第13話 九郎義経『兄頼朝の幕下』良とせず。

養和2(1182)年9月 奥州平泉高館 衣川館

九郎義経(24才)



 治承4(1180)年8月、兄頼朝は、平家が以仁王の令旨を受けた、諸国の源氏勢力追討を決めると、自己の身に危機を覚え、対抗するために伊豆で挙兵した。


 頼朝は、最初に伊豆国目代の山木兼隆の館を襲撃して討ち取った。

 だが次に、石橋山の戦で味方の勢力参集に失敗、わずか300騎で10倍の平家方に敗北した。 

 敗将の頼朝は、山中に逃亡の末、船で安房国へ逃亡した。


 しかし安房に渡ると、挙兵前から参陣を約していた三浦義澄、千葉胤頼らを従え、東京湾を西回りに、上総、下総、武蔵の坂東武者を統合して勢力を拡大した。

 そして鎌倉に入ると、同年10月に 富士川の戦いで、平家の討伐軍を撃退した。


 富士川の戦いは、平維盛を総大将とする討伐軍が都を出て、途中多くの駆武者を従え7万騎にも達するが、兵糧の欠乏という、戦い以前の問題により、戦場に着いた時には4,000騎。

 なおも脱落が相次ぎ、対峙した時にはわずか2,000騎足らずで、頼朝、甲斐源氏4万の相手ではなく、戦意喪失し戦うことなく退却した。



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 奥州の雪が解けた昨年5月に、鎌倉の兄頼朝から藤原秀衡殿に参陣要請の使者が来た。


『河内源氏 源義朝公のご三男 源頼朝公が坂東の武士を従えて、鎌倉を本拠に挙兵をなさっております。

 ついては、奥州の雄 藤原殿にも平家打倒に立ち上がって頂きたいとの仰せです。』


『せっかくのお誘いなれど、当地には義朝公のご九男 遮那王こと九郎義経様がおります。

 奥州藤原家は九郎義経様と共にある所存にて、参陣は叶いませぬ。』


 驚く使者にそう断って帰すと、今度は同盟の要請である。参陣ならばそれは臣下となることを意味するが、兄弟であるから協力して父の敵である平家を打倒したいという主旨だ。


 しかして、俺は兄頼朝に問うた。


『兄上は、平家打倒をなした暁には、如何なる国造りをなさるおつもりか。

 平家の二の舞は、御免被りたし。』と。


 それに対する兄の返答は、

『平家打倒後の仕置きは、ゆるりと思案中である。よければ、共に思案しようではないか。』


 俺は、そのような返答に対し距離を置いた。

『兄上の存念が分からぬうちは、協力も対立もし兼ねます故、九郎のことは、ご放念いただきたい。』


 そう返答した。これは秀衡達と入念に検討を重ねた上でのことだった。

 今参戦しても、兄頼朝に良いように使い潰されるだけで、藤原家に何の利もない。

 それ故に静観を決め込む。父義朝の仇討ちはいずれ成す。



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 その後も、各地に潜ませた者達から、次々と報せが届いた。

 令旨に応え、前年末までに、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏、美濃源氏、九州の鎮西らの豪族が挙兵して全国各地は動乱状態となっていた。


「平家が遷都を福原から京に戻しましてございます。また反撃に転じ近江源氏や南都寺社勢力を討ち果たし制圧しております。」


「閏2月に清盛公が病重く身罷りましたぞ。」


「清盛公ご逝去の翌月に、平重衡を総大将に、東国征伐を発し、源行家らを破って美濃、尾張は、平氏の勢力下になりましてございます。」


「頼朝は和田義盛を遠江に派遣、ですが平氏はそれ以上、兵を進めず都に帰還しました。」


 

 一方で、俺や頼朝の従兄弟源義仲が、今年 【養和元年 (1181)年 】6月に、信州 の川中島近くの横田河原の戦いで勝利し、勢力を拡大していた信濃、上野に加え、越後にも進出した


【 義仲の兄 仲家こと八条院蔵人は、以仁王の挙兵に参戦、源頼政らと宇治で討死していた。

 その年9月、義仲は北信の源氏方を救援し、父の旧領上野国へ入った。しかし他の源氏勢力との衝突を避け、信濃に戻り挙兵している。】



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「昨年7月、頼朝公が密かに後白河院に、和睦を申し入れ、平宗盛がこれを拒絶したとか。

 頼朝公は、この先、いかなる存念でありましょうかな。」


「秀衡殿、兄は弱気とも言えるほど、慎重なのだ。傘下についた坂東の豪族達は、恩賞の領地を得たいがために、戦を望むがな。

 兄も源氏う勢力の憤懣が治まる和睦など、なるとは思ってはおるまい。

 飢饉で兵糧が不足し、互いに大軍を動かせぬ状況にあって、一時的な休戦を試みただけだ。

 第一各地の源氏勢力が、兄が勝手にする和睦など、従う義理もない。

 兄は、平家に対し弱気と見せただけかも知れぬ。攻めるより、攻めさせるためにな。」


「平宗盛は、どう出ましょうかな。」


「無理を押して、討伐の大軍を出すだろうよ。

 それが、兵糧の不足で士気を下げ、地の利で不利を招くのを軽視してな。

 長く太平の世に奢った平家には、大軍を使える武将らがいるとも思えぬしな。」



「御曹司、以仁王の令旨をきっかけとした源氏勢力の蜂起を、どう見ますかな。」


「秀衡殿、所詮は平家に対する謀反にしか過ぎないのだ。諸国の源氏勢力が、纏まることなく挙兵している。

 平家打倒後の構想などなく、ただ武力振い、この機会に所領を増やす。諸国の武士の不満は大きく、平家はやがて滅びるだろう。

 しかし、その後は源氏勢力同士の覇権争いで多くの武士達が、死んで行くことになる。」


「兄上の頼朝公では源氏が纏まりませぬか。」


「兄は源氏が根を張る東国坂東を制し、最有力とは思うが、政の構想を示さぬ兄上に軽々しく従う者は少ないだろう。

 第一、本当の敵が見えておらぬ故。」


「本当の敵とは、いかなる者ですかな。」


「平家の清盛公が戦い、破れ去った相手。

 いにしえより続く血統の者達、そしてその権威を我がものとして利用して来た者達だ。」


「なんとっ、それを敵にするのは禁忌ですぞ。

そのようなこと、誰も味方になりえませぬぞ。 

 理不尽であれ、神仏には逆らえませぬ。」


「俺は、坊主も帝も信じぬ。なぜなら、彼らは神仏ではないからだ。

 神仏の権威を虎の皮の威として、自分らの利として来た者らだ。

 滅びて無くなってしまえば、誰もが必要性を感じなくなる。そう思っているだけだ。


 秀衡殿、俺は何も、帝を朝廷を滅ぼそうなどと思ってはおらぬ。

 ただ、そういう者に虐げられ怨みを抱く者達を守ろうとしているのだから、彼らから見れば敵対と映るかも知れぬな。

 俺は、俺の武力で誰かを滅ぼしたりはせぬ。 

 ただ、罪もない民達が争いに巻き込まれて、亡き者にされるのを見過ごしにはできぬ。

 そして俺は、争いのない民が安心して暮らせる世の中を造りたいだけだ。」


「御曹司、御曹司の民達を慰撫し、諍いのない世の中にするお考え、感服仕りました。 

 この秀衡、是非にでも御曹司がお造りになる世の中を見とうございますな。」


「秀衡殿、どんな英傑も殺さずとて人は死ぬ。 

 生きているうちに、成せることは限られるが後世に道を示すことはできよう。

 この九郎義経、貴族でも武士でもなく、民のための世を造ろうぞ。」




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寿永2(1183)年10月 奥州平泉高館 衣川館

九郎義経(25才)



「御曹司、一つ面白い報せがありましたぞ。

 昨年の11月に、頼朝公の正室 北条政子殿が頼朝公の隠し妾宅を焼き討ちにしたそうにございます。」


「政子殿は、8月に男子を産んでいたな。

 兄は戦には慎重だが、女性にょしょうには見境がないな。順序を踏まえて正室殿の顔を立てれば良いものを。

 だいいち内密にして落胤などがあちこちから出れば、お家騒動になるのが分からんのか。」



「まあ、それはさておき。2月に頼朝公に謀反を起こした叔父の源義弘ですが、やはり源義仲と繋がっておりましたぞ。

 下野の小山家に忍ばせた者から、謀反の前から義仲の使者の来訪があった由にござる。」


 義仲は久寿2(1155)年に、秩父氏の家督争いで源氏の同族争いが起き、父の源義賢を頼朝の長兄源義平に討たれ、自身も命を狙われ逃亡している。すなわち、親同士の仇なのである。



 この頃、衣川館では藤原国衡、武蔵坊弁慶、甲賀の伴三次、鵜飼孫兵衛、信夫の佐藤忠信、の5名が各地の報せを受け取り整合して、俺と秀衡に伝え、さらに各地へ指示を出していた。


 他の者達、千光房七郎は都で暗躍、足柄山の金太郎、銀次郎、銅三郎は奥州各所で雑兵部隊を指揮。羽黒山の常陸坊海尊は、出羽で山伏を組織している。

 大山里村の村長の息子 陽陰丸と娘の陽炎が『奥州大山屋』を奥州と畿内で商い、今や8隻となった三本柱帆船キャラベル船団を、気仙沼の金平六の5人の子達、天竺丸、神楽姫、目白姫、猫丸、鼠丸が率いている。5人の名前は鮫の名だ。



 この年2月、俺と頼朝の叔父源義広は鹿島社所領の押領で頼朝と対立。下野国の足利父子と連合し、2万の軍勢で頼朝討滅を掲げ下野国へと進軍。しかし、頼朝軍に迎え撃たれ敗れ本拠地の常陸を失い、源義仲の下へ逃げ匿われた。

 そうして、源義仲が頼朝に敵対する叔父義広行家を庇護したことで、両者は武力衝突寸前となったが、義仲の嫡子 義高を頼朝の長女 大姫の婿とし鎌倉に送ることで、和議が成立した。


 義仲は以仁王の遺児 北陸宮を擁護し、平家追討を掲げ、その後も5月に倶利伽羅峠の戦で10万の平維盛率いる北陸追討軍を破る。

 これには、七郎達の兵糧強奪がかなりの影響を与えた。10万の兵の兵糧を確保し運ぶのに平維盛は難儀し、兵糧が遅配された大軍の動きは鈍く、大軍の威力を発揮できなかったのだ。


 続く加賀の篠原の戦にも勝利し、勝ちに乗る義仲は道筋の武士を糾合、破竹の勢いで京都を目指した。

 6月末には都の最後の関門、延暦寺と交渉、敵対すれば山門を焼き払うと恫喝し迎合させ、

 7月末には、平氏一門を都から追い落とし、上洛入京を果たした。


 朝廷は平家追討の恩賞を、戦功第一は頼朝、次いで義仲、行家の順としたものの、未上洛の頼朝の京官任命に躊躇し、8月に義仲、行家は従五位下に任じ、頼朝は、平治の乱で停止した従五位下の位階に復したのみとした。


 大軍を率いて入京した義仲は後白河法皇から平氏追討の命を得るが、寄せ集めの軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、皇位継承に介入したことで院や公家の反感を買った。

 朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河院は義仲を西国に向かわせた間に、頼朝に上洛を要請する。

 頼朝は藤原秀衡や佐竹隆義に鎌倉を攻められる恐れがあり、数万騎を率い入洛すれば、京がもたないことの二点を理由に要請を断った。

 朝廷は頼朝の位階を復し、東海道と東山道の所領を戻した。

 また宣旨により、当初「反乱軍」と見なされていた頼朝の鎌倉政権は朝廷に公式に認められる勢力となった。



 これで、兄 頼朝の覇権が見えてきたけれど臣従などしても、兄だけでなく坂東の豪族共に大きな勢力は削がれ潰される未来しかない。

 兄の血統が途絶えて、北条の執権となれば、心置きなく倒せると思うのだが。





【 お知らせ 】


 第11話に、エピソードを追加しました。

 今後の物語の展開に必要なためです。ご了承ください。

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