第62話 惹かれる。−3

 このまま振り向いて、葵ちゃんのことを抱きしめてあげる選択肢…。

 でも、その後はどうなるんだろう…? そして彼女が「好き」という言葉を言い出した時、俺の時間が止まったような気がした。後ろから抱きしめられて、悲しい声で「行かないで」って言う葵ちゃんに…、何も言えない俺だった。


 どうしたら、いいんだ…?


「こっち見て…、楓先輩」


 静寂。俺を抱きしめる葵ちゃんの手のひらが感じられて、心臓が勝手にドキドキしていた。この心を早く整理しないと、きっと厄介な感情を抱いてしまうから強いて無視しようした。俺は迷っている。葵ちゃんの言葉をすぐ断れない理由は俺が一番よく知っているのに、それでも悩んでいた。この感情は難しくて、複雑だから…。


「……葵ちゃん」

「はい…?」

「俺を抱きしめた意味は…、その…」

「私…」

「……」

「恥ずかしいから、後で言います…」

「なんだ…」


 尚、俺はずっとお前のことを暗いオタクだと思ってたのに…。

 お前がこんなにモテるやつだったとはな…。しかし、何があったのか分からないけど、お前には葵ちゃんと過ごした記憶がないってわけ…。そして、その葵ちゃんはもうお前のことを諦めて、俺にこんなことを…。


「……な、泣いてる? 葵ちゃん…」

「すみません…。また一人になることを想像したら…、急に怖くなっちゃって」

「うん…。大丈夫、俺がそばにいるから…。もう心配しないで…、俺は葵ちゃんを一人にさせないから」

「ほ、本当ですか…? 楓先輩は…、私のこと…」

「そ、そこまで! ……動物見に行こう!」


 まだ…、まだだ…。


「は、はい…」


 やはり…、彼女を諦めるのはできなかった。

 涙声で俺に話すその姿に惚れてしまったから、葵ちゃんだけは守りたいという男の本能が出てしまう。一方、俺が尚の代わりになれるのかという心配もあった。手を繋いで一緒に歩くこの道、そばにくっつく葵ちゃんとカップルみたいなデートをした。


「で…、どうして俺なのか…。聞いてみてもいい? 他にいい男いっぱいいたと思うけど…?」

「楓先輩…。カラオケに行く前にも、カラオケで歌う時にも…、ずっと私の方を見てましたよね?」

「……っ、知ってたのか?」

「その視線…、嫌じゃなかったから…。そして帰りますと言った時、楓先輩が誘ってくれましたよね? なんでもないことだけど、それが嬉しかったんです!」

「そうか…」


 少し冷えている葵ちゃんの手を握って、俺たちは動物を見ていた。


「なんか…、すみません。いきなり、こんなことを話しちゃって…」

「うん? 大丈夫…」

「誰か…、私のそばにいてほしくて…楓先輩に甘えてしまいました」

「そっか…。確かに、一人は寂しいよね…」

「はい…」


 そして俺の肩に頭を乗せる葵ちゃんと、隣のベンチに座っていた。

 これはもはやカップルだよな…。それにしても葵ちゃんが俺に言おうとしたその言葉は…もしかして告白なんかじゃ…。さりげなく「一人にさせない」とか言い出したけど、やはり葵ちゃんのことが大好きだったんだ…。俺ってやつは…。


 指を絡めて、くっつくこの時間がとても幸せだ…。


「やはり…、そばに楓先輩がいると楽になります」

「バカ…」

「な、何かあったら俺に連絡しろ…。葵ちゃんのことなら…、なんでも聞いてあげるから」

「嬉しいです。楓先輩は本当に優しくて…、頼りになります…」


 ぎゅっ———。

 また葵ちゃんに抱きしめられた。そして俺を見つめるその瞳を見ると、すぐ葵ちゃんのことを抱きしめたくなる。彼氏でもない俺が、葵ちゃんにそんなことをやってもいいのか…。膝に置いている両手は、この状況でどうするればいいのか悩んでいた。


 すると、葵ちゃんが俺の耳元でこう囁いた。


「私を抱きしめてください…。先輩…」

「……そんなことをしてもいい?」

「はい…」


 その小さい体を抱きしめてあげると、俺の中から好きという感情が湧き上がるような気がした。ちょっと恥ずかしい声を漏らす葵ちゃんから、ドキドキしている心臓の鼓動が感じられた。女の子とこうやってくっつくのは久しぶりだから、すごく恥ずかしい…。しかも、相手が葵ちゃんだからドキドキするこの気持ちが止まらなかった。


「先輩…」

「うん…」

「ドキドキしてますね…?」

「うるさい…」

「先のこと聞いてみてもいいですか…?」

「何を…?」


 先のことならもしかして…。


「私を一人にさせないってこと…。本当ですか?」

「そ、そうだけど…? それがどうした?」

「私も…、楓先輩がそうしてくれるなら…。今みたいな曖昧な関係じゃなくて…」

「……」


 あれ…? この流れは…?


「うん?」

「もうちょっと…、先輩のことが知りたいっていうか…」


 まさか、このタイミングであれを言うつもりか…?


「……やはり、自分の口で言うのは恥ずかしいです」

「えっ?」

「知らない…。先輩との距離を縮めたいってこと!」

「プッ…。何それ、葵ちゃんは可愛いね」

「要するに、興味があるってことです…!」

「うん。俺も葵ちゃんに興味あるよ。書店で尚とぶつかったあの日から…」

「……」

「ずっと気になっていた」

「フフッ。先輩も可愛いですね…。ずっと私で妄想とかしてましたか?」

「その顔するな…」

「可愛い〜。なでなでしちゃおう!」


 この日、俺は葵ちゃんとの距離を縮めた。

 笑みを浮かべる彼女に頭をなでなでされて、甘いものを食べながら二人っきりの思い出を作る。まだ付き合っていないけど、恋人同士でやりそうなことをやっていた。


「はい。先輩、あーん!」

「……」


 そんなデートだったと思う。


 ……


「楓先輩…、ずっと私のそばにいてくださいね。ずっと…」


 帰り道、俺にそう囁く彼女の瞳が真っ赤に輝いていた。

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