思惑

 吹っ飛ばした傭兵をそのままにしておくと行商人の馬車に轢かれてしまう可能性がある。勇者を貶めようとした傭兵どもがどのような末路を迎えようが知ったことではないのだが、轢いてしまったら馬車の方もノーダメージとはいかない。


 なので散らかした本人が魔法の力で傭兵を次々と端っこに転がしていき、人々が天下の往来を行き交うのに問題ないと判断したところで、


「行こうか」


 ノアが進み始める。やっと口を開いたかと思えば随分と淡泊な台詞だ。


「あのまま放っておいてもいいの?」


「ブラコンの指示なんよ。対人の戦闘中は一言も喋らない。加害は反撃でのみ許される。基本的に襲撃者の撃退はあたしがこなして、クロスケはなるべく触れもしないようにってね」


 メルは説明しながら杖を片付けると宙に浮き、再びリンの背に張り付いた。彼女の機嫌は山の天気ほどに不安定らしく、か細い腕をリンの首に回して小動物のように頬ずりしてくる。ストレスの元をぶっ飛ばした後とはいえ大した変わり身の早さだ。


 リンもノアの背を追って歩み出し、1分も経った後に西風の加護は詠唱もなく発動できるのだと気付く。浮き上がるのが自然すぎて今の今まで不思議に思わなかった。


「やっぱ当分はこの調子なんかねぇ。リンが一緒なら襲撃に抵抗を覚える連中も出てくるに違いないけど、旅仲間の情報が知れ渡るのにそこそこの時間がいると思うし」


 そっか、とリンはメルの尤もすぎる私見を重く受け止める。早々の襲撃のせいでジェノの見解をつい疑ってしまったが、早とちりにも程がある判断だったようだ。


 嘆息はしない。リンはただ自らを省みながらノアの右隣に駆け寄っていく。


「だったら無駄な戦闘を避けるためにも、まずは私が名乗るべきじゃない?」


「賛同しかねるっす。相手も仕事で来てる以上は簡単に退かないと思うし、リンを理由に撤退するのはバックに教会が付いてるって教えるようなもんよ。戦闘は確実に続行されるっしょ」


 実に頷ける意見だ。本当はバレバレだが、教会としてはノアに計画を知られるのは非常にまずい。そこら辺の教育は行き届いていると解釈して然るべきと言える。


「僕も名乗るのは推奨しないね。1回や2回だと効果の期待が薄いし、だけど多いとリンが戦闘狂との噂が広がる可能性も出てくる。そうなればリンも暗殺の対象になりかねないしさ」


 ノアの意見も随分と厳しい。得心がいくので異議を申し立てる気にもならないが。


「だから僕は今まで通りでいくよ。きっと兄さんが各地で噂を広めてくれるし、僕らが勝手に動くより兄さんに任せた方が良い結果に繋がるんじゃないかな」


「くっはー。にーさん、にーさんってか。上がブラコンなら下もブラコンですなー」


 ケケケとメルが悪意に満ちた笑い声を耳元で発する。途端にノアの眉が逆立った。


「仲良しの兄弟が羨ましいのかい?」


「あたしは心配してんすよ。血の繋がりがない家族って怪しい香りがするじゃん?」


「心配ご無用。僕らは男兄弟なので」


「でもノアちゃんってかなーり中性的な顔だしさ。次の集落で女物の服でも買ってみる? 昨日みたくジェノっちが、そこの美人はどこのどなただ? とか言うかも!」


 やっぱ超危険な香りがするー、とメルは大笑いするが、温厚なはずの勇者様は着々と殺気を膨らませている。


 恐ろしい。メルの顔が真横にあるせいでリンが睨められている気分だ。息苦しすぎる。この一触即発の空気を早急に何とかしないと窒息してしまう。


「そ、そうだ! 今朝方にジェノの破天荒な提案がどうとかって言ってたわよね!」


「あーあー、言ってた言ってた。リンの宿泊室でのことっしょ?」


 空気が読めないようで実は読めるらしい。幸いにもメルが話を拾ってくれた。


 話題の変化に伴い、或いはリンの心中を察したのかもしれないが、ノアの殺気が薄れていく。一方で性懲りもなく耳元で笑う少女は雀の涙ほども反省していない。


「さっさと話しんさい。女を待たせるなんて最低っしょ」


 ノアはメルを見もせずに、


「メルの呪いは人間にしか効果がなくてね。動物や魔物は視認できるのさ。だから人間以外の魂を保有した呪術師なら呪体化トランスの度合い次第で認識が可能になるらしい」


「そうなの? 私の巧妙な猫トリックキャット中位呪体化セカンドトランスでも無理だったけれど」


「魂にも優劣がある訳さ。竜とかは低位ファーストで充分だけど、獣人とかになると高位サードでも厳しいね。巧妙な猫は中堅くらいの獣人だから魂魄暴走オーバートランスでもしないと無理だと思うよ」


 反射的にリンの背筋が伸びた。ノアが口にしたのは呪術師の禁句だ。


「全員が箝口令を守った上でリンにメルを認識させる。そんな状況をどうにかして作れと兄さんに言われたのさ。命を危険に晒すことも視野に入れた方法でね」


 呪体化は深度に比例して対象の魂から強い力を得られるが、高位呪体化サードトランスに限っては大きなリスクを背負うことになる。

 

 その一例が魂魄暴走だ。それが起こると具現化した魂に身体を奪われてしまい、高確率で死ぬまで元に戻れないと言われている。


 伝承によると故意に魂魄暴走を行い、人間の域を越えた力で魔神と呼ばれる存在を滅ぼした呪術師もいるようだが、如何せん意識を取り戻す条件が厳しすぎる。


 一生に一度も魂魄暴走を用いないというのが普通で、高位呪体化を使うのも百人に一人程度だと聞く。


 リンも経験がない。何せ魂魄暴走が発動したら身体の隅々まで実物と等しくなってしまい、その強靱な肉体を操るのは理性を失った魂だ。周囲の被害は計り知れない。


「あの秘宝がなかったら猫人間になることを強いられてたのね」


「大丈夫よん。まさかの時はあたしが止めてあげるから。ちょっとばかし身体のあちこちが灰になっちゃうかもしんないけどね」


 安心のしようがない。どうやらリンとメルでは『大丈夫』の定義が違うようだ。


「もっと優しくお願いしたいです」


「今晩も生ハムを食べたいなぁ?」


 リンは瞬時に快諾する。生ハム一皿で万が一の状況を覆せるのなら安いものだ。


「わざわざメルを手懐けなくても僕が何とかするけどね。当然、無償で」


 素晴らしい。さすがは勇者様だ。感動するリンを余所にメルは目を尖らせて、


「あんた。あたしの生ハム平和条約の締結を邪魔しないで――」


 全員が同時に振り返った。すぐ後で馬の嘶きと踏み止まるような音がしたのだ。


 発生源はつい1秒前に横を通り過ぎた白い馬だ。リンはほっとする。白馬の主は真っ白な衣服を纏っていた。いくら何でもこの格好で攻撃を仕掛けてくることはあるまい。教会所属の実力者が襲ってくるとしたら最低限の変装をしているはずだ。


 馬上にいるのは金色の長髪をツインテールにした女性だ。大人びた雰囲気を持ちつつも背丈や膨らみがメル未満なので年齢の判定が難しい。見た目では12前後と言ったところか。


 ノアも様子を窺うような視線を彼女に飛ばしているため、三人に関係のない出来事だと思われるが、誰も前進を再開しようとしない。彼女の目がリンの方に向いているからだ。


 まさかね、とリンは思う。頬にくっついている少女の顔が見えるのだろうか。


「リネット・マーシュ?」


 幼女を思わせるほどの舌足らずな声で女性が呟いた。


 リンの不都合な予感は外れたが、安堵する前にバラの茎のような刺々しい眼差しを仲間が当ててくる。知り合いを堂々と無視するなよ、と言った感じで。


「えっと。はい。リネット・マーシュです」


 リンは身分の証明として銀製短剣を見せた。すると女性が律儀にも馬から降りて、


「これはこれはご丁寧に。あっしはインテグラ・リヴァーモアという者でしてな」


 インテグラは軽い一礼をすると周囲の目も憚らずにスカートの裾を摘み上げ、


「お仲間だとご理解いただけましたかな?」


 不健康に感じるほど細い脚に赤水晶レッドシンボルの銀製短剣がくっついている。確かに仲間のようだ。純白というショーツの色も、サイドの紐で縛るタイプを穿いている点でもそう言える。


 横目で様子を窺ってみるとノアは見事に明後日の方向を見ていた。インテグラの方も真っ黒な少年に然したる関心はないらしく、パサっとスカートの裾を落下させて、


「噂に違わぬ美人ですな。特徴でしか知らぬ相手ですのに一目で確信しましたぞ?」


 やはり面識のない相手だった。リンはすぐに反撃の視線を二人に向けるが、いつの間にやら男女揃って上空の太陽を眺めている。小賢しい。仲が悪いようで中々の連携を見せやがる。


 だが今は啀み合っている場合でもない。とにかく用件を尋ねてみるとする。


「お急ぎのようでしたが、私に何かご用ですか?」


「いやはや助言と質問が一つずつと言ったところですかな」


 爵位持ちのおっさんと話している気分だ。普段からこんなに貴族っぽい口調なのかな、とリンは思いながら第一の疑問を口にする。


「助言とは?」


「ズバリ進路の話ですな。北上する予定でしたら次の分岐で右折することをお奨めしますぞ」


 リンはノアに目配せしてみる。ダメだ。未だに太陽と見つめ合っている。


「右折すると良いことがあるんですか?」


「いやいや。直進を続けるとイグノに着きますからな。あの村を経由しなければ次の次を右折しても構いませんぞ。あそこはごたごたしている最中でしてな」


「ごたごた?」


 唐突にノアが食い付いた。インテグラはあくまでリンを見据えて、


「実は2時間ほど前に大量の不死者アンデッドが発生しましてなぁ」


 にわか雨が降った、くらいの軽々しい言い方だったせいか、リンもノアも一瞬での咀嚼に失敗した。無反応な二人をほったらかしにしてインテグラは説明を続ける。


骨人形スケルトン死霊レイスなどが少なく見積もっても千はいたように見えましたぞ」


 耳を疑った。魔物が徒党を組んで集落に攻め入る事件は少なくないものの、聖戦後に千を超える魔物の大軍が現れたという話をリンは聞いたことがない。


 が、それ以上に耳を疑ったこともあった。


「千はいたように見えた、か。まるで現場にいたような言い方だね」


 ノアがリンの疑問を代弁してくれた。インテグラが初めてノアに目を向けて、


「実際にいましたからなぁ」


 あっけらかんと言ったインテグラにノアは不愉快さを隠そうともしない。睥睨するような眼差しを向け、若干の怒気を混ぜた声色で突っかかる。


「きみは赤呪術師のくせに。力を持ってるくせにイグノの村人を見捨てたのか」


「失敬ですなぁ。あっしは避難を手伝いましたぞ? 村人の犠牲者を出していないどころか、隣村までの護衛を買って出たというのに」


 インテグラはノアを同じ人間と見ていないかのような目で見返し、


「やれやれ。詳しい事情も知らない分際で一方的な批難を口にするとは底が知れますぞ? 恥というものを学んではいかがですかな?」


「詭弁だね。千以上の不死者を野放しにしたら近隣の集落にも被害が及ぶ。隣村までの移動なんか村長にでも任せればよかったのさ。キミがやるべきことは不死者の殲滅だったんだよ」


「せっかくのご高説ですが、的外れもここまで来ると笑えませんぞ? イグノは傭兵団の傘下ですからな。不死者の相手をするのはあっしでなく傭兵どもでしょうよ」


「そんなの言い訳だ。困ってる人に手を差し伸べるのが教会の務めじゃないのか」


「真っ黒な服装の輩に教会を語られたくないですなぁ。全く以て穢らわしい」


 インテグラが鼻で笑った。露骨なまでの挑発にノアが拳を固く握る。


「ちょっと落ち着いて」


 リンが制止してもノアはインテグラから視線を外そうとしないが、手に込めた力を弱めてくれた。これで取っ組み合いになることはない。と思う。


「不死者の対応はどうなってるんですか?」


 食えない人だ。インテグラは何事もなかったかのように応じてくれる。


「イグノの若者達が助力を求めて近隣の集落に馬を走らせているようですぞ。数が数だけに引き受けるお人好しは皆無でしょうけどなぁ」


「……イグノを拠点にしてた指定傭兵団はどうしたの?」


「あの腑抜けどもは地下墓地から骸骨が出てきたと知るや村人達よりも先に逃走を始めましたぞ。所詮は傭兵。信念なんぞ持ち合わせていないんですなぁ。十中八九、いえ、間違いなく近隣の傭兵団も協力しないでしょうよ。事実として避難先の傭兵団に交渉したところ、法外な前金を要求されましてな。近くの組合にも似たような反応をされたと聞きましたぞ」


 バカバカしい。村を占拠されているも同然の状況で多額の金銭を事前に用意するなど無理に決まっている。


 そして、絶対にそれを理解した上で言っているのだ。連中は。


 握った拳が怒りに震える。だが連中の対応を一概に否定するのも難しい。腕に自信のない者が命を落としかねない戦いに参加したくないと思うのもまた当然だからだ。


「傭兵団はお金がないなら力を貸せないの一点張り。組合の方も門前払い。恐らくアンクトの〈炎獅子フレイオン〉なら助力を惜しまないでしょうが、他団が構える集落に指定傭兵団が介入するのは法で禁じられていますからな。手を差し伸べるとしたら教会か連合か。或いは流浪の傭兵くらいでしょうよ。実際に現場で戦っているのも傭兵1人だけですしな」


「……たった1人で千以上の不死者と戦ってるの?」


「ええ。彼のお陰で犠牲者が出なかったとも言えますな。村人が避難しやすいように不死者の群れに突撃していましたぞ。笑えないことに大鷹の姿になってましたなぁ」


 待て。リンは背筋に冷たいものを感じた。呪体化は程度によって変身の割合が異なる。低位では変化が殆どなく、中位セカンドでは用いる魂の特徴となる部分が具現化され、高位になると外見の8割が人間でなくなってしまうのだが。


「なるほどね。手遅れじゃないのなら僕は助けに行くべきだと思うけど」


 ノアが賛同を求めるように見つめてくる。リンは迷わず頷いた。


「放ってはおけないわ。村人のために高位呪体化するようなお人好しはね」


「いやいや。放っておくべきだと思いますぞ? 青呪術師が二名いるとはいえ、片方は力不足で有名な聖女様ですからなぁ」


 ノアの眉がぴくんと跳ねた。リンは口喧嘩の再発を止めるべく、


「ご忠告に感謝します。でも見捨てられません」


 反論される前に話を終わらせるのが吉だ。よってリンはもう一つの問いを投げる。


「質問があると仰ってましたよね」


「正しくは確認ですけどな。聖女様はカロッカを訪れましたかな?」


「昨晩はそこで一泊しました」


「ジェノ・ハミルトン大司教がいると聞きましてな。お会いには?」


「会ったよ。今もいるかもしれないね」


 ノアが嘘の混じった即答をした。


「ほう。ではあっしはこれで。大司教に助力を求める予定でしてな」


 インテグラは恭しく一礼すると白馬に飛び乗って、


「くれぐれも無茶はしないようにお願いしますぞ?」


 手綱を握って颯爽と三人の元から去った。遠離っていく後ろ姿を眺めながら真っ先に口を開いたのはメルである。


「あんたが嘘を吐くなんて珍しいっすね。ブラコンはもうカロッカにいないっしょ」


「念のためさ。色々な意味で彼女がイグノに来るのは好ましくないからね」


 どうして? と問う前にノアが移動を始める。予想外なことに徒歩だ。リンも歩き始め、


「急がなくていいの?」


 当然すぎる質問にノアは困ったような顔をした。


「ちょっと思うことがあってね。どうして彼女は自分で傭兵を助けなかったのかな」


「無理だと思ったからじゃないかしら。私だって2人で千体と戦って勝てると思えないし。というかそんなことができるのは国内に10人もいないと思うわよ?」


「かもね。だけど彼女なら可能だと思うよ。フェイン出身の呪術師でもないし」


「知らない人じゃなかったの?」


「初対面だよ。だけど名前は聞いたことがある。魔王の古城を探る部隊を決める時にね。国内で最強と言われてた兄さんが、自分と比べても遜色ないって評価して先遣隊に編入しようとした人物がいるんだ。それが赤呪術師のインテグラ・リヴァーモアだったはず」


「道理でね。だからあんなに突っかかってたんだ」


 呟いたのはメルだ。小首を傾げるリンの頬をぷにぷにと人差し指で突きながら、


「あいつ。あたしの姿が見えてたっぽいんよ。何回も目があったし」


 嘘でしょ? と思うリンとは違い、ノアは随分と簡単に答えた。


「青呪術師が2名いるとはいえ。とか言ってたけど。もう一人は誰って話さ」


 リンはハッとした。言われてみればあの発言はおかしい。なぜならノアの銀製短剣は腰の右側にある。マントに隠れているので見た目で判断するのは不可能なのだ。


「なるほどね。インテグラはあんたを噂の勇者様だって気付いてない感じだったし、となると真っ黒な奴を青呪術師って判断する材料がなかったってことだもんね」


「逆にメルを認識してたと思えば納得がいく。リンにくっついてたから見えにくかったとは思うけど、メルの短剣は腰帯にあるから青水晶も目に付きやすいからね」


「そっすね。で? いつまでちんたら歩いてんの? イグノまでは随分とあるし、急がないとインテグラが戻ってくるわよん。とにかく走っといたら?」


「歩いてるのは彼女に僕らの魔力を気取られたくないからなんだけど」


「ふみ。呪体化を悩んでたんすか。あんたの場合は露骨だもんね」


「だけど敵の数が数だし。例の傭兵のためにもここは組合の反感を買ってでも飛ぶべきだね」


 ういうい、とメルが明るく返すが、


「……ノアも飛べるの?」


 私は鳥類じゃないというニュアンスを込めてリンは尋ねてみた。


「呪体化すれば飛べるよ。魔法を使うと組合が煩いから滅多に飛ばないけどね」


 この部隊は信じ難くも飛べない派の方が少数のようだ。昨今の青呪術師は基本的に飛べるのですよ? と言われている気分になる。と思っていたら実際にメルがそう囁きやがった。


浮動フロートを使えるのなら僕らで引っ張るよ。あれは風の抵抗を受けにくくなるからね」


「……魔術は苦手なのよね。浮動は占い人魚マーメイドテラーを中位以上で呪体化しないと無理かも」


「人魚? 珍しい魂を持ってるね。それで構わないからとにかく早く浮いて欲しい」


 ノアは至って真面目に言う。が、リンは非常に気が進まない。時間が惜しいのも分かってはいるものの、人前で人魚の呪体化をするのはかなりの勇気がいるのだ。


 リンは深呼吸に見せかけた深い溜息を吐く。ここは人命を優先するべきだ。強い羞恥で顔が真っ赤に染まるが、意を決してスカートの中に手を突っ込むとショーツの紐を摘み――、


「あっ。そっかそっか。人魚で中位呪体化をすると下半身が魚になるから変身前に脱がないと下着が破れちゃうわけかぁ。いやはや。公衆の面前で女の子にぱんつを脱がさせようとするなんてクロスケもとんだエロスケっすね。あんたってば絶対に分かってて催促したっしょ?」


 さも楽しげにメルが解説してくれた。今になって理解したらしいノアもリンと同様に頬を朱に染めていく。だがお陰でもう片方の紐を解く前にノアの配慮が入った。


「あー。僕がリンを背負って飛ぶのはダメかな? 若干スピードが落ちるけど」


「是非ともお願いしたいです……」


 リンがショーツの紐を元に戻すと、


「クロスケの汎用袋バックパックが邪魔になんない? 現地まであたしが背負ってあげよっか?」


 メルにしてはとても気の利く発言だ。ノアは頷いて汎用袋の紐を肩から外すが、


「やったね! ぱんつの件は残念だったけどこれで胸の感触を心ゆくまで楽しめるじゃん!」


 再び背負ってしまった。リンは思う。きっとノアもだ。言わなければ意識しないのに。


 もはやメルを悪魔と認識せざるを得なくなったが、ともあれ一同はノアを先頭に近くの雑木林に向かった。街道を行き交う人々を驚かせないためだ。


 リンの胸が期待で高鳴る。とうとう勇者様の保有する魂を知ることになる。


 雑木林を百歩ほど進んだ先で、ノアは何の合図もなく飛ぶ準備に入った。


部分呪体化クイックトランス――アルトメイア」


 嘘ではない。誇張でもない。


 リンは死ぬかと思った。恐怖で膝が笑ってしまっている。


 途轍もない威圧感だ。外見の変化は皆無なのに、ノアは息苦しいとさえ思う邪気のような魔力を放っている。こんなの規格外としか言いようがない。魔王を倒したというのも納得だ。


「あたしも初体験の時はビビったっすわ。部分呪体化なんて呪詛も儀式も必要としない不完全な呪術だってのに、そこらの大魔術師よか強い魔力を放ってるもんね。でもこんなんで腰を抜かしてたらノアとの旅はやってらんないわよん? 低位呪体化はもっと凄いんだし」


 まあ慣れよ慣れ、と苦笑しながらメルが屈み込むノアの背中を指差した。リンは勇気を振り絞ってそこに寄り添い、小柄な少年は軽々とリンを持ち上げる。


 ノアの背中は様々な意味で落ち着かない。汎用袋のせいで密着度が非常に乏しく、男性に身を任せた時に得られるはずの安心感を生ハム一切れほども感じないのだ。


 しかも体勢の悪さが死のスカイダイビングを連想させるため、ノアの威圧感と相まって本当に恐ろしい。


「では急ぐとしますかね」


 メルが徐々に上昇していき、ノアも追うように高度を上げていく。


 飛ぶのに慣れていないリンは激しい鼓動を抑えるのに努めるばかりだ。思わずノアの背中に身を寄せる。


 十を数え終わる前に木々の身長を軽く追い越し、燦然と輝く太陽を眩しく感じる間もなくリンの身体は風に乗った。どこまでも続く青空をまっすぐ突き進む。


 撤回したい。なぜ空を飛ぶ魔法に夢を抱いていたのだろうか。なぜ鳥と一緒に空を飛びたいだなんて幼少期に思っていたのだろうか。


 落下しませんように。気絶しかねない速度の中、その一点のみを必死に願うリンであった。

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