第6話 遮那王と天童の『志能便の里』

承安元(1171)年5月 出羽国天童 大山里村

遮那王(13才)



 羽黒山で一年間の修験を終えた俺達一行は、出羽国の天童にある舞鶴山まいづるやまに向かっていた。

 というのも『怨霊 義経の行け』とのお告げなのだ。


『舞鶴山に我が忠義の者となる志能便しのびの者達の里がある。元服までその里で技を磨け。』



 日本書紀に『斥候うかみ』という言葉があり新羅しらぎ間諜者うかみひと迦摩多かまたが対馬に到れりとある。

『間諜』と『斥候』が同じ『ウカミ』と呼ばれていたのだ。

 斥候せっこうとは、敵軍の地形や動静を探る兵士で、間諜かんちょうは秘密裏に敵の様子を探る者のことだ。

 この者達は忍者ではなく軍隊の兵士だろう。


 我が国の最初の忍者と言えるのは、聖徳太子に仕えた『大伴細人おおとものさびと』だと言われている。

『萬川集海』などによると、聖徳太子は伊賀国

大伴細人おうとものさびと志能便しのび志能備しのびと名付けたとある。

 この細人さびとから「細人、細作」と書いて『シノビ』と読ませるようになったと言われている。



 舞鶴山は、山裾から140m程の高さの丘とも言える小山だが、周囲の盆地にあって見晴らし

が取れる場所となっている。

 そのすぐ南東には、同じような高さの八幡山があり、その狭間の谷に小さな里があった。

 里の名は大山里といい、60戸余りの寒村である。


 怨霊の義経は、この里で暮らせと言ったが、縁も所縁ゆかりもない者が訪ねて、果たして受け入れられるのか、甚だ不安である。


所縁ゆかりは、向こうにある。』


 と再び怨霊殿のお告げである。一辺に言え。


 村外れで何気なく現れた農夫姿の男に、村長むらおさに会いたいと告げ、村の中に入った。

 ほんの数人だが、山伏姿の者を見かけた。

 出羽三山の羽黒修験道がなされる国とはいえ遠く離れたこの地に、山伏の修験者がいるのは少し奇異に感じた。

 村人達に不審の目で見られながらも、村長むらおさの家に案内された。


「修験者とお見受けしますが、何故にこの村を訪れましたかな。」


 年の頃は四十を過ぎた精悍な村長に尋ねられた。


「貴船神社の御祭神 高龗神様にこの里を訪ねるようにとお告げを受けて参った。

 我が名は、牛若。今は遮那王という。」


「な、なんと、源氏の御曹司にござるかっ。

 なるほど、なるほど。わっはははっ。

 失礼仕った。我らは後三年の役の折、源義家公に従った者にござる。

 下賤の身なれば都へのお供は叶いませなんだが、我ら源氏の家臣と思い定めております。」


「ふふ、所縁とは異なものだな。我がご先祖様が紡ぐ縁とは。

 この村里を、我がふたつ目の故郷と致すが、良かろうか。」


「御曹司は、我らの主君になられるお方っ。

 いかほどなりとも、お世話仕りまする。」


 こうして遮那王おれは、大山里の人となった。




✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢



 大山里村は不思議な里である。遠い先祖は、大伴の一族に仕えたと聞く。近い先祖は羽黒山の修験者の一派であったとか。

 里人は山の神を畏怖し崇拝して、山の恵みである木の実、山菜、茸を採取する。

 そして、猪や鹿、兎などの獣も食している。

 古代いにしえから続く、山の民の一族の末裔なのかも知れない。


 この大山里村の里人は一族総勢400名余り。

 畑など猫の額ほどしかない山間の狭い渓谷にひっそりと隠れ住んでいる。

 里人は外に出て行商などをして収入を得るとともに諸国の動静などを探る者が60名余り。

 里の維持防衛に携わる者が70名余り。 

 里人は老若男女合せて、三百名を超えるが、老人や女衆、修行中の子らなど、戦える者も80名余りいる。



 俺は郎党の者達と、毎朝武技の修練を欠かさず行なっていた。この時代の武者には日常的なことではあるが。

 ただ少し違うのは、俺に前世の知識があり、柔軟体操を行ない、幼少期に祖父から仕込まれた合気道と居合の抜刀術を郎党達や大山里村の修業組に教えたことだ。

 教えることで、俺の腕前も上がる。


「弁慶、なにを悩んでいるのだ。修練に身が入っておらぬではないか。」


「はあ、御曹司。我は僧兵とは申せ仏門にある僧の身、なれど戦いに身をやつして人を殺めねばなりませぬ。

 羽黒のお山で、修験するに至りまして、森羅万象生きとし生けるものすべてに、はたらきがあり、むやみなやたら殺生などすべきでないと悟り申した。

 しかしてこの身、如何すれば良いかと悩んでおりまする。」


「 • • • 、弁慶の申すこと、至言しげんぞ。

 殺生を禁戒としている仏門の身にある者達が殺生を行っているこの世の不条理。

 俺は思う、すべての責は上に立つ者にある。 

 上に立つ者が賢者でない故、従う者なく欲や利に走る者が、世を乱している。

 だがな弁慶よ、一朝一夕いっちょう-いっせきには成らぬのだ。

 俺は源氏の棟梁として賢者を目指す。そのためには、武力を誇る今生の実状において愚者を倒し殺めねばならぬ。

 弁慶よ、俺に従い愚者を倒せ。その罪すべて俺が背負う。」


「御曹司は、今生に遣わされた弥勒菩薩様の御使いで在らせまするか。

 この弁慶、御曹司の供にござれば、地獄までもお供仕りますぞ。」


 周囲で聞いていた一同も、頷いている。

 俺が、ただ力を付け振るうのではないことを知ったからであろう。


「皆に申し置く。できるだけ人を殺めてはならぬ。戦いを挑んで来る者には、命を奪う必要はない。戦う力を奪えば良いのだ。」


 そうして俺は、筋切りの太刀を披露した。

 この時代の武者達には、ただ力づくで打ち伏せる脳筋が多く、俺の郎党でも武蔵坊弁慶などその典型だったが、甲冑相手に薙刀での峰打ちは難があるので、肘や膝、脛などの筋切りを指南したのだ。

 たとえ、甲冑を着けていても身体の可働部であるこの部位は、防備が弱いのである。

 (剣客商売の無外流の先取りである。)

 

 それから、修業中の里人達には彼らを忍者に仕立てるべく、十字手裏剣や撒き菱、目潰しや鉤縄、煙玉などの忍具を作り与えた。

 刀も金剛杖の細みの仕込み刀としたし、服装も鎖帷子の上に白装束の裏地を草木染めで斑に染めた裏表着リバーシブルにした。

 草鞋も、おが屑を膠で固めた木屑コルク板底の靴に鉄板を仕込み、撒き菱の地面でも無双とした。

 おかげで里長に、御曹司は我らを天狗に育てなさるおつもりかと、呆れられた。




✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢



承安3(1173)年6月 出羽国天童 大山里村

遮那王(15才)


 この里に来てから、2年余の月日が流れた。

 その間に武芸の修練と共に、里の生活向上もだが、軍資金や武具の調達を試みていた。


 最初に手掛けたのは和紙だ。わら半紙は藁の繊維で作る。紙は希少で高価なのだ。

 藁を細かく砕き長時間煮て、手回しの細断機ミキサーに掛け、水に数週間漬け込んで、再び細断機ミキサーに掛ける。

 竹の繊維で作った目の細かい網で、紙すきをして乾いた紙に蒟蒻で作った糊や柿渋を塗って完成させる。

 糊や柿渋を塗るのは、強度と防水性を高めるためだ。さらに、にかわを塗れば雨傘になる。

 

 加えて作ったのは、硯と墨。墨は南都の品が上質だが、東国にまで行き渡らないのだ。

 すみは、植物油のすすにかわで作る。

 すずりは陶器だが、割れた陶器の破片の再利用で作る。


 酒造りも考えたが、清酒の原料である米は、この近隣では希少で、清酒は醸造期間も長く、なにより資金が必要なので、小麦の蒸留焼酎を作ることにした。

 蒸留機は陶器で作った。アルコール度数の低い単式蒸留だが、その方が風味が残り旨い焼酎になる。

 この付近の山には野生の梅や杏の木がある。焼酎の味付けには最適だ。


 伊勢の商人藤太達にも教えた水飴、練り飴、猪の背脂や腸の油も、行商で売らせた。

 おかげで、米を買い清酒作りも始めている。

 伊勢の商人藤太からは、馬鈴薯や大根の種を仕入れて、山の斜面を切り開いた畑には蕎麦と小麦を栽培している。


 里の生活向上には、狭い低地の田に正条植えを導入して収穫を上げ、山の斜面を開墾して、小麦と蕎麦、野菜の段々畑を作った。

 畑の水は山中の小川から簡易水車で引いた。


 急斜面には茶を植え茶畑とした。茶葉が採れるまでは、麦茶の代用で我慢したが。

 小麦と蕎麦は、うどんと切そばにして、米食を減らす一助とした。

 豆味噌があるので、味噌の汁の切麺である。


 小麦と小豆、水飴で、里の子らのために饅頭を作った。肉と野菜の具の肉まんもだ。

 いつの間にか、里が皆が作り、売り物にしていたのは知らなかった。


 里に来てすぐに、甲賀の望月六郎に頼んで、牝馬ばかり10頭を融通してもらったのだが、どれも大型の牝馬ばかりで、黒王と掛け合せて産まれた子馬は、体高が大きな子馬だった。

 牛も伊勢の商人藤太に頼み、二番ふたつがいだけだが融通して貰った。既に子牛が生まれている。


 里の年寄りと子らが、牛馬の世話をしてくれている。おかげで里の子らに可愛がられた子馬などは、すっかり懐いてことごとく言うことを聞き、まるで曲馬のごとくだ。


 里からの行商は平泉にも及び、評判となっているが、遠く伊勢から仕入れたものだとして、正体を隠している。

 この隠れ里の軍資金は、里の行動資金であり他に流用するつもりはない。

 当面は、資金稼ぎの投資と軍馬や農耕の牛、武器の調達に回す。



 それから、戦うための軍備と戦法だが、この時代の主武器は弓矢と薙刀だ。

 俺が未来の知識があるからと言って、いくらなんでも、この時代に鉄砲を持ち込むわけには行かないから、二間半(4.5m)の長槍を使うことを考えている。

 薙刀は8尺(2.1m)位だから、届かない位置から囲んで槍衾の集団戦法で戦えば、いくら勇猛な武者でも討ち取れると思う。


 あと、弓矢を防御するために竹を重ねた鎧と大盾を工夫しようと思う。

 数の揃った弓矢は脅威だ。例えば1,000本もの矢が降り注ぐのを防ぐのは容易ではない。

 林や森を遮蔽物として防御するか、敵の矢を尽きさせて近接戦とするか、塹壕陣地が役立つのか、試さないといけないことばかりだ。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る