第9話 九郎義経の暗躍『安元の大火』

安元2(1176)年9月 奥州平泉高館 衣川館

九郎義経(18才)



 透きとおった秋空の下、一面の田で黄金色に実った稲が穂を垂れている。


「兄上っ、田んぼが光って凄くきれいですね。 

 あっ、赤とんぼがいるっ。」


「千鶴丸、あまり畦道を走るなっ。転んで田んぼに落ちて泥んこになったら、また陽炎に叱られるからな。」


「うん。陽炎姉ちゃん怒らせると恐いもんな。明日の剣術の稽古が、厳しくなったら困るし。

 陽炎姉ちゃん、俺にかまい過ぎなんだ。

 もう俺、大きくなったのに、湯風呂に一緒に入るのはやめにして欲しいっ。」 

 

「ははは、陽炎はお前のことが可愛いのさ。

以前から、弟を欲しがっていたからな。

 諦めろっ。元服するまで陽炎が守り役を放さないぞ。」


 3年前、伊豆から助け出した兄 頼朝の長子千鶴丸は6才になり、わんぱくに育っている。

 周りにいる俺の郎党達が、変わり者達ばかりだからな。どんな大人に育つやら。



 昨年から、平泉周辺で試させた籾の塩水選と苗を植える正条植えの成果が出たので、今年は奥州の大半でなされている。

 まだ収穫前だが、各地から空前の大豊作だと喜びの声が上がっている。

 今年は、さらに平泉周辺の田に鯉の稚魚を放流し、養鯉農業を試させている。

 ああ、もちろん千歯扱きも作らせた。おかげで職人達も空前の景気に湧いている。


 当然だが、これらの景気は商いにも波及して

『奥州大山屋』の資金稼ぎに、大いに貢献してくれるはずだ。



 豊作で値の下がった余剰米は、藤原家で買上げ備蓄米とする。奥州や関東の冷害もそうだが

 5年後の養和元(1181)年から翌年にかけて,西国で春夏の干ばつと、秋の大風、洪水被害で収穫がほとんどないという空前の養和の大飢饉がやって来る。

 史実では、餓死者が都だけで、わずか2か月間に4万人以上と伝わっている。

 邪魔な公家や平氏がいるが、民達をなんとかして救う手段を講じなければならない。

 少なくとも、20万石分は必要になるだろうな。



 それより先に史実では、明年4月に京の都で『太郎焼亡』と言われる安元の大火が起きる。

 この大火は中京の南東から出火し、南東の風に煽られ、中京の中央部の殆どを焼失させた。

 翌年4月にも『次郎焼亡』という大火が下京で起きている。両大火での焼死者は、数千人に及んだと言われている。


 だが俺にとっては軍資金を稼ぐ商機である。『奥州大山屋』の資金を使い、伊勢の商人藤太に淡海の海周辺の木材を買占めさせている。



 この時期、平清盛は南宋貿易で、莫大な富を得ている。

 南宋貿易、実態は朝貢貿易ちょうこうぼうえきである。


 古来中国には,中華思想,華夷思想があり,夷狄 《いてき》 に対する貿易は,中国が与える恩恵であるとしていた。

 中国は宗主国で,諸外国は属国と見做され,諸外国の君主が中国皇帝の徳を慕い,貢物を献上に来ると,皇帝は恩恵としての賜りの品々を与え、属国の国王に任命する。

 これによって皇帝の徳を示し,属国の国王は中国との関係を築き,国内への覇権の正統性を獲得できた。

 献上した品以上に、皇帝の威光を見せるために恩恵の品々を下賜してくれるのであるから、南宋貿易は、金の卵を産む鶏だったのである。


 南宋貿易には、和船ではなく、南宋船が使われた。当時の小型で平底の和船では、大波に会うと転覆しやすく、遠洋航海には向かなかったからである。


 南宋船は、船長約30m幅約10m程で尖った船首と方形の船尾、外板を重ねた構造などで、遠洋航行に適した『福船型ジャンク船』だ。

 積荷満載の船倉は14ほどに仕切られており3本マストの帆船で、船尾に舵を備えていた。


 俺は300年の歴史を無視して、本来15世紀に登場する『疑似キャラベル船』を作らせることにした。


 初期のキャラベル船は全長20m〜30mの小型の帆船で、2本のマストを備えたものが一般的で、全長と全幅の比は3.5∶1でバランスが良く高い速力と機動性がある。

 俺は3本マストにし、前面フォアマストとメインマストに横帆スクウェアセイル後部ミズンマストに三角帆ラテンセイルという帆の組合せにした。


 造船は、気仙沼の漁師頭である金 平六に、俺の書いた絵図面を渡し伊勢から呼んだ船大工達を預けて作らせている。

 併せて、気仙沼に湊と町を建設中だ。

 平六は、戦乱の中国から避難して来た中国の漁民で漁と漁船の知識があり、漁村開拓のために気仙沼を訪れた際に、麻縄漁網を与え定置網漁や海老かご漁の漁法、魚の干物、蒲鉾、小魚の甘露煮などを教えたところえらく心酔して、以来俺の海事担当になっている男だ。

 既に、一隻は完成間近であり、完成後は訓練を兼ねて、伊勢大湊まで、沖合いの直行航海をさせる予定だ。




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安元3(1177)年2月 伊豆国江馬庄 江馬館

大山里の陽炎



 私はこの日『奥州大山屋』の女主人として、簪や白粉などの小間物の商いに、伊豆の江馬館を訪れた。  

 そうして、今対面しているのは、千鶴丸の母

八重姫である。


「ところで不躾なことを伺いますが、お方様にはお子様がお有りでしょうか。」


「 • • ありませぬ。• • • 。」


「嘘、、でございますよね。千鶴丸というお子がいらっしゃるはず。」


「えっ、どうしてその名を。失った子です。」


「生きていらっしゃいます。私どもがお救けしました。」


「そんなっ、• • • 。」


「八重姫様、この家を出て、千鶴丸殿のもとへ参られますか。」


「誠に生きているなら、参ります。でもその証はあるのですか。」

「千鶴丸殿が言われました。別れの日、母は来世でもあなたの母だと。」


「それはっ、千鶴丸の耳元で囁いた言葉、誰にも聞かれていないはず。誠なのですね、千鶴丸は生きているのですねっ。」


「はい、お救けし、叔父御に護られて成長なされております。」


「連れて行ってたもれ。これが謀りであっても後悔はしませぬ。」



………………………………………………………


安元3(1177)年3月 奥州平泉高館 衣川館

源 千鶴丸



「母上っ、うぇ〜ん、えぇん〜。」


「千鶴丸、ああ、千鶴なのねっ。逢いたかった逢いたかったわ。」


 この日の夕刻、伊豆を出た千鶴丸の母八重姫が、衣川館に着いた。会うなり二人は抱き合い互いに途切れることなく、涙を流していた。

 半刻もして、なんとか治まったのでこれまでのことを話した。


「九郎殿、私は想いが強すぎて、気が触れてしまったのでしょうか。死んでしまったはずの、我が子が、二度と会えないと思っていた、我が子が目の前にいるのです。

 ああ、信じられませぬ。信じられませぬ。」


「八重姫様、いえ姉上。俺は貴船神社でお告げを受けたのです。この世の理不尽に死にゆく者達を救えと。

 千鶴丸のことも、お告げで知りました。

 俺のかわいい甥です。ここでは俺の弟としておりますが。はははっ。

 お二人のことは、俺がお護りします。離れていた分、母子仲良く暮らしてください。」


「でも良かったのですか、江馬殿のことは。」


「構いませぬ、書き置きをして参りました。

 私には、戦ばかりする夫など不要ですと。

 我が子さえいれば、良いのです。ほほほ。」




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安元3(1177)年5月 奥州平泉高館 衣川館

九郎義経(19才)


 この館、昨年増築してえらく広い書院ができている。

 それと言うのも、藤原家当主秀衡が毎日入り浸りで、嫡男の国衡、3男の忠衡、俺より年下の3人の弟達まで、昼時になると我が家の昼餉目当てに集まって来る。

 それを知る藤原家の重臣達まで、所用にかこつけて、俺の館に入り浸りなのだ。


 俺の館では、この時代の朝晩2食には珍しく昼餉を出している。主従郎党下男下女まで同じ昼餉を食べる。

 大抵は蕎麦かうどんだが、温冷、味噌や醤油潮の出汁に、天ぷら、かき揚げ、蒲鉾、山芋、鴨肉などの具、千差万別の調理がなされる。

 俺の調理方には、大山里の老婆達が来てくれているからだ。彼女達は、俺の要望に応えて、幾百もの料理を作り、年季が入っているのだ。



 そんな大書院で、いつもの通り20名余りで明日は端午の節句と談笑しながら昼餉を取っているところへ、急使が駆け込んで来た。

 京の都で、去る4月28日の夜半に、樋口富小路付近から出火し,南東の風にあおられて,中京の西北方面に扇状に延焼し、大内裏の西半分と、中京の大半が焼け落ちる大火が起きたという報せだ。


 誰にも話していないが、史実どおりだ。

それにしても、京の都からわずか5日で、東国の平泉まで報せが届くとは、この時代としては驚異的だ。

 聞けば、京から南都、伊賀街道を抜け、伊勢大湊へ、そこから早船で気仙沼、そして平泉に到着したそうだ。

 きっと、昼夜を違わず、報せを必死で届けた使い番の者達には、格別の褒美を取らそう。

 それが、情報の価値を高め、俺達をいっそう強くすることになるのだ。


 5日後、第2報が届いた。中京の大火で死者は2千人以上であるとのこと。数多の寺社仏閣も被害を免れず、由緒ある古来の本堂などが、焼け落ちたという。

 中尊寺では、死者の供養の読経がなされた。

 俺は清盛が都をどう再建するのか、伊勢屋の藤太達に見定めることを命じた。



 20日後、近江のいる伊勢屋の藤次から報せが来た。平家の官人が都の復興のための木材を

求めて藤次の下を訪れたとのこと。


『手前どもが、木材を集めておりまするのは、伊勢神宮の式年遷宮のためでございますれば

手前の一存では、お売りすること叶いませぬ。 

 後ほど、依頼主様に諮りお返事申し上げたく存じます。』


 と答えたとのこと。これは俺の指示通りだ。すなおに商いに応じては、平氏に利するだけで俺には何の利もない。

 高値で商うのは、商人の常識だからな。


 伊勢神宮の式年遷宮は、20年毎になされることとされ、前回は、内宮が承安元(1171)年に外宮が承安3(1173)年に、行われているので、次の式年遷宮は、建久元(1190)年から建久3年の予定だ。   

 

 結果として、6月に入り寺社が再建を始め、遅れて貴族邸や大内裏施設の再建が始まった。

 この被災を受けて、8月初めに元号が治承と改元された。

 9月になり、木材の不足が逼迫し高値沸騰したところで藤次に一部売却をさせ、多大な利益を上げた。

 さらに、翌年治承2(1178)年4月に再び下京で大火が起こり2年続きの大火焼亡に、前年を太郎焼亡、次年を次郎焼亡と呼んだ。

 もちろん、藤次は次郎焼亡後の再建時に木材を売払い、莫大な利をせしめたのは言うまでもない。




【 お知らせ 】


 第七話に、エピソードを追加加筆しました。

 ストーリーに必要になったので。

 読んでしまった方、ごめんなさい。

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