熾天使

「早朝に呼び出して悪かったな」


 ジェノはリンが入室するなり声を発したが、顔も身体もカーテンを開いた窓の方に向けている。彼の宿泊室は3階で、周囲の建物の背丈が低いこともあってガルダの峰がよく見えた。


「お気になさらず。知らない人が呼びに来たのはちょっと驚いたけれど」


 ノックの音で目を覚ましたら店主と女性の傭兵が廊下に立っていた。


 メルを起こしてもみたが、呼び出しの対象はリンのみである。なので行き先だけを伝え、するとメルは再び寝転がってしまった。


 リンもまだまだ眠い。何せ今は早起きの太陽すら頭頂部を見せていないような時間だ。早急に話を終わらせて真っ白なシーツに横たわりたい。


「なぜ世界が平和にならないと思う?」


 ジェノの突飛な質問にリンは面食らった。しばしの思案の末に解答を思い出す。


「世界が呪われてるから」


「神々が人間に無関心だからだ」


 リンの解答も否定はせんがな、とジェノはさも退屈げに呟いた。


「神々は人間が悪さをしても天罰を与えない。その事実が王族や貴族どもの戯けた思考を助長させ、無益な戦争が勃発するのだ。考えてみるがいい。殺人などの実行や指示が行われるたびに裁きが下ればいずれ完全な平和が訪れると思わんか?」


「……思うけれど。問答無用は反対かな。ジェノの例もあるし」


「神々が働き者なら私が人殺しとなる前に連中を葬っていたはずだ」


「そっか。連中が先に殺人を犯してたことを考慮に入れてなかったわ」


 言われてみれば尤もな話だ。今の案が魔物にも適用されたら世の集落は後ろ盾に頼らずとも済み、ラトの宝石塗れも青年を殺した瞬間に滅されることになるし、母親が腐敗化を被ることもなかったに違いない。まさに理想と言える環境だ。


「所詮、絵空事でしかないがな。願わば祈れと教会は宣うが、何百年何千年と祈っても一向に世界は平和にならん。天に棲まいし神々が地べたを這いずる我々に塵ほどの関心もない証拠だ。双子の熾天使の伝承を鑑みても明白と言える」


「双子の熾天使って人間に天界の魔法書を授けたとかの?」


 初めてジェノが振り向いた。数秒ほど無言で見つめ合い、


「詳細を知っているのか?」


「去年だったかな。魔法に関して気紛れで調べたことがあるのよ。解呪に使えるかもってね」


 伝承の内容は憶えている。慈愛の天使と献身の天使。双子の姉妹が主役の物語だ。


「命の尊さを語った姉妹が傲慢な神に不条理な罰を与えられる話よね。妹は姉に黙って二名分の罪を負い、魔界に追放されて堕天使となる。姉は早々に妹の献身に気付いて己も魔界への追放を志願するも、意地悪な神が与えた罰は百年間の幽閉だった」


「魔界の空気は神々さえも穢し、そこに棲む魔王と呼ばれる存在は業の深い神や熾天使の成れの果てだ。ただただ姉は獄中で妹の身を案じ、やがて1つの名案を閃いた。魔界への門は神にしか開けないが、それはあくまでも天界での話なのだ」


 ジェノは続きを語りながら再び薄暗い空に視線を投じた。熱気を持たない真夏の風が銀の前髪を小さく揺らす。リンも窓に近寄って冷たくすら感じる夜風に当たった。


 二人は昔話を交互に紡いでいく。


 しばらくして姉妹を慕う数名の天使達が現れ、姉を牢獄から救い出すが、脱走の最中、姉の自由と引き替えにその天使達が次々と捕らわれてしまう。


 姉は仲間を助けるために引き返すも、


『状況を見誤ってはいけません。あなたが救うべきは我々などではないでしょう』


 天使達の願いを聞き入れ、姉は覚悟を決めて下界へと向かったが、脱走時に受けた傷が想像以上に酷く、とても開門の魔法を使えそうになかった。


 しかも傷口は癒える気配を一向に見せない。追っ手の持っていた武具には神々の呪いが施されていたのである。


 人間に頼もう。姉はすぐにそう決めた。下界に向かった天使が人間に捕まったという話は数十も知っていたが、背に腹は代えられなかった。


 姉は人間に扮して旅を始め、幸運にも最初に出会った男性は姉の存在を受け入れてくれた。


 彼こそがのちに願わば呪えと唱え、教会に反旗を翻した呪術師連合の創始者だ。


 しかし当時の世界に魔術の類はなかった。


 当然ながら彼の魔力量は乏しく、魔法の行使など夢のまた夢だった。そこで彼は言う。ならば人間にも使える魔法を創り出せばいい。


 そうして誕生したのが魔術や呪術だ。


 各術の開発から5年後、姉と彼は強力な呪術を用いて開門に成功し、だが最初に現れたのは後世で第1の魔王と呼ばれる破壊神だった。


「ジェノが揶揄した場面はここよね。魔王が下界で大暴れしてたのに神々は何もしなかったとか文献に記してあったわ」


 リンは確認を取りながら思い出す。門を通ってきたのは魔王のみではない。多くの魔物もいたが、姉の魔力を感じ取った妹も一緒に出てきた。


 純白だった一対の翼が蝙蝠のように禍々しくなってしまい、肌は疎か髪や瞳の色さえも大幅に違っていたが。


 それでも姉は一目で見抜き、自分が撒いた種を妹と協力して刈り取った。


 魔王を倒した姉妹は人々に感謝されたが、下界に混乱を招いたことを償うために自害してしまう。しかし姉妹が思うほどその件は人間にとって悪い話でもない。


 魔界の門が開かれる前から魔物は多く存在していたし、姉が創った魔術や呪術は今でも人々の生活に一役買っているからだ。


「リンは姉妹のその後を知っているか?」


「ちょっとならね。第3の魔王は妹の魂を保有する呪術師だったとか。それを倒したのは姉の魂を保有する連合創始者の子孫だったとか」


「その伝承は憐れに思った。やっとの思いで再会した姉妹が離れ離れになり、しかも戦わねばならんのだからな」


 ジェノは瞼を落とし、小さく息を吐いた。


「仮に今も一部の人間の都合で姉妹が離れているとしたらどう思う?」


「再会させてあげたいかなぁ。私もお母さんと離れてるから寂しさは分かるもの」


 そうか、とジェノは薄く笑って法衣の袖に手を入れる。出てきたのは銀製短剣だった。


「念のために持っておけ」


「何に対する念ですかね……」


「大司教と言えども王城を訪れてすぐに国王と話せる訳ではない。調査の許可を得るのに3日は掛かると思われる。本来はアリスに渡すべきだが、大司教の真似事はご免蒙ると言われた。他に適役も見当たらんし、私の不在中はリンに我々の代表を務めて貰おうと考えている」


 拒みたい。が、ノアは黒いし、メルは見えないし、ライルは傭兵だ。


 アリスを説得するのもリンの話術では無理に決まっている。仕方ない。リンは項垂れながら受け取った。


「緊急時に限ってガルダへの侵入も許す。どさくさに紛れて上手くやれ」


「……私はただの代表よね? 作戦の指揮とかはノアやアリスに任せても?」


「構わん。後者は面倒がって雑な命令を出しかねないがな」


「ノアに頼みます」


「賢明な判断だ。では密談を終わらせるが、一応は王都の前にラトの様子を見に行くつもりでな。リディアに言伝などはあるか?」


 間が悪い。つい先日に箇条書きの手紙を〈炎獅子〉の配達要員に渡してしまった。


「自分勝手なことを言うと3日前に言って欲しかったかな」


「気が回らなくて悪かったな。ラトの訪問はイグノの儀式直前に思い付いたのだ」


「そっか。というかお母さんに正体をバラして大丈夫なの? 今回も一応は変装するんでしょ?」


「変装はするが問題ない。前回もリディアのみが私の正体を看破したのでな」


 ジェノが苦笑しながら肩を竦めた。リンは驚くばかりだ。


「部下に欲しいほどの目敏さだ。お陰で30分の滞在予定が一泊することになった」


 2年が経っても母親の性格は変わっていないらしい。ジェノはライルと同じようにリディアの様子を教えてくれた。永遠に続いて欲しいと思うほどに安らかな表情で。


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