もう戻らない破壊の葬送

塵芥なる

第1話 プロローグ

120cm規格水槽の分厚いアクリル越しに彼女を見ていた。

無機質なステンレスのテーブル、所狭しと並ぶガラス器具と、無骨な機械の数々。彼女がパタパタ鳴らす足音、ガラス容器の中で何かを混ぜるかちゃかちゃと忙しない音と、機械の低い唸り声。白い蛍光灯が年中室内を照らしていて、昼も夜もわからない。それが世界の全てだった。

彼女が発する言葉の意味は理解できなかったが、表していることは理解できた。彼女はそこで、何かを成すために日々努力していた。出たり入ったりする他の人間と何かを話したり、笑ったり、がっかりしたり。彼らと何かを作っているようだった。

日に2回、彼女はガラス容器に入れた食べ物を片手にこちらを向いた。水槽の蓋を開け、食べ物をこちらに寄越す。それはシャリシャリした白いものだったり、紫色のみずみずしい球体だったり、オレンジ色の固いものだったり、日によって様々だった。彼女はそれを寄越す時、決まって彼の目を見て「ヴィクター」と言って微笑んだ。

朝の小鳥のような彼女の声で、彼は自分が「ヴィクター」であることを理解した。それは名前というもので、誰かを識別するための音であることも。

彼女はそこで、いろいろな音で呼ばれていた。「レイチェル」とか、「マクドゥーガル」とか、「博士」とか、「先生」とか。どれも彼女を表す名前のようだが、彼はその中でも「レイチェル」が一等好きだったので、心の中でいつも彼女を「レイチェル」と呼んでいた。

水槽の中で飼われている彼の口や声帯は、「レイチェル」を発音できるような形をしていない。どんなに頑張っても「ぐわっ」とか「ガァ」という音しか出せない。そのことが彼はとても悔しくて、彼女が自分を「ヴィクター」と呼ぶたび、「レイチェル」と答えたくて口を開き、自分から出てきた音にがっかりしていた。

それでも、彼女が微笑んでいるならそれでいいと思っていた。彼女はいつも忙しそうで、時折疲れた顔をしていたが、それでも何かに向かって進み続けていて、それは輝かしい色をしていたから。


しかし、ある日、唐突に、彼女は一切笑わなくなった。

その日、彼女はいつも通り決まった時間にここへやってきて、部屋の片隅に置かれた四角い板の前に座った。すると板はどこかの風景を、知らない誰かを映し出した。彼女とは違う、目の周りと口と頬に色を塗った人間の女が、こちらを向いて話していた。


「マクドゥーガル博士が開発したhIniT-13遺伝子コードは、私たちの食の全てを支えるスーパーオーツに革命をもたらしました。世界中の土壌開発を完了し、この惑星の大地の力をフル活用しても全人類の食糧を賄うことができなくなって20年。博士の研究は、惑星を食い尽くした私たちへの福音となることでしょう」


意味のわからない言葉を並べ、板の中の人間がお手本のような笑顔を向けた瞬間、レイチェルは振りかぶったパイプスツールを板に叩きつけた。バリンと大きな音がして、顔に色を塗りたくった女は消えた。彼女は、薄く紫がかった白い前髪を乱したまま、誰にとなくつぶやいた。


「ぜんぶ、無意味だった」


それから、彼女は一心不乱に何かを作り始めて、しばらくするとこの部屋に来なくなった。

日に2回、ヴィクターの水槽を見知らぬ男が覗き込み、彼女がしていたように食べ物を寄越すようになった。それは彼女の手から食べたものと同じだったが、どれを食べても砂を噛んでいるような気分だった。

男はレイチェルがしていたように毎日その部屋を訪れて、何かを作っているようだった。しかし、彼女がしていたこととは少し違う。毛で覆われた小さな生き物を水槽いっぱいに持ち込んで1匹ずつ殺していったり、人間のような手足の生えた生き物を細長い筒状の入れ物に入れて中を水で満たしたり、白と黒の四つ足の生き物の腹を裂いたりした。

ただおぞましいばかりの光景が日々目の前で繰り返され、この男はこの世のよくないものを凝縮して作られた人形なのではないかとヴィクターが思い始めた頃、ある日唐突に、男がやっていることの答えが目の前に現れた。

ステンレスのテーブルの上で固定された白く小さな生き物に、大きな水袋がついた細い管を繋ぐ。痛みと恐怖に叫ぶ生き物の口に布を詰め、筒がついた針を背中に刺し、筒の中の液体を押し込んでいく。

すると、もがいていた生き物の動きがぴたりと止み、水袋の中身が管を通り、小さな体に流れ込んでいった。こんなに水が入ったら小さな生き物の体が破裂すると思いきや、どこまでも膨張し、少しずつ姿を変化させていく。色が変わり、人間のような手足が生えて、突き出していた口は平らに、顔の毛は抜け落ち。

男の手のひらに乗るくらい小さな、白い生き物だったものそれは、やがて若い人間の女の姿になった。


「お前は最初の成功例だから、始まりの意味を込めて、”アルファ”と名付けよう」


男が言った。


「私の名前はダンカンだ。わかるか?私は、ダンカン。お前は、アルファ」


男は人差し指でテーブルの上の女を、それから自分を指した。人間の女の姿をしたそれは、小さな生き物だった名残の白い体毛が残る手の人差し指を自分に向け「ア、ル、ファ」と。


「アタシ、アルファ。アナタ、ダンカン」


ビービー鳴き声を上げるばかりだったその声帯で、人間の言葉を話した。


「さあ。精度を上げなければならないな。もっと量産できるように、改良もしなくてはならない。アルファ、そこの水槽からマウスを1匹取ってくれ」


「これだ」と、ヴィクターは確信した。これが自分には必要だ。砂を噛むばかりの日々を変えるには、これしかない。

120cm規格水槽の分厚いアクリルを、エメラルドグリーンの鱗で覆われた手のひらで叩く。何度も何度も、叩いて、引っ掻いて、また叩く。ダンカンと名乗った男がこちらを向いた。上唇の上の毛を弓形に持ち上げ、こちらに近づいてくる。


「なんだ、ヴィクター。お前も人間になりたいのか?」


彼が発する言葉の意味は理解できなかったが、表していることは理解できた。ヴィクターは肯定を示すため、首を縦に何度も振った。


レイチェルがいなくなってから、どれくらいの月日が経っただろう。彼女が壊した四角い板の代わりに新しく置かれた板に、あの日とは異なる女性が映し出されていた。


「人間を他の生物に変化させる遺伝子技術”ホラ・イニティウム”。これを開発した彼女に、私たちは賛辞を送ることができません。マクドゥーガル博士が消息を経ってから3年。一部では死亡説が囁かれる中、私たちは一刻も早い発見を切に願っています」


***


歩くことに縛られない前足を手に入れた。後ろ足だけで体を支えるこの姿勢は走るのに適していないが、最初から人間だった人間より早く走れるし、高く飛べる。

あの部屋にいない間、彼女がどこでどう過ごしていたのか知らないけれど、彼女が纏っていたいろいろな匂いの場所を辿ればいつかきっと見つかるだろう。

ヴィクターは走った。ひたすらに、どこまでも、どこへでも。空に届きそうな建物も、人間を乗せて走る鉄の塊も、道路を覆い隠すくらいの人の波も初めて見る。どれも彼をそれなりに驚かせたし、障害物となるものが山ほどあるその街は走りにくかったけれど、彼は周囲を見回し、走り続けた。

どこかにきっと、レイチェルがいる。彼女は、あの無機質な部屋の外で、何をして過ごしていたのだろう。何を食べ、誰と暮らし、何を見ていたのだろう。考えを巡らせると、心が踊った。その世界に自分も行けるのだと、何の証拠もなく信じていた。

辿り着いたのは、年季の入った集合住宅の一室。表札が黒く塗りつぶされた鉄製のドアの前だった。


「そこの住人に何か用かい?最近めっきり、姿を見なくなったよ」


人間の姿を得て、意識の解像度がワンランク上がったようだ。意味が理解できなかった言葉の意味が、スルスルと頭の中に入ってくる。通りかかった老婆の言葉にヴィクターが小さく会釈をすると、「変わったイニティだね。コミュニケーションができるなんて」と呟いて彼女はどこかへ消えた。

このドアの向こうにレイチェルがいる。間違いない。隙間から漏れてくる空気が、彼女の匂いを色濃く纏っている。

ドアノブを引くと、当然のようにドアが開いた。個人住宅のドアには鍵をかけるものであると知らないヴィクターは、それに何の違和感も持たず中に入った。

真っ暗な廊下が真っ直ぐ続き、突き当たりのドアの磨りガラスを通して、向こうの部屋の光が見える。何かが動く影がチラリと見えて、それをレイチェルだと理解した彼は期待に胸を躍らせて廊下を進んだ。

彼がドアを開くのと、その向こうで何かがぎしりと軋み、パタリと倒れるのはほとんど同時だった。


「レイチェル」


ずっと呼びたかった彼女の名を口にしたその時、朝日が満ちた東向きの部屋の天井からぶら下がるものを見た。


「レイ、チェル……」


ずっと会いたかった彼女が、首を吊って、ふらふらと揺れていた。ゆっくりと転がる丸いスツールが、壁に当たって乾いた音を立てた。

半開きの瞼の彼女の瞳に、かつてのスカイブルーの輝きはない。どんより濁った、何とも形容し難い色をしている。今まさに首の骨が凹み、体の中心の神経がおかしな方向を向き、脳が血流不足に陥り、生命維持の均衡が崩れた瞬間。指先と体の芯がピクピクと異常を表し、やがて停止した。

完全な沈黙。何が起こったのか理解できなかったヴィクターは、しばらくして我にかえると慌てて彼女を下ろしにかかった。

水槽の中から見ていた彼女は絶対的な力をもった大きく力強い存在に思えたけれど、ここで抱えた彼女は軽く、体は小枝のようで、ふとするとあっけなく壊れてしまう繊細なものに思えた。柔らかい彼女の体を抱き、首にかかった縄を外す。小さな体を床に横たえて「レイチェル」ともう一度呼びかけたが、返事はなかった。


「なあ、レイチェル、何があったんだ?生き物は首を括ったら死ぬだろう。お前はどうして、死ぬんだ?」


室内は荒れているが、物取りが入ったような荒れ方ではない。棚の上とか、テーブルの上とか、目に映るもの全てをめちゃくちゃに薙ぎ払ったようなありさま。ヴィクターは、いつだったか彼女が、パイプスツールをテレビに叩きつけたことを思い出した。

壁際に、写真たてがいくつも重なり合って落ちているのが目に止まった。壁に貼ってあったのだろう。壁紙がところどころ剥がれていて、写真たての裏にくっついている。

ヴィクターが見たことのないどこか遠くの風景が、小さく切り取られ、木製の縁に閉じ込められていた。

黄金色の作物が隙間なく広がる、だだっ広い平原。みずみずしい赤の果実の表面。2人分の食事が並んだテーブル。透明な光を纏う白いレースのカーテンと、その横で微笑む、若い男。


「これは、誰だ?」


写真の男はベッドに座っていて、布がかかった下半身の下肢があるはずの部分に膨らみがない。両足がないのだろうか。笑った顔の口角の向きと、薄い紫を纏った白い髪が、どことなくレイチェルに似ている気がする。

一通り写真を確認したヴィクターは、知らない男が写るそれを床に戻し、動かない彼女を振り返った。立ち上がり、彼女の元へ。

彼女は、この写真にあるものを無くしてしまったのだろうか。それとも、捨ててしまったのだろうか。いずれにしても、床に転がるこれらは、彼女が失ったものたちだ。

床に横たわるレイチェルの傍にしゃがみ込んだヴィクターにとって、写真のことは些末なことだった。言ってしまえばどうでもいい。彼の中に一等大きく広がっていたのは、「レイチェル自身が、レイチェルを捨てようとしたこと」だった。


「いらないなら、俺にくれ。俺にとっては何よりも大切なものだ。ただ一つのものだ。お前が勝手に捨てていいものじゃない」


くったりと力の抜けた彼女の体を抱き上げ、「行こう」と囁く。当然、返事はない。

彼女に何が起きたのか。彼女が何を考え。今日この瞬間に首を吊ることに至ったのか。ヴィクターには何一つわからない。彼女のことを、何も知らない。

けれど、ひとつだけわかっていることがある。あらゆる生き物は、自らを殺すという思考を持たずに生まれてくる。彼女が起こしたこの行動は人間特有のもので、後天的に学習され、外的な刺激によって誘発される。簡潔に言えば、世界、あるいは当人ではない他者によって起こされるものだということ。

ならば、やるべきことは一つだろう。

大きな窓を開け放つと、朝の風が舞い込み、かすかな排気ガスの匂いが鼻腔をついた。ザワザワと忙しない雑踏の喧騒が追いつくより早く、彼は窓を跳び、この街で一番高い建物のてっぺんに上がった。ここから目に付く建物で一番高いものの上を飛び移って進めば、そう簡単に誰かに見つかることはないだろう。

どこへ行くか、まだ決めていない。行くあてもない。彼女を探すためにただ真っ直ぐに進んできたから、現在位置さえよくわかっていない。

先の見えない”これから”を前に、しかしヴィクターの心は踊っていた。

レイチェルを見つけた。彼女が捨てた彼女を抱えて、自分は今、立っている。ずっと欲しかったものを、手に入れることができた。そのことだけで、明日も明後日もきっと輝き続けるのだと、何の理論もなく確信していた。

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もう戻らない破壊の葬送 塵芥なる @naru_chiriakuta

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