第10話 九郎義経『平安末法の世』を回顧する
治承3(1179 )年11月 奥州平泉高館 衣川館
九郎義経 (21才)
俺はここ数年、諜報が目的の『奥州大山屋』の京の都への出店や、畿内の大寺院勢力である
延暦寺、園城寺、興福寺などへ密かに荒法師達
を潜り込ませて、情報の確保を図っていた。
京の都の拠点は、比叡山の俊章和尚の宿坊、
『千光房』である。
俺が京の都を出てから『千光房』俊章和尚のことは、伊勢の商人藤太に支援を頼んでいたが『奥州大山屋』が台頭してからは直接支援して替りに、京の都で荒法師達を養って諜報活動を頼んでいた。
宿坊も密かに新築して、外見は見すぼらしい板張りだが、その実、内壁は石とセメント造りで、地下2階地上平屋という秘密基地になっている。セメントは藤太に運び込ませたものだ。
蒸し風呂ではない湯風呂も備え、優に1,200人余も立て籠もれる要塞と化している。
また、比叡山及びび貴船神社一帯に掛けて、多数の宿坊を配して、数百人が潜伏している。
奥州で配下とした荒法師達を送り込んだが、
彼らの生活拠点としては十分なはずだ。
そして『千光房』を名乗る千光房七郎には、その京での取りまとめ役をさせている。
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さて、父 源義朝が討たれた平治の乱以後のこの時代の動静と、その背景を知っておく必要がある。
なにせ、俺は2才で母 常盤御前に抱かれて生死の縁を逃げ延びた20年なのだから。
【平治の乱、朝廷内の権力争いの10年。】
平治元(1159)年12月の平治の乱は、後白河院派の実権を握った信西と、対立した藤原信頼の権力争いだった。
当初二条帝親政派と手を結び、信西を信頼と父源義朝が討ち果たすが、両者とも二条帝親政派と結んだ平清盛らに討たれる。
乱後、後白河院は自派の討たれた信頼と義朝以外に、二条帝親政派の大炊御門経宗、葉室惟方らを信西殺害の首謀者として逮捕することを清盛に命じている。
この結果、後白河院政派と二条帝親政派の対立は双方の有力近臣が共倒れして、小康状態となり、国政の案件は後白河院と二条帝の双方に奏上され、前関白 藤原忠通が諮問に答える形で処理された。院と帝の二頭政治となった。
1年後、後白河院は、院政の法住寺殿造営をするが造営に際し、敷地の徴発や大小80余の堂を壊して、多数の者の恨みを買った。
後白河院はこの後、神仏に依存し頻繁に熊野詣を行う。後白河院の3代前の鳥羽法皇の后で近衛天皇の生母美福門院(得子)が逝去した。
美福門院は、法皇崩御直後の保元元(1156)年の保元の乱で、卓抜な手腕を発揮し、後白河天皇方を勝利へ導き、後白河院にとっては逆らえない重石であった女性だ。
その重石が外れ、後白河院は二条帝親政派と主導権を争うことに支障がなくなった。
以後、後白河上院と二条帝の間で一進一退の攻防が長く続くが、二条帝の主柱であった摂関家と平氏が後白河院政派に鞍替えしたことで、二条帝親政派は完全に瓦解した。
奈良時代に伝来した仏教の影響で、日本の社会は母系制から父系制に変わったのだ。
だがこの時代、それはまだ形式上であり子は母が育て何より財産は母系で相続されていた。
だから、鳥羽法皇崩御後その荘園は美福門院が相続していたし、彼女は近衛帝、二条帝の強力な後楯であった訳だ。
10才の折、俺は養父 一条長成に言われた。
「遮那王よ、儂はは正四位下の大蔵卿であるが公卿ではない。謀反人の子弟であるそなたを、元服後も庇い続けることは困難なのじゃ。
故にそなたの命を守るには、出家させ現世を捨てさせ、仏道学問の徒とするしか道はない。
悔しいであろうが、父親の仇討ちは諦めて、生きる道を選ぶのじゃ。」
「
いつか必ずや、父親を殺めた者達にその報いを受けさせまする。」
「遮那王、それは修羅の道ぞ。養子とは言え、そなたは儂の子。済まぬ、そなたの力になれぬ儂を許してたもれ。」
俺はその養父上の言葉が嬉しかった。本当の父親を知らぬ俺に、養父上は愛情を深く注いでくれた存在だった。
【 過去の20年間、後半10年の院政時代 】
後白河院がなぜ院政をしたか、その理由は、母系制の慣習矢財力が残る中で、自分の子や孫を帝の地位に付けるためだった。
そもそも院政は、帝が幼い場合に一時的な繋ぎとしての役割だったのだ。
その後の10年は、後白河院政の時代となり神仏を楯とする寺社と白河院との軋轢、そして平清盛との政争だった。
寺社との軋轢の発端は、嘉応元(1169)年の山門の強訴だった。尾張国の山門領の神官を統治の諍いから磔に晒した。これに激怒した比叡山延暦寺が尾張国主藤原成親の配流を強訴した。
後白河院が成親を擁護し、平家は延暦寺側で院に非協力的で事態は紛糾した。
翌年には終息したが、院と平家、双方の政治路線の違いが浮き彫りとなった。
高倉天皇の元服を巡る対立から、摂政の松殿基房の車が平重盛配下の襲撃事件があったり、
後白河院政は、内部に利害の異なる諸勢力を抱え、常に分裂の危機をはらんでいた。
そんな中、政権安定を図り、承安元(1171)年高倉帝の元服とともに清盛の娘徳子が入内し、高倉帝と徳子の婚姻がなされた。
だが当時、有力寺社が荘園領主と化し、宗徒の武力で、各地の国司と紛争を起こしていた。
中でも「南都北嶺」の南都興福寺と比叡山延暦寺は突出し、多武峯の帰属を巡り両者の対立が起きていた。
承安3(1173)年、抗争が激化。後白河院は、両寺に信徒の蜂起停止を厳命したが、興福寺が
多武峯を襲撃。
さらに院の襲撃犯の召還命令を拒絶したため興福寺別当尋範らを解任した。
興福寺は処分の撤回と延暦寺僧の禁獄を要求して強訴した。
後白河院は官宣旨を発して、東大寺、興福寺など南都15大寺、諸国荘園の没収という前例のない厳しい処罰を下した。
南都15大寺領は2ヵ月後に返還されるが、後白河院の強硬姿勢は寺社に強い衝撃だった。
3年後に、後白河院は比叡山で天台の戒を受けて、延暦寺との関係修復を図った。
だが、滋子が突然の病に倒れ薨去した。
相前後して高松院、六条上皇、九条院も死去しており、政局は混迷に向かった。
後白河院の寵愛を一身に受けていた滋子の死により、後白河院と平氏の関係は悪化の兆しを辿った。
後白河院は自身の第九皇子、第十皇子の2人を高倉帝の猶子とさせた
これは後白河院による高倉帝退位工作の一環で、平氏にとっては徳子に皇子が生まれる前の退位は絶対に認められなかった。
一方、加賀国目代の藤原師経が白山の末寺を焼いたことが発端で、白山の本寺の延暦寺が院勢力との全面衝突に発展した。
延暦寺の信徒は師高の配流を求め、神輿を奉じて内裏に向かい、院に防衛を命じられた平重盛の軍兵が神輿に矢を当てる失態を犯し、情勢は一挙に不利となり、高倉帝と徳子が内裏から法住寺殿に逃亡避難する事態が起こった。
また後白河院は宮中の内侍所(神鏡)の守護を平経盛に命じるが、清盛の許可なくばと拒否、やむなく、後白河院は神輿を射た責任を認め、藤原師高の配流、神輿を射た平重盛家人の禁獄の宣旨が下した。
同年4月、安元の大火が起こり、大内裏と中京の多くを焼き尽くした。
翌月、後白河院は天台座主明雲を逮捕、座主を解任した。嘉応の強訴と今回の強訴は明雲が首謀者で所領を没収した。
この措置に対し延暦寺が蜂起するという噂が流れ、緊迫した情勢となった。
延暦寺の僧綱が参上して、宥免を訴えるが、後白河院は拒絶。公卿議定の決定を一蹴して、明雲を伊豆国に配流した。
宗徒達は配流途上の明雲を奪還、後白河院は延暦寺攻撃の決意するが、平重盛、宗盛が清盛の指示がなくばと出動を拒否。福原から清盛を呼び出して攻撃を要請した。清盛は承諾したが叡山を攻めることは不満だった。
清盛は、京中の武器所持者の捕縛、諸国司への延暦寺末寺・荘園の取締り、近江、越前、美濃の国内武士の動員を行った。
それは興福寺と同様に、延暦寺領荘園の没収を意図していた。
しかし、同年(1176)6月に多田行綱が、清盛に後白河院の平家打倒の謀議を密告。
後白河院派の西光や藤原成親らが行綱を誘い平氏打倒を企んでいたことで状況は激変する。
延暦寺攻撃は中止、西光は捕えて斬首、藤原成親は配流、他の院近臣は一網打尽にされた。
世に言う『鹿ケ谷の陰謀』である。
明雲は戻され、藤原師高を襲撃し惨殺。
この結果、後白河院は有力な近臣を失って、政治的地位の低下を余儀なくされた。
鹿ケ谷の陰謀により、高倉帝退位工作と延暦寺攻撃は吹き飛んだ。
だが、弱体化したとはいえ、院政も継続しており、かつてと同じく二頭政治となった。
治承2年(1178年)正月、後白河院は園城寺の伝法灌頂の受戒を計画、園城寺の戒壇設立を恐れた延暦寺が蜂起した。
後白河院は延暦寺を譴責し清盛を呼び出すが清盛は応じず、園城寺御幸と灌頂を断念した。
この遺恨により、院は最勝講への延暦寺僧の公請を停止した。
延暦寺との衝突を望まない高倉帝から再三のとりなしにも、灌頂を阻止した罪科として耳を貸さなかった。
このように院政と親政の二重政権は限界で、平家は高倉帝親政に速やかに移行し、後白河院を政界から引退を図ることになる。
その後、徳子が懐妊。後白河院の養女でもあったので、院は安産祈願にも参加した。
高倉帝の第1皇子が無事に誕生し、親王宣旨が下り立太子するが、親王の周囲は平氏一門で固められ、排除された後白河院は、再び平氏への不満と警戒を強めた。
それでも治承3年(1179年)3月の段階では後白河院が清盛邸に御幸し、両者の交流は辛うじて保たれていた。
ここまでが、平治の乱以後の経過20年だ。
後白河院という人物は、自分の権力に固縮しそのためには戦乱をも辞さず、天皇の地位さえ貶めて、古からの律令の政のあり方を歪めて、朝廷、天領を私物化した妖怪のような人物だ。
政争に勝利すると、私有地である荘園の拡大で台頭した寺社勢力を武力で制圧しようとし、武家を争いの道具とした。
平家が貴族化して、権力争いに加わったのは武家社会からの逸脱であり、結果から見て失敗だったと言えるかも知れない。
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古来、東北陸奥には、在来種の南部馬が飼養されていた。西洋の大型馬と交配され絶滅種となった南部馬である。
その体高は150cm程あり、他の在来種の体高が120cm程度であることから珍重された。
『続日本記』の養老2(718)年の記述には、
武士勢力が現れ始めた時期に、源平盛衰記にある寿永3(1184)年の宇治川大合戦で活躍した2頭の南部馬により、南部馬の優秀さが武士達に広まった。
俺は大山里で黒王の交配をし大型馬の飼養を始めていたが、平泉に来てからは、南部馬の牧を奨励し、飼養に報奨を出していた。
体高150cm以上の駒は、全て藤原家で買上げ通常の駒の売値の倍額。以下の駒にも、売値の2割の報奨金を出した。
これらは奥州の農耕不作地域の補助にもなり奥州藤原家の戦力の向上となったのである。
こうして南部馬の供給ができ始めた頃から、藤原家家臣団の家中から、一定の指揮官となる者達を集め、騎馬だけの突撃戦法の訓練を実施した。
魚鱗、鶴翼、雁行、彎月、鋒矢、衡軛、長蛇方円という戦陣形を騎馬で再現するのである。
方円は俺なりの解釈で、円形に回転を続け、突進力を継続する、言わば、車懸りの戦法とも言える隊形だ。
これらの隊形を、移動しながら指揮官の手の合図一つで組む。そういう訓練だ。
訓練を終えた指揮官達は、各々の家中に帰りこの騎馬戦法を訓練する。
騎馬隊の武器は、薙刀から槍に変えた。
薙刀の刀の穂先では重くて扱い難いからだ。
そして、徒の者達には鍛えた子飼いの修験者達を派遣して、長槍の集団戦法を浸透させた。
こうして、奥州藤原家の戦力は大きく変化を遂げて行ったのである。
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