第14話 九郎義経不在の『坂東源氏』苦戦す。
寿永2(1183)年12月 奥州平泉高館 衣川館
九郎義経(25才)
「御曹司、頼朝公は佐竹隆義と、うちが鎌倉を攻めるかも知れぬと、上洛を拒否しましたぞ。
なんとも、これでは藤原家を敵と見ていると言っているようなものですな。」
「ふふ。本音を口にしただけだ。兄は参陣せぬ者を全て敵と見なしている。」
「それにしても、義仲の評判は悪いですな。
平家を破って都落ちさせたのに、朝廷は戦功第一とはしませなんだしな。」
「軍勢の統制も取れず、飢饉の後の民のことをなおざりにしたのだ。そのような者に政をする資格はあるまい。
ましてや、朝廷の威光を欲しがり皇統に口を出すとは、公家の賛同など得られぬ。」
「御曹司、都や畿内の民は我ら山伏達を信頼し慕っておりますぞ。戦となれば、味方になるのは間違いありませぬ。」
「今はまだ早い。我らが立つのは兄頼朝と決戦の時だ。それまで、我らの正体は明かさぬ。」
「御曹司、先月初旬、平家追討を命ぜられた義仲傘下の軍勢が、四国渡海する前に水島付近で平家に敗戦してござる。
平家の採った戦法ですが、なんでも軍船同士を繋ぎ合せ、板を渡して陣を構築したとか。
その陣から、馬に騎乗して上陸した模様。
平家もなかなかやるものですな。」
「西国は伊勢平家の本拠。船を操るのは一日の長があり、無理からぬことだよ。」
「それと不思議な話を耳にしました。戦の最中太陽の大部分が欠けたそうにございます。
そのために源氏は混乱、しかし平家に乱れはなかったとか。」
「平家は暦に携わり陰陽師も付き従っている。
天文の知識あれば、解り得たのだろう。」
「破れた義仲は都に戻り、源頼朝追討の院宣を求めたましたが許されず、院を拘束して院宣を無理やり出させた由にございます。」
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寿永3(1184)年1月、源義仲は征東大将軍に任ぜられるが、鎌倉から俺の異母兄 源範頼が数万騎を率いて、都に向かった。
義仲の敵は既に平氏でなく、頼朝に変わっていたが、義仲の指揮下の京中軍は瓦解状態で、義仲と行家の不和も公然のものになっていた。
頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河院は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる延暦寺や園城寺の協力を取り付け、僧兵や浮浪民などを集め、さらに義仲陣営の摂津源氏美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いでいた。
院側の中心源行家は、重大な局面にあって、平氏追討のため京に不在。
しかし圧倒的優位と判断した院は義仲に対し平氏追討の西国行きを命じ、さらに頼朝軍との戦ならば、謀反であると通告した。
追い詰められた義仲は院の法住寺殿を襲撃。
決死の猛攻で後白河院を捕縛し、五条河原に百余の首をさらした。
「御曹司、義仲は範頼の軍勢に勝てぬと見て、
北国下向を目論んでいるようですぞ。」
「院を伴い北国下向などされては、後々面倒になる。
七郎に『範頼の軍勢は関東が飢饉で千騎余りしか参陣しておらぬ。』と噂を流させろ。」
義仲は、平氏との和睦工作や、後白河院を伴っての北国下向を模索していたが、源範頼率いる軍勢が近くなり、戦の選択を迫られていた。
義仲は院の幽閉に始まる一連の行動で、既に人望を失っており、付き従う勢力は無かった。
入洛時には数万騎だった義仲軍も、平家との水島の戦の敗北と、院との対立で脱落者が続出し千騎余りに激減していた。
そこへ関東は飢饉で兵力を動員できず範頼の兵も千騎余という情報が入り、北陸下向を中止して迎え撃つ判断をしてしまった。
義仲は敵の実勢を把握した翌日には、範頼が北陸道の入口の瀬田に兵を進め、義仲軍を京に閉じ込めていた。
義仲は、瀬田の唐橋、宇治の橋などを守らせ義仲自身は100余騎で院御所を守護した。
範頼は、大手軍3万騎で瀬田を、梶原景季が搦手軍2万騎で宇治を攻撃。
やがて、矢が降り注ぐ中を宇治川に騎馬を乗り入れた佐々木高綱が渡河すると、義仲側の必死の防戦も敵わず、搦手軍は雪崩を打って京へ突入した。
史実で搦手軍を指揮したのは、
が、ここは梶原景季の指揮であった。違いは
景季と佐々木高綱の先陣争いがなかったこと。
ために、渡河が慎重になされて遅延し、多くの鎌倉武士に犠牲が出てしまったことだ。
宇治川を渡河されたことを知ると、義仲が出陣し奮戦して激戦となるが、遂には敗れ、院を奉じて西国へ脱出すべく院御所へ向かった。
しかし追撃を受け、院の確保を断念した義仲は兼平と粟津で合流し、包囲を突破して信濃へと向かった。
史実では、義仲と合流後、討ち死にである。
ここでも七郎配下の僧兵達が暗躍している。延暦寺の僧兵として、包囲に参陣し、義仲達が逃亡して来ると、行く手を阻むことなく忽然と消えたのである。
「御曹司、義仲を都から予定通り逃したそうにございます。これで一つ、頼朝公への牽制となりまするな。」
「兄は、信濃まで義仲を追って、討ち取る暇はあるまいよ。都の奪還を図る平家と対峙せねばならぬ。」
「叔父御の行家殿は、播磨でまたしても平家に惨敗して、河内源氏の本拠の河内に身を潜めましたぞ。」
「あの叔父御は、自分が主導権を握りたいがために、
弁は立つが戦はからっきしで、信義なく信念なくして、狡猾な駄目叔父だな。味方には居て欲しくないな。」
「はははっ、手厳しいですな。」
「俺もその点は、兄の弟かも知れない。信頼できる者しか味方にはしない。
欲や利に聡い者は、頼りにならぬからな。」
俺は、義仲には覇権を諦めて、命を大切にし家族とともに暮らして欲しいと思っている。
俺や兄が覇権を握らなければ、他の者ならば親の仇にもならぬ。
無理かも知れぬが、戦いは避けるつもりだ。
余談だが『平家物語』には、義仲が幼い時分から苦楽を共にしてきた巴御前との悲しい別れ心を許した兼平との語らい、互いを労る美しい主従の絆が描かれている。
俺は戦に走ったがために、悲恋を味わう女性や幼子達を死なせたくはない。
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俺は瞑想し、怨霊義経と会話していた。
義経が頼朝の怒りを招いた原因は、許可なく官位を受けたほか、平氏追討にあたり軍監梶原景時の意見を聞かず、独断専行したこと。
壇ノ浦合戦後、範頼の管轄である九州へ越権行為をしたこと、配下の東国武士達にわずかな過ちでも見逃さず咎め、さらには頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなどだ。
西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪い、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。
特に頼朝の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位にない頼朝の存在を根本から揺るがした。
また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣をも紛失したことは頼朝の戦後構想を破壊するものだった。
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『まったく、ただの脳筋馬鹿だよな。』
そう呟くと怨霊義経が応えた。
『そこまで気が及ばなかったのじゃ。』
『武功の手柄を一人占めして、楽しかったか。
配下の活躍の機会を与えず、些細な失敗を、咎めるなど最悪の上司だな。誰もついて来ぬ。
それに、お前の上司は誰だ。院か朝廷か。
頼朝に討たれるのも、当然か。』
『勝ち戦に舞上り、朝廷の覚え目出たければ、それなりの地位と領地が貰えと思うたのじゃ。
それに、恩賞は儂に味方してくれた西国の者らに与えた。彼らの協力なしには平家に勝てなんだぞ。
西国の戦場は海じゃ、坂東の騎馬武者では、歯が立たぬ。兄上は、なぜそれがわからぬか。
今思えば、兄上の気持ちに気づかず、浅はかであった。』
『お前の頼朝への怨みって、逆恨みじゃね。』
『それは違うっ。平家打倒の使命は果たしたのじゃ。既に天下の兄の下に治まってのち、我を殺さずとも良かったはずじゃ。
それを坂東の者達の恩賞欲しさになびいて、同母の弟殺しをしたのじゃぞ。
実母 常磐御前の悲しみは、いかばかりか。
我を敵対するように追い込んだのは、兄頼朝じゃ。兄には、情というものが欠けておる。』
『まあな、今の俺も兄頼朝と敵対しているのだからな。この先、兄殺しとなるやも知れぬ。
前世で殺されているのだから、お相子か。
お前のやらかした失敗だが、戦いとは勝敗後の始末を念頭においてするものだぞ。
戦いを終え、さあどうしようでは戦う意味がないのだ。
だから、平清盛が難儀した後白河院などに、
俺は朝廷や帝に最初から敵対の道を選ぶ。』
『面目ない。』
『いったい、朝廷のどこが偉いと思ったんだ。
皆が偉いというから、偉いとでも思ったのか。
そんな心構えでは、世の理不尽に立ち向かうことなどできないな。
帝や院は、神仏ではないのだからな。』
さて、兄頼朝とどう折り合いをつけるかな。
できれば、同母兄殺しは避けたいが、兄頼朝は恐れる相手を野放しにはしない。
俺という存在を、どのようにするかが鍵か。
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