また民家の倒壊が多く、門や築垣は東西面にある物が特に倒壊し、南北面の物は頗る残ったと聞く。 

 法勝寺九重塔は倒壊には至らなかったが、「垂木以上皆地に落ち、毎層柱扉連子相残らる。」という、大破状況だった。


 余震は6月20日夜子刻(24時頃)にも大地震があり、翌日も3回、翌々日も揺れが続いた。

 7月の本震以降、翌10日および11日は数10度、12日は20余り、その後も連日の様に数度の地震があったと記録がある。

 特に8月12日申刻(16時)の余震は「其勢猛」とある。


 琵琶湖の湖岸では、塩津港、針江浜、烏丸崎、湯ノ部に大地震による液状化が起きた。

 琵琶湖の水が北流して、湖岸が干上がった。


 伝わるところによれば、この地震の京都以外の被害の惨状について「遠国近国もかくのごとし」とあり、「遠国」とは石見、隠岐、安芸、伊予、土佐以西、また相模以東、上野以北であり、地震の被害は畿内付近にとどまらず、これら遠国にも及ぶ巨大地震であったのだ。

 「山は崩れて河を埋み、海傾きて浜を浸たし巌われて谷に転び入り、洪水漲り来れば、陸に上がりてもなどか助からざるべき。」と津波による被害を伝えている。




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文治元(1185)年11月 京都 比叡山『千光房』

九郎義経(27才)

  


 余震がだいぶ治まって来たこの頃、京の都は荒れ放題の様相を呈していた。

 皇居である院の内裏も大地震で破損著しく、

町並みは仮小屋だらけ、検非違使庁の機能不全で群盗の出没が脅威となっていた。

 福原攻めに失敗した坂東勢は、兵糧の欠乏で大軍を都に留める訳にはいかず、また、平家が西国へ退いたこともあり、わずか200名の御所の警備兵を残し、坂東へ帰陣していた。

 それが幸いして、震災を免れてもいた。


 地方では、各地の武士が謀叛人の所領と決め付けて、神社仏寺の所領を押領したり、本家や領家への年貢を納入しないなどの非法行為が、多発していた。

 

 都の民達は、貴船神社のお告げの噂により、命からがら生き延びた者が多く、震災の最中から炊き出しや怪我の治療などの施しをした神社への畏敬の念が大きく広まっていた。 

 加えて、飢饉の時に雑穀を分け与えてくれた貴船神社の山伏衆が、大地震の中を駆けずり回り、倒壊した建物から人々を救い出していたのを目にしていた。

 それを見て、救出に加わった町衆も少なくはない。


 余震に怯える日々が治まって来ると、何も助けてくれなかった朝廷や大寺院を非難する声がちまたに満ち溢れた。

 仏寺の信徒は、寺を崇めることを辞める者達が続出し、仏寺は信を失って行った。

 朝廷も公卿もまた、誹謗中傷の的になったが公家の地下衆だけは神社の施しの手伝いをしており、町衆から感謝されていた。

 だが、地下衆の働きは、誰もが朝廷の命じたものではないことを知っていた。

 地下衆を動かしていたのが、一条大蔵卿家の人達と知り得ていた。


 震災直後から、神社の境内には小規模な市が立ち、割と安価に食物や生活必需品が売られていた。

 犯人は藤太達『伊勢商人』と『奥州大山屋』である。これが物の値上りを抑えてもいた。

 治安の方も、山伏達1,000人余りが京の都の各所をうろついて、盗賊や無法者を片っ端から容赦なく討伐していた。

 礼を言う町衆に山伏達は笑顔で応えていた。




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文治元(1185)年12月 京都 鞍馬山 貴船神社

九郎義経(27才)



 地震を予言し、被災した民を救済して、市や都の治安をなしている。

 そんな勢力を朝廷が、後白河院が見逃すはずもなく、院の御所から使者が遣わされてきた。

 使者は後白河院の頭弁、藤原光雅であった。


「宮司殿、此度、院が麿をお遣わしになったは先頃の貴船神社のお働きを愛でよ、との仰せによるものでございまする。

 しかして、向後は朝廷と諮り、尽くすように仰せになってございまする。」


「藤原様、その儀ならば、ここにおわす御仁にお話しくだされ。」


「ふむ、いずれの御仁かな。」


「頭弁殿、初見であるな。源九郎義経である。 

 我は、朝敵を担う者、覚えて置かれよ。」


「 まさかっ、頼朝殿の下におられるのでは。

 朝敵とあらば、平家と義仲と同じ。頼朝殿に討たれ参るぞ。」


「はて、そんな暇がありますかな。都には院や公卿を非難する声が満ち溢れておりますぞ。

 いつ町衆が蜂起するやも、分かりませぬ。」


「な、なんと、麿を脅迫致すか。」


「勘違いされるな。麿ではない、院に言っているのだ。これ以上の悪政は許さぬとな。

 俺は、龗神おかみのかみのお告げを授かった者、いずれが神に近いか競い合おうぞ。」



………………………………………………………



【 後白河院の御所 】


「なんだとっ、ただちに頼朝に命じて、義経を追討させよ。一刻の猶予もならぬぞ。」


「お待ちくだされ主上、義経はこうも申しました。『兄頼朝が兵を向けるなら、奥州藤原家の20万騎が相手を致す。その前に、帝のいない御所など、院諸とも滅亡させてくれる。』と。

 義経は、本気でございますぞ。市中に溢れる山伏達は義経の手の者。その気になれば、この御所はひとたまりもありませぬ。」


「うぬ、義経は攻めて来るのか。」


「おそらく、都の民を巻き込むことは、避けたい様子。それに、条件を守れば御所を攻めぬと申しております。」


「条件とは、なんだ。」


「一つは、都にどの勢力も上洛させぬこと。

 二つ目は、都の治安を図り食料の供給を確保することにございます。

 これが果たせぬなら、朝廷に権威なく、政を行う器量なし、と言われましてございます。」


「むむ、確かに奥州藤原家が動くならば、頼朝は鎌倉から動けまい。頼朝でなくば上洛できる勢力などいないわ。

 治安と食料の供給は、当たり前の政じゃ。

むむむっ、義経に条件を飲むと返答せよっ。」



 こうして、俺は言わば院政の大目付として、都に滞在していた。

 兄頼朝と、各勢力の動向を探りながら。

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