懐古
「宝石塗れはすぐに逃走したわ。でもジェノは追い掛けずに宝石塗れの再来や別の魔物の襲撃に備えてラトに留まったの。まさかお母さんが
リンの嘆息に合わせてジェノが憮然と頷いた。
宝石塗れの目撃例は竜以上に少なく、腐敗化を被った例も決して多くはない。加害者を滅ぼせば助かるというのも一部の学者しか知らず、
ただし道連れと腐敗化の関連性は百年も前に発表されている。道連れは宝石塗れが対象の肩を叩くことを指し、腐敗化はそれを契機に被害者の身体が徐々に腐っていくことを示す。
そして発症から8年が解呪の有効期限とされ、例え期限内であっても症状が脳に及べば不死者の仲間となってしまい、心臓が腐るまでに何とかしないと健康な肉体は取り戻せなくなる。
「
「必要な秘薬におおよその見当が付いてな。獲得に成功した2種を提供しに行った訳だが、実際の目的は2人に対する謝罪だ。不運にも打倒魔王を目指した呪術師部隊の育成係を任せられてしまってな。行動の制限を余儀なくされたのだ」
腰を曲げるジェノに母子揃って頭を下げ返した記憶がある。村人の全財産を足しても買えないような秘薬を2つも貰った挙句、謝罪などされてはリン達の立場がない。
「でも謝罪の意図は当時の私が思ってたの以外にもあるみたいね」
「……私は、救えたはずなのだよ」
ジェノは地を這うような低い声で呟いた。ただただ悔いるように、
「私がラトに着いた時、リンは一人で宝石塗れと対峙していた。当時の私はリフィスをまだ保有していなかったが、飛ばずとも全力で走れば間に合う距離にいたのだ」
しかしジェノは足を止めてしまった。きっと。その原因が赤い瞳に映ったからだ。
「村人達が逃げ惑う中、娘が一人で戦おうとしていることにリディアは気付いたようだった。そして迷わず駆けだしたのだよ。あの時のステラ様のように……」
リンは鮮明に憶えている。宝石塗れに襲い掛かった時のジェノは泣いていた。誓いを守れなかった教徒のように絶望し、約束を果たせなかった子供のように悔いていたのだ。
でも、とリンはジェノの考えを否定する。
「私もお母さんも助かったの。ジェノに助けて貰ったの。腐敗化は絶対に解ける呪いだし。主観的に考えても、客観的に考えても、やっぱりジェノは私達の恩人よ?」
「……そうか」
そうですよ、とアリスも励ますが、浮かべた微笑には心なしか邪悪な印象がある。
「しょうがない人ですね。僭越ながらわたくしが自虐野郎を元気にして差し上げましょう」
「忘れたはずの話を口にして私の血圧を上げるつもりなら拷問に掛けるぞ」
「望むところです。煮るなり焼くなり縛るなり犯すなり。どうぞお好きになさってくださいまし。わたくしは大司教の性癖に従う所存です。後半がオススメだったりしますよ?」
「では焼こうか。メルヴィナ。火をくれ」
殺生な! と叫ぶアリスは前言に反してジェノの即断を受け入れる気がないようである。
だが煙草のような扱いをされた少女の思惑は無事に叶ったらしい。大司教の憂いは既に雲散霧消している。うっすらと浮かべた笑みはどこか辟易としたものだったが。
「しっかし11で一人旅に出るとはな。俺が同じくらいの時は魚釣りと畑仕事ばっかだったぜ」
ライルは本当に焼こうとしたメルを手で制しながら言った。リンはすかさず、
「12よ。魂を1個も保有してなかったし、半年くらいは地元で良質な魂を探したり教会で祈ったりしてたの。故郷を離れることに抵抗があったのも事実かな」
「あー、まだ〈炎獅子〉の傭兵が来てなかったのか」
「傭兵さんはとっくに来てたわよ。ただ親離れができてなかったというか、正直に言うとジェノからアドバイスの手紙が届くまで現実逃避してたのよね。毎日のように神様に祈りを捧げたら腐敗化が解けたり加害者の宝石塗れが倒れたりするかもって」
楽観し過ぎている自覚はあった。一秒でも早く呪いを解きたいとも思っていた。
しかし12のリンにとって秘薬の収集は余りにも現実的ではなかったのだ。
黒竜に巨人に鳳凰に天使。最強とはいえ屍食鬼ごときに後れを取った自分がそんな伝説級の存在に勝てる道理はない。
かといって購入するのもまず無理だ。
希有な秘薬の4割は強い権限を有する
ノアと会うまでは無意味に持ち歩く者がいるだなんて思ってもみなかったし、物ぐさな神々も稀に奇跡を披露するため、一縷の望みに縋っていたのである。
「アドバイスの手紙って? 今後の展望でも書いてあったん?」
メルの問いにリンは首を横に振った。
「聞かぬ天使に聞く悪魔」
「……まじかい。それって呪術師連合の創始者が教会を皮肉った宣言の冒頭じゃん」
「私も手紙を開いた時は驚いたわよ。何と言っても送り主は大司教の息子だもの」
リンの揶揄に当人が苦笑した。
「聞かぬ天使に聞く悪魔。天に祈れど願いは叶わず、なれど奈落に聞く耳
リンも苦笑してしまう。どう考えても大司教が口にして良い言葉ではない。
「言い得て妙とはこのことだ。神々や天使が人間に与えたとされる奇跡の数は知れているが、寿命や生贄を代償に悪魔が力を貸したという逸話は星の数ほどもある。どうせ頼むのなら天使でなく悪魔にした方が効率的な訳だ。召喚術においても奈落の民を呼ぶ方がずっと楽だしな」
ジェノがアリスの手を取った。何を思ったのか、指輪を1つずつ外しては自分の人差し指に填るかどうかを試していく。やがてピッタリの指輪を見つけると、
「過程こそ違えど祈るのと呪うのは同じ結果を求める行為だ。端的に言えば大願の成就だな。ただし神々との交信は非常に困難で、逆に呪術は理論も明解で確実性にも優れている。願いの内容に応じた秘薬や知識の入手が必須となるが、神々の気紛れを待つのと比べれば随分とマシだ」
「そうですね。紛い物でも己が手で奇跡を起こせるのなら天に祈るだけ時間の無駄と言えます」
アリスまでもが教徒に刺殺されかねないことを言ってのける。開いた口が塞がらないとはこのことだ。メルやライルもリンと同じように唖然としてしまっている。
「リネットは大司教の手紙でそれを理解したから秘薬収集の旅に出たのですね」
そわそわとしたアリスは自分勝手に結論付け、ジェノの右手を凝視する。
「填める場所が間違っていますよ。右の人差し指ではなく左の薬指です」
「その手の交渉はまた今度だな」
不意にジェノが腰を浮かした。彼の双眼は食堂の入口を捉え、視線を追うと白い法衣を纏った少年がいる。ジェノは袖に手を入れると数枚の銀貨を取り出して、
「悪いな。アリスとの食事は夜までお預けのようだ。私の分まで食っておけ」
「わたくしもお供しますが?」
「食っておけと言ったぞ。心配せずとも戻ったら独り言を呟いてやる」
悠然と闊歩するジェノの背中をアリスは席を立たずに見送った。大司教の後ろ姿が見えなくなってすぐにメルが問う。
「アリスはさっきの男を知らないん?」
「ええ。紛れもなく初見でした。もしやメルヴィナはご存じなのですか?」
「知んないっす。でもブラコンが指輪に触れ始めたのはあいつが来た直後なんよね」
気が付かなかった。リンが視線を送るとライルも知らないと言った感じで肩を竦める。
「理想の実現を願ってる時や意志を貫きたい時に指輪を右の人差し指に填めるって聞いたことあるけどさ。何か関係があるんかね?」
「ハッ! もしやわたくしとの結婚という理想を実現したいと願っているのでは!」
恋は人を盲目にさせると聞くが、アリスは常に恋の目潰しを受けているように思える。ここはメルに倣って他人のフリを演じるべきだ。
「あれ? 兄さんは?」
感嘆するほどの間の悪さだ。アリスはようやく現れた黒い少年を手招きして、
「姉さんならここにいますよ」
さすがの勇者様も後退った。魔王との交戦以上に身の危険を感じたのだろう。ノアが座ったのは先程までジェノがいた席ではなくリンの右隣だった。
「兄弟揃って意地悪なのですね」
「違うよ。アリスさんの隣は兄さんって決まってるじゃないか。僕が座るなんて恐れ多いよ」
ノアはノアでアリスの扱いが上手い。見事に惚気たアリスは嬉しげに頷いている。
「ところで何の話をしてたのさ」
ノアが返答に困る質問をしてくれた。ジェノの幼少期の件には箝口令が敷かれている。
「シヴァルトの話です」
リンは紅茶を噴き出しそうになった。が、ジェノが他言を禁じたことを鑑みるとノアが知らない公算は大きい。考えようによっては悪くない切り返しだ。
「兄さんの過去の話か」
「……ご存じだったのですか」
一転してアリスの振る舞いが大人びた。ノアは給仕から水の入ったグラスを貰い、
「初めて兄さんと会った時に父さんが話してくれたからね。それにしても懐かしいなぁ。父さんが大司教の仕事で忙しかったから兄さんと2人でいる時間が長かったんだけど、最初の1年は他人以上に余所余所しい感じでね。全然と言っていいほど仲良くなれなかったんだ」
「……お母様の件があったからでしょうか」
「そうかもね。僕は子供なりに割り切ってたけど兄さんは責任を感じてたみたいだ。腐敗化の件を僕に隠してたのが良い証拠だね。きっと僕が母さんの一件を連想すると思って言えなかったのさ。現にカロッカで話を聞いた時はどこか不安げだったし」
だけどおかしいよね、とノアは苦笑する。
「確かに兄さんは状況を覆せる力を持ってたみたいだけどさ。僕も父さんも『母さんのためにどうして相手を先に殺さなかったんだ』なんて言える訳ないじゃないか」
相手は武装した十数人。ジェノは幼い上に武器がない。この条件で1人も殺さずに場を制圧するのは不可能だ。とノアは他人事のように淡々と分析結果を語っていく。
「いかなる理由があっても人を殺してはいけない。幼少の頃から何回も聞かされた教会の教えは今も正しいと僕は思ってる。命の価値が平等とかいうのは別だけどね」
最後の言葉が少し引っ掛かったが、ノアにも持論があるのだろう。リンは敢えて問おうとせず、急激にテンションを下げたアリスを盛り上げるため、
「ジェノはどんな子供だったの?」
アリスの耳がぴくっと動いた。興味津々とばかりに閉じた両目をノアに向ける。
「難しい質問だなぁ。僕は兄さんを子供だと思ったことがないのさ。他人行儀が過ぎるくらいに礼儀正しかったからね。ただ、小さい時の方が今と比べてずっと頑固だったかな。何回も注意してるのに直らなかったというか、なかなか直さなかったことが1つあってね」
ノアの口元が綻ぶ。アリスはと言えば両目を開いて聞き入っていた。
「弟の僕をノア様と呼ぶのさ。本人は兄弟じゃなくて護衛のつもりだったみたいでね。どこへ行くにも付いてきたし、就寝も自室じゃなくて僕の部屋の前でしてたよ」
「んっと。思い出話に水を差して悪いけどさ。続きは食べながらにしないっすか?」
メルの提案に異論は出なかった。満席でないにしても昼時に飲料のみを注文して談笑に耽るのは大変よろしくない。
各々は好みの品を注文し、すぐに生ハム争奪戦が勃発した。
やがてノアの思い出話に再び花が咲き、この場にジェノがいないことを惜しむほどに盛り上がったが、その最中にリンはふと大事なことに気付く。
ジェノから本題の意見を聞いていない。教会が本当に擬似的な聖戦を起こそうとしていたらどう動くつもりなのか。また自分達はどう動けば良いのか。
疑問を浮かべながらもリンは仲間に問わなかった。最良の策を思い付くのはジェノに決まっているからである。きっとこの場の全員がそう思っていたに違いない。
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