第12話 九郎義経『養和大飢饉』を救民す。

治承4(1180)年2月 京都一条大路 大蔵卿邸

一条 能成 よしなり(18才)



「父上、兄上から文が参りました。」


「なんと書いてある、九郎は息災か。」


「ええ、兄上は息災かと。ですが、ちと予言めいた事を申されております。

 今年、畿内一円が干ばつに見舞われ、秋には風水害があり、明年は大飢饉になるとか。」


「ふむ、九郎は都におった時分に、都の全ての神社を巡り祈願していたが、貴船神社でお告げを受けたそうじゃ。

 九郎には、神仏の掲示があるのやも知れぬ。

 それで、どうしろとあるのじゃ。」

 

「はい、資金を用意するから、地下衆じげしゅうを纒めてできるだけの農家に、稗泡ひえあわや蕎麦を植えさせるようにせよ、とのことです。」


「ふむ、できるだけの農家にとな。相当の資金を要することをせよとは、本気じゃな。

 よし、農家の手配を地下衆に儂が話す。

 能成は九郎から資金が届き次第、稗粟や蕎麦の種子を手に入れるのじゃ。」


 能成が九郎の指示することを行うと、藤太に話すと、すぐに藤太から資金が渡された。

 一条大蔵卿と能成は、地下衆を指揮して畿内の農家に手配し、最終的には5万石にも及ぶ、救荒作物の栽培をすることができた。

 実際に手配できたのは、2万石余りだったが春先から雨量が極端に少ない天候と、干ばつになるとの貴船神社のお告げだとの噂が広まり、

早い段階で栽培作物を替えた者達がいたからである。

 畿内の石高は、100万石超と推測されるが、年貢で5割、民の分が50万とすれば、およそ1割の救荒作物が確保できたことになる。


 加えて言うならば、稗粟や蕎麦は、年貢ではないし貴族や中級以上の武士や町民は、米を遠国から買うだろうから、貧しい民への割当てがその分高くなるはずだ。

 という訳で、俺の奥州からの飢饉への支援も雑穀になる。




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治承5(1181)年6月 京都一条大路 大蔵卿邸

一条長成



 昨年は、春先から雨が極端に少なく、夏には日照りが続き、秋には野分のわきに襲われ、畿内から西国一帯はほとんど収穫がなくて、年が明けて今年に入り、京の都は大飢饉に陥っている。


 だが、地下衆を遣い多数の農家に稗粟や蕎麦を作らせ、それを買上げて定期的に炊き出しをしておることで、貧しい者達の大量の餓死者を出さずに済んでおる。

 もし、この救民をせなんだら土地を放棄する農民が多数発生し、京の都の秩序が崩壊して、その混乱が全国に波及したことであろう。



 史実では、京都市中の死者を4万2300人と、

鴨長明の『方丈記』に記されている。


「また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。

 或は春夏ひでり、秋冬大風洪水など良からぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。」


「築地のつら道のほとりに、飢ゑ死ぬ者のたぐひ数も知らず。

 取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目も当てられぬ事多かり。」


 市中に遺体があふれ、各所で異臭を放っていたとある。また、死者のあまりの多さに供養が追いつかず、仁和寺の僧が死者の額に「阿」の字を記して回ったとも伝えられている。



 面倒な御仁が訪ねて来られた。一条の本家筋の公卿 藤原長方殿だ。

 おおかた、地下衆の働きに気づき、何者かの救民支援がなされたと知り、その実をさぐりに来たか、或は利をせしめんと来たのであろう。

 この救民の働きで、地下衆も報酬を得て雑穀ではあるが、飢えずに済んでおるからな。

 おかしいと思うて、当然じゃろう。



「大蔵卿。地下衆から聞き出したのだが、民達に大層な施しをしておるとか。」


「その儀は儂ではなく、縁ある者がしておることにございます。」


「ほほう、その者は東国か。或は奥州かの。」


「いいえ、もっと北にござる。日の本ではござりませぬ。その地は寒冷で米が育ちませぬ。」


「・・・、米はないか。しかし、此度は相当な銭が掛かったであろうな。」


「酒でございますよ。銭ではなく、酒との物々交換でございます。」


「ほう、ならばその酒を献上できぬか。」


「その者は、院や公卿衆を限りなく怨んでおりましてな。献上となれば、その酒に毒が混じるやも知れませぬな。

 毒見をご自分でなさるのであれば、差し上げましょうぞ。」


「そなたも、我らを怨んでおるのか。」


「さて、政争に明け暮れ下賤の公家のことなど顧みぬ方々のことを怨んでいる者は、少なからずおりましょうな。

 此度、救民の支援を行うた者も、院と公卿衆を世を乱す元凶と申しておりましたからな。

 今日の帰り道も、人が絶えぬうちになさるが良かろうと存じますぞ。

 それとも一条卿、夕餉に蕎麦ならございますが、食して行かれますかな。」


 そう言うと、青い顔をしてあたふたと帰って行った。恨みを買っていることに、身に覚えがあると見える。




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寿永元(1182)年7月 羽前国田川 田川館

源 千鶴丸 (12 才)



 羽前国は、和銅5(712)年に越後国から出羽国が分立した際に出羽郡の南部が分立した国名だが、後に出羽国に吸収されている。

 そのうち、田川郡は唯一海に面していた郡で

承安2(1172)年奥州藤原家の秀衡が羽黒本社の修築を行った際に、郡司の田川次郎が奉行を務めて以来交流があり、半ば臣従していた。


 俺は九郎兄上の教育方針で10才の時から、いろんな土地に行かされ、いろんなことを学ばされている。

 奥州の村々はもちろん、山伏雑兵が潜む土地や奥州水軍の本拠地 気仙沼から、伊勢や甲賀にも行っている。

 そして今は羽黒山に詣でるためと、兄上から遣いを頼まれたことを果たしに、田川家を訪れている。俺の介添えは佐藤忠信殿と天竺丸だ。


 今、田川館で車座に座って、俺を囲んでいるのは、田川二郎殿と由利維平殿、秋田致文殿と介添の二人だ。  


「坊、よう来られた。20日もの船旅は堪えたでござろう。」


「もう慣れた、田川殿。伊勢も二度行っているしな。此度は、蝦夷地が見られたし、アイヌの言葉も覚えたぞ。

『イランカラㇷ゚テ』が、こんにちはで、

『イヤイライケレ』が、ありがとうだ。」


「ほほう、大したものでござる。はははっ。」


「皆様方に、九郎兄上から言付かったのですが今年も西国は2年続きの飢饉のせいで、秋の収穫まで救民しなければならないとのことです。皆様方の領地で蕎麦や雑穀の収穫が終り次第、西国へ運びたいとのことです。」


「了解でござる。4月に撒いた蕎麦が採れ始めており、月末には収穫を終えるでしょうから、船の手配をお願いしますぞ。」


「坊、儂の領内では、半分以上蕎麦を植えておりますからな。おかげですっかり儂も切り蕎麦の蕎麦打ちが上達しましたぞ。ははは。」


「えっ、あれってけっこう力がいるでは。」


「坊、儂が年寄りじゃと思うて、できぬと思うたのでござろう。まあ、外れてはおらん。

 これは儂の秘事じゃが、坊にだけ教えよう。蕎麦を捏ねる時、腕でなく足で踏むのじゃ。」


「なんだ由利殿、そのようなことなら、うちの女衆がとっくにやっているぞ。秘事でもなんでもないわっ。」


「「「あっ、はっ、はっ、はっ。」」」



………………………………………………………



 そのあとの出羽三山では、越前坊殿に会い、2週間程滞在して羽黒修験の体験をさせていただいた。

 兄上は、こんな苦行を1年間されたなんて、尊敬してしまう。越前坊殿に元服したら、一年間の修業をと勧められたけど、俺の悲願は母上と暮らすことだし、もう叶っているから必要はないんだ。 

 そうだよ、別に修業が辛いとかじゃなくて、必要ないからしなくていいんだ。

  

 それから、常陸坊海尊に連れられて、羽黒山伏の一同一千名の前に出され、全員から護符の呪文を唱えられて、恐怖したよ。

 だって、男の低い声で獣の咆哮みたいなんだもん。それが一千人だよ、お山が震えてた。




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寿永元(1182)年9月 奥州平泉高館 衣川館

九郎義経(24才)


 

 京の都への救民物資は、2ヵ月毎に送り込んでいる。海路で伊勢大湊へ運び、川舟で内陸へ移動させ、甲賀望月家を集積所として、叡山の七郎達が京への必要量を運び出している。

 でなければ、集積所を襲って利をせしめんとする不埒な輩も出るからだ。


 昨年も畿内と西国一帯は2年続きの日照りで

どの勢力も兵糧不足で、大規模な軍事行動が取れずにいた。

 だが今年は、平年並みの収穫が見込める。

 そうとなれば、平家は大軍勢の動員を図るだろう。今、源氏勢力が大敗するのはまずい。

 平家の威光が回復しては、源氏に寝返る者達が減ってしまう。少し、俺も動くとするか。



 俺は七郎に命じて、今年収穫した兵糧米の強奪作戦を展開することにした。

 なにせ、昨年来の救民で、七郎達山伏の顔は売れており、京近隣の百姓達は俺達の味方だ。

 彼らの情報と手助けは、七郎達のゲリラ戦の大いなる力となるはずだ。


「七郎殿、山城の鷹峯村たかがみねむら村長むらおさから、5日後に兵糧米の徴収使が来ると報せが来ました。」


「山城の久御山くみやまも同じ日だったな。南丹波は、6日後、若狭も6日後か。

 南海坊、山城を任せる。地蔵坊、南丹波だ。清川坊は若狭に行けっ。

 襲撃本隊に100、奪った荷運びと追手撃退に200を連れて行けっ。」


「「「「おうっ。」」」」




【 南海坊side 】


「鷹峰村の荷駄が村をでましたぞ。」


「久御山の方はどうだ。まだなのか。」


「それが荷は積み終わっておりますが、動き出しておりません。」


「ふふふっ、そうか。合流するつもりか。

 よし、宇治に入る橋の手前で襲撃するぞ。

 襲撃後は川舟を使う。慈権坊、手配してくれっ。村人に聞けば分かるはずじゃ。」


「おう、任されよっ。」



 なんかいぼうは三人連れで、宇治に入る橋の手前に佇み兵糧を運ぶ隊列を眺めている。襲撃する200人は、川の土手下に潜んでいる。

 荷駄を運ぶ人足が200人ばかり、護衛の兵が100人余りだ。襲撃をまったく予想していない人数だと言える。

 こちらは200人、おまけに荷駄の人足の大半は、兵糧を徴収した村の者達で、この襲撃を知っている者達だ。襲撃が起きれば、荷駄を放り出して一目散に逃げ出すことになっている。


 荷駄の先頭が橋の袂に着いたところで、土手下に潜んでいた山伏姿の伏兵達が一斉に隊列へ襲い掛かった。

 荷駄を引く人足達は、大声で悲鳴を上げて逃げ出している。それが余計に隊列に混乱を起こしている。

 俺達三人は、隊列の先頭で馬上から指揮をしていた鎧武者に襲い掛かった。

 三人で囲み、訓練の通りに一斉に仕込み刃を突き出し、脇下や喉、首に突き刺して、あっという間に仕留めた。

 振り返って襲撃の様子を見ると、雑兵は仕込み杖のまま打ち払い、鎧武者には仕込み刃を抜いて、複数人で囲み一斉の突きで倒している。

  

 ふむ、訓練の成果が遺憾なく発揮されておるな。倒した鎧武者は14人ばかり、こちらの者らは、手傷を負うた者もなく完勝じゃ。

 七郎殿に、満足の行く報告ができるわい。



 ちなみに、奪った兵糧は密かに貴船神社のある山中に隠し、飢餓への備蓄とした。

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