宣戦

 リンはノアを見つめていた。否定を待っているのではない。ただ納得してしまったのだ。


 ライルも皿にした目でノアに視線を向け、メルに至っては呼吸するのを忘れているようだった。一緒に旅をしてきた彼女はリン以上に思い当たる節があるのだろう。


 リンはノアの呪体化トランスを初めて見た時のことを思い返していた。


 あの禍々しいと感じた魔力は堕天使のものだったのである。道理で勇者に不相応な印象を覚えたはずだ。


「メルヴィナはノアが中位セカンド以上で呪体化した姿を見たことがあるか?」


「……ない」


 メルは絞り出すように声を漏らした。


「やはりな。一目瞭然なのだよ。ノアはそれほど邪悪な魂を宿している。比べて私のリフィスは聖なる力の象徴だ。歴史書を紐解けば勇者の力と呼べる魂でもある」


 誰も否めない。アンクトでは感じなかったが、近くにいるとよく分かる。ジェノの発する魔力は快いまでに清かった。見つめ合うのみで魅了されかねないほどに。


「よもや知らんとは言うまい。勇者と魔王は争いを避けられん。そして歴史でも物語でも勇者が必ず勝利する。先程に我らは相対すべき敵だと言ったが、貴様らが降るのなら許容しよう。私と共に第6の魔王と戦わんか?」


 ジェノは神聖さを湛えた赤い瞳で眼差しを向けていく。


「ライル。貴様の勘の良さには舌を巻いた。何せ私は勇者暗殺の件を真に受けていたのでな。教会にしてみれば前大司教が魔王という時点で空前絶後のスキャンダルだと言うのに、その実子が力のみならず遺志までも継いでいる可能性があるのなら捨て置くこともできん訳だ。さらに言えば教会が勇者でなく魔王の暗殺を謀っていると考えればそう不思議なことでもなかろう。魔王とは邪悪の象徴だからな。さておき前提が長くなったが、率直に言おう。どうだ? 私の下で貴様の直感を生かす気はないか? 応じるのであれば熾天石セラフストーンの1つくらいは直ちに用意するぞ」


 ジェノは返事を待たずに視点を移す。


「メルヴィナ。貴様の両親は王侯貴族の傲慢が原因で亡くなったと聞く。呪術師を目指したのも、魔法師の墓に侵入したのも、奴らに報復する力を得るためだったのではないのか。長旅の連れを裏切るのは抵抗を覚えるかもしれんが、ここは初志を貫くべきだと思わんか?」


 そして最後にリンを見つめた。


 本当の天使のように、温かみのある微笑を浮かべて、


「もう3時間も経てば魔界の門が完全に開く。リンが私に従うのなら宝石塗れエンシェントグールを呼び出してやるぞ? 渇望して止まなかった秘薬を得る千載一遇のチャンスだ。よもや断るとは言うまい。何せリンは救いたくて堪らないはずなのだ。1分でも。1秒でも早く。最愛の母親をな」


 誰も誘いに応じない。しかし拒みもしなかった。


 メルとライルは無表情で佇んでいる。きっとリンと同じで頭の中がグチャグチャになっているのだろう。


 リンはメルとの会話を思い出す。人々が魔王アレックスの政治を受け入れていたことや、聖戦の後に大勢の犠牲者が出たことをだ。


 その実、ジェノの思想は正しく思える。


 方法は決して褒められたものではないし、正義か悪かと問われれば後者と答えるほかないだろう。


 だが。誰かが本気で是正に努めない限り世界が変わらないというのもまた事実だ。


「何を悩む? そいつは勇者などではないのだぞ? 第5の魔王を殺したのは嘘でもないが、勝因は資質や信念などではない。魔王が我が子の命を奪おうとしなかったせいだ。そいつは仮面で顔を隠していた父親を一方的に刺したに過ぎん。唐突な息子の登場に驚き、狼狽しているところをな」


 今の説明でリンは察してしまった。これではノアが教会を離れたのも無理はない。


 ノアは謀られたのだ。魔王が父親を殺したのだと教会に唆され、魔王の正体が変装した父親だと気付かずに憎悪をぶつけたのである。


 アレックスがノアの攻撃を素直に受け入れたのは自分の行為を心のどこかで否定していたからだろうか。これは悪事に値する、と。


 その可能性は大いにある。アレックスが心の底から己の思想を正しいと考えていたのなら、古城に来た2人の息子を仲間に誘ったはずだ。


「先程の発言には語弊があったな。共闘の必要はないぞ。私の邪魔にならん場所で傍観していればよい。父上の仇。親殺しの愚弟を相手にするのは私のみで構わん」


「……1つ聞かせてくれ」


 ライルが細々とした声で言った。


「王都で何があった? あんたがアレックスの件で王侯貴族や教会を恨んでるのは分かるけどよ。ちょっと前までは平気そうだったじゃねえか。何で急にここまで変わっちまったんだ」


「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」


「……なんだそれ?」


「東方の言葉でな。燕や雀のような小さき鳥には大空を舞う大鳳の気持ちは分からないという意味だ。要は我々に国を思う王族の心情は計れんということだな」


 ジェノは何かを思い出すかのように、相棒と同じく両目を閉ざした。


「逆に問おう。ガルダの調査を願い出た私にフェイン国王は何と言ったと思う?」


「許可を出せんとか。どうせそんな内容じゃねえのか」


「娘をやる、だ」


 あぁ? とライルが不可解極まりないと言った声を漏らした。


「私も耳を疑ったよ。そして思い知ったのだ。我々と王族では何もかもが違うと」


 再び開いたジェノの目には確かな怒りがあった。

 

「美しい姫君をくれてやる。金銀財宝をくれてやる。王に次ぐ地位をくれてやる。それで納得できんのなら旧シヴァルト領の独立を認めて初代国王にしてやる。だから勇者ノアを討ってこい」


 くっくっくっとジェノは世界で最も面白いジョークを知ったとばかりに笑い、


「だから? だからとは何だ。私は理解できん。挙げられた内容のどこに勇者を討つ理由がある? 女か金か地位を与えれば下々の者なら誰でも尻尾を振ると思っているのだよ、あいつらは」


「……要するにノア暗殺の首謀者は国王だったのか。畜生が。教会の力が強い国とはいえ。王族と教会の癒着がそこまで酷いとはな」


「改めて言うことでもない。国内の司教は8割以上が貴族であるし、ハミルトンもその筋だ。とうの昔にフェインの教会内部は腐敗していたのだよ。父上を除いてな」


「否定できねえな。13の子供に父親を殺させた上に、今度はその子供を殺すとか言ってんだからよ。無闇に人の命を奪わなかった前回の魔王の方がよっぽど正しく思えちまう」


 ライルがばつの悪そうな顔でノアを見る。対する真っ黒な少年は義兄を正面から見据えるだけで、肯定や否定を言葉でも態度でも表わそうとしない。


「あたしからも一ついい?」


 問い掛けを契機にジェノの目がメルに向く。


「あんたが王族の連中に失望しきったのはよく分かった。本音を言うとあんたの味方をしても良いと思ってる。だけどさ。なんでなの? ノアと戦うってさ。そんなのおかしいじゃん。あんたは大事な弟のために、ノアのために世界を敵に回そうと思ったんじゃないの?」


 メルの疑問はリンの疑問でもあった。いくらノアが魔王の力を宿していると言っても、彼は勇者の称号に違わず人々に有害な魔物を各地で何匹も倒しているし、逆に悪い噂は1つも聞いたことがない。全くの善人。偉人。尊敬すべき勇者様だ。


 なのになぜジェノはノアを討とうとするのか。メルがブラコンと言っても一度も否定しなかったくらいノアを愛しているくせに、なぜここにきてノアと戦うなんて言うのか。リンもメルと同様に納得などできようもない。


「間違ってはいない。私が世界に反旗を翻そうと思ったのはノアのためだ。他の理由も多々あるが、ノアのためというのが最たる理由だと断言しよう。しかしな」


 ジェノが侮蔑を含めたような、まるで相手を弟だと思っていないような目でノアを見る。


「お前は私の考えに同調せんだろう?」


「……当然だよ。父さんもそんなことは望んでないはずさ」


「殺した張本人がよく言う。では私の思想も殺して潰すか?」


 ノアは答えない。


「メルヴィナ、分かったか? 私に手を貸すと言うのなら受け入れるし、邪魔をせんと言うのなら見逃しもする。だがそいつはどちらも選ばん訳だよ」


「だから戦うって?」


「いかなるものであれ禍の種は早々に摘むべきだ。この考えのどこがおかしい」


「どこもおかしくない。相手が魔王クラスの強さを持ってるのなら殊更にね」


「疑問が解決したのなら降るがいい。或いはノアのためにこの腐った世界を維持しようと宣うのか? 違うだろう? 貴様が対立すべきは私ではない。王族や貴族ではないのか?」


 メルが嘆息した。ジェノの言い分に納得したかのように肩を落とし、ライルを一瞥する。


「……すまん。迷う場面じゃなかったな」


 ライルが長剣を放り投げた。ノアは恨み言を零さず、リンも反対はしない。


 解呪リカバーの有効期限までに熾天石が見つかる保証はないのだから、妻を助けるための最良の行動と言える。


「何をしている?」


 ジェノの表情から優しさが消失した。


「ちょっと待ってくれ。俺の得物は片付けるのも取り出すのも中々に手間取ってな」


 見ればライルは左手で持った棺桶袋コフィンバッグに右腕の肘までを入れている。やがて出てきたのは鋼鉄製の斧槍ハルバード。そして野蛮に思えるほどの勇ましい笑みを浮かべて地面に矛先を突き刺した。


「あいつはな。魔王が倒れたと聞いた時に笑ったんだよ。これで魔物の出現が減る。人々が不幸に遭う回数も少なくなる。良かったってな。教会に利用されたノアには悪いけどよ」


「クロスケの活躍のお陰で故郷から離れる決心が付いたってのもあるっしょ?」


 そうだな、とライルがメルに笑いかける。メルも素早く樫の杖を引っ張り出した。


「何のつもりだ?」


 ジェノは冷淡に問う。


「神々に翼を奪われし業深き大鷹よ。我に蛮勇の極みを見せ付けよ。中位呪体化――罪深き鷹ギルティホーク


「虚空を行き交う色無き御霊よ。色付く世界に汝の容を知らしめよ。中位呪体化――無色の御霊クリスタルファントム


 2人は呪詛で示した。ライルは羽毛塗れになった両腕で斧槍を構え、刃の切っ先をジェノへと向ける。印象が希薄になったメルも樫の杖を同じようにしていた。


「せっかくだから言い返しとくわ。あんたにしては戯けた質問ね。あたしもライルと同じ考えなんよ」


「要するに魔王の統治する世界なんぞに住みたくねえってこった」


 口々に主張する両名をどう思ったのか。ジェノはいつものように肩を竦めて、


「止めておけ。リフィスは伝承に違わず傷が癒えなくなる呪いを有し、私の身体も治癒を受け付けん呪いに蝕まれてはいるが、S級の魔物を数百と相手にしても私はご覧の健康体を維持している。黒竜や巨人の力を以てしても熾天使の肌に傷の1つも負わせられん訳だ」


「うい。それが何か?」


「戯けが。貴様らに勝機はないと分からんか」


「開門の儀式の要をぶっ壊されてもあんたは同じ態度を取れるかしらん?」


 メルの問いにジェノが口を閉ざした。


「魔界の門を開くには模造熾天使セラフィックスタチュー模造堕天使デモニックスタチューが必要だって知ってんよ。あの神殿だか祭殿だかにそれがあるってこともね。別にあんたを倒さなくてもバカバカしさ満点の壮大な計画は頓挫するってわけ」


「……碌に魔術も使えん小娘が大仰なことを言うな。させると思っているのか?」


「奈落の底にて魔を極めし献身の象徴よ。我が身を汝の常闇で包み籠め。中位呪体化――献身の翼アルトメイア


 さながら火山が間近で噴火したようだった。吹き飛ばされなかったことを不可解に思うほどの莫大な魔力が隣で発生した。


 発生源の少年はもはや人の外見を保っていない。太い血管が浮き出た両腕を含めて肌はすべて藍青色に染まり、双眼はサファイアと化したかのように丸ごと真っ青になっている。生やした3対の翼は蝙蝠の羽根のようにも見え、腰まで一気に伸びたボサボサな黒髪と共に背中を完全に隠しているが、最も変化したのはこの場の空気だ。


 息苦しい。呼吸のたびに肺が闇に侵されていくような。


 悪魔だ。この場に一般人がいれば挙ってそう罵るに違いない。


「させてみせるさ。いくら兄さんでも僕と戦いながら儀式を守り通せるはずがない」


 ノアの身体が浮き上がる。ジェノは忌々しげに唾を吐き捨て、


「試してみるか?」


「愚問だね。その強情な性格を正してやる」


 ノアは騎士の誉れアロンダイトを両手で握り締めた。メルとライルが変貌した勇者の両隣に並ぶが、2人は恐れた様子を僅かも見せていない。まるで物語に出てくる英雄達のように果敢だ。


 相手は不死身に等しい。齢千年を越える巨大な竜すらも軽々と滅ぼすほどの絶対的強者だ。作戦の成功率と自分の死亡率では後者の方が圧倒的に高い。


「獅子すら慄く草原の主よ。あの人を正すための力を私に貸して! 中位呪体化――南原の覇者マクロパスチャンピオン


 それでもジェノに考え直して欲しいと思った。


 例え世界が今以上に酷くなるのだとしても。


 リンは両手に握り拳を作って戦場に行く。少なからず。自分は正しいと信じて。


「恩を仇で返すのか?」


 ジェノは問うた。斬れかねないほどの鋭い眼光をリンにぶつけて。


「あなたの頭を冷やしてあげるわ。それが今の私にできる最大の恩返しよ」


「……残念だ。愛娘が魔王の肩を持ったと知ればリディアもさぞ悲しむと思うがな」


 露骨なまでの挑発だ。お陰でリンは反って冷静になる。


 同時に周囲の異変に気付いた。儀式場に繋がるすべての通路に不死者アンデッドの姿がある。


 大半がイグノでも見た雑魚の魔物だが、メルの舌打ちが状況の危うさをリンに教えた。魔術や魔法を禁じられた環境で優に百を超えそうな、いや、ひょっとしたら際限なく現れる不死者を相手に善戦できるのだろうか。


「貴様らが私と対立する可能性を考慮していないとでも思ったか?」


 ジェノは3対の真っ白な翼をはためかせ、


「では始めようか。聖戦と呼ばれる争いを」


 魔王の力を持った勇者。勇者の力を持った魔王。


 過去に類を見ない異常な聖戦が始まった。


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