おかしな女

 見たくない。想像するのも嫌だった。例えその行為に世界の命運が掛かっているのだとしても、リンは敬愛すべき勇者様に女物の下着を洗って欲しくなどない。想像すると悲しい気分になるのだ。恐妻を娶った気の毒な夫でもあるまいし。


 リンが本心を包み隠さずに伝えると、ノアは遠慮した姿勢を見せつつも最終的には棺桶袋を渡してくれた。太っ腹にも一回の洗濯で秘薬の貸し借りは終わりとのこと。


 リンの予想に違わず預かった衣類はシングルの部屋でもすべて干せた。ノアがわざわざツインを選んだのは別の理由があると見て間違いない。


 だがリンは問い質さない。ノアの困った顔が目に浮かぶからである。


 第一に優先すべき事柄は他にあるのだ。旅の仲間にして貰うための交渉も、希有な秘薬の譲渡も、ノアの機嫌を損ねては上手くいかなくなるかもしれない。


 勝負は明日に持ち越しだ。想定外の出来事が立て続けに起きたせいか、ベッドに横たわると睡魔の群れが疲労感を突いてくる。リンの意識が闇に溶けるまで1分も掛からなかった。


 次に目を開けた時には既に朝日が昇っていた。寝覚めは悪くない。リンは身体を軽く伸ばすとカーテンの閉まった窓に近寄って、


「ノア?」


 真っ黒な後ろ姿が教会の方に向かっている。ジェノに呼び出されたのだろうか。


 少なからず旅立ったのではないはずだ。朝食を共にする約束があるし、洗った衣類も返していない。が、まさかということもある。


 リンは急いで室内に吊された洗濯物を集め、浴室の前に置いてあった大きめのかごに次々と投じていく。次に棺桶袋から一山幾らの秘薬を数点と乾燥石ドライストーンを出し、窓際に移って日光を利用した簡単な呪術をかごに施す。これで中の衣類は日干しに等しい結果を得られるはずだ。


 着替えるのは後回し。手にするのも汎用袋のみでいい。リンは静けさに満ちた廊下に出ると早足でノアの部屋に向かっていく。


 到着後、軽くドアを叩いても中から返事はこない。


 鍵は開いていた。行くか? との自問にリンは首肯で自答し、無遠慮に扉を開く。


『朝食までに戻るよ』


 室内の壁に書き置きが貼ってあった。これで一安心だと思ったのは数秒のことで、


「これは答え合わせのチャンスよね」


 しばし悩み、リンは躊躇いつつも汎用袋から曰く付きの古びた片眼鏡を出した。これの名称や出自は知らない。宿した力に関してだけは知っている。


 認識力を強化する秘宝だ。これを付けると普段は感じられないものを感じるようになる。と言っても、使ったことは一度もないので本当かどうかは知らない。


 旅先で赤呪術師から金貨1枚で購入したのだが、この手の特殊な力を宿した道具は連合や組合に持っていけば最低でも金貨10枚で買い取ってくれるとも聞くし、実際問題、リンも十中八九で嘘だと思っている。


 リンは片眼鏡を左目に付けると大きく深呼吸をした。早朝の宿屋に物騒な霊魂がいるはずないと思いながらも、一応は銀製短剣を握っておく。


「えっと。魔力を通わせればいいのよね」


 もう一度だけ深呼吸。両方の瞼を落とし、全身の魔力を片眼鏡に収束させる。


 五秒ほどが経つと左目に熱を感じた。これで効果が表れるはず。


 不安と期待で心臓が躍っている。リンはさらに深呼吸してから両目を開け、


「いた」


 室内を見回すまでもなかった。唖然としつつも窓際のベッドに近付いていく。


 そこに寝転ぶのは縞々模様の下着を身に付けた15ほどの少女である。柔らかな栗色の髪は肩甲骨まで伸び、一定の間隔で上下する膨らみの規模は幸いなことにリン未満だ。背丈の方もリンのやや下。アリスと良い勝負と言ったところで、あどけない寝顔はとても可愛らしいのに、右手で握った黒曜短剣オブシダンダガーが物騒すぎて台無しだった。柄の水晶は驚くべきことに青色だ。


 リンは魔術組合の所属を示す黒い短剣に目を向け、息が止まった。


 メルヴィナMelvinaブラックフォードBlackford。2年前に死亡したとされる青呪術師の名前だ。


 享年は13だったと思う。今の見た目が15くらいなので年齢の辻褄は合うが、


「幽霊も成長するのかしら? そもそもこの子は本当に死んでるの?」


 恐る恐る指で素肌を突いてみると体温はしっかりと感じられた。女の子特有の柔らかさもある。他者の認識から外れてしまう、という感じの特殊な呪いを被っているのだろうか。


 しかし驚いた。見えない少女がいたこともそうだが、母への土産にと思って買った玩具が本物の秘宝だったことにも驚いた。実は良い買い物をしていたらしい。


 ともあれ片眼鏡を外す。認識は一度で良い。少女は肉眼でもハッキリと見える。


 どうしたものか。ノアが使ったと思しきベッドに腰掛け、思案に暮れようとしたところで少女の両目がパチリと開いた。


「わっ! ……ビビったぁ。なんでリネット・マーシュがここにいんのよ」


 少女があたふたと上体を起こし、髪と同色の目を高速で瞬かせる。彼女がリンの分まで驚いてくれたのか、リンは自分でも不思議なほどに冷静だ。


「ていうかノアがいないし。ブラコン大司教から呼び出しでもくらったんかな」


 口の悪い少女はリンに認識されていると気付いていないようで、


「どうしよ。湯浴みしたいけど急にドアが開いたらリネットが驚くに決まってるしなぁ。でも寝汗をかいちゃったから女子的にはどうにかしたいんよねぇ」


 不機嫌そうに後頭部をくしゃくしゃと掻き、かと思ったら途端に笑みを浮かべた。リンに向かって小さく手を振って、


「やふー。あたしを助けると思って浴室のドアを無意味に開けてくんない? 乾いてるなら着替えも持ってきて欲しいな。お願いを聞いてくれたらあたしをメルって呼んでもいいよん」


「OK。私もリンでいいわよ」


 メルが凍結したように動かなくなった。徐々に顔から感情が抜け落ちていく。


「着替えはもうちょっと待ってね。日干しの呪術で仕上げてる最中だから」


 返事はない。メルはベッドから飛び降り、リンを見据えながら右往左往し始める。


「疑り深い性格ね。目の動きで確証を得たいのかしら?」


 リンは希望に添ってメルの下着姿を目で追ってあげた。十秒ほどでメルが動きを止めたが、彼女の表情はとても硬く、睨み付けるような厳しい視線を幾度とリンにぶつけてくる。


 人目に触れてはまずい事情があるのだろう。メルの挙動は落ち着きがなく、やがて睨みこそしなくなったものの、考え込むように片手で口を覆った。程なくして、


「まあいいや」


 ベッドにダイブした。顔はリンに向けている。口を開くのもメルが先だ。


「なんで見えちゃってんの?」


「簡単な話よ。見えないものが見えるようになる秘宝を持ってるの」


「へー。でもよく気付いたっていうか。どのタイミングでおかしいと思ったん?」


「思うだけなら最初からかな。森の中で声を掛けておきながら私の登場にノアが驚いた時ね」


 そこで何をしてるのさ、とノアが言った相手は恐らくメルだったのだ。彼女が茂みに隠れたリンを近くから観察していたのだと思われる。


「多くはジェノのお陰かな。アリスの呪いも良いヒントになったけれど」


「やっぱね。あの相変わらずおかしな女を連れ歩いてるとかって発言が一番の原因っしょ。あの後に女物の衣類を発見されたら連想しても仕方ないしさ」


「でも確信したのは生ハムの件よ?」


「あー、あれは完全にノアのミスだったわねん」


「やっぱりメルが食べ尽くしたの?」


「尽くしてない! 楽しみにしてた最後の一切れはクロスケが食べたじゃん!」


「怒らないの。メルだって残しておいた私の楽しみを九割も食べたじゃない」


「クロスケと一緒にしないでくんない? あたしはちゃんと声を掛けましたわー。生ハム食べてもいい? どうせ聞こえてないと思うけどってね!」


 メルは悪びれた様子もなく八重歯が特徴的な笑顔を見せた。リンとて言っただの聞いていないだのと水掛け論に興ずる気はない。問答すべき事柄は他に多々ある。


「念のために確認しておくわ。メルは死者じゃないのよね?」


 返事は迅速だ。メルは突然の話題転換に嫌な顔一つせず、はしたなくもベッドの上で胡座を掻くと黒曜短剣を枕元に放り投げる。


「モチ! あたしはメルヴィナ・ブラックフォード! 公式な記録では死んだことにされてるけど、ご覧の通りの元気と生気に溢れた、アリスの千倍は良い女!」


 国内で最年少の青呪術師は膨らみの弱い胸を力強く叩いた。昨夜の教会で勃発した女の戦いは今でも密かに続いているらしい。


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