宿屋

 そわそわしている自覚がある。意外も意外。奥手に見えてノアは超大胆だった。


「ツインでお願いします」


 アリスとの会話の内容は食事しながら教えるとノアに言われ、その前に寝床を確保した方が良いとリンは提案した。


 そして近場の宿屋に入ってみるとノアが受付にそう告げたのである。


 心臓が取っ払いたいほどに喧しい。


 ダブルじゃない、と何度も自分に言い聞かせたところでリンの体温は上がる一方だった。それもそのはず。帰途の最中にノアは宣言していた。


 借りだの貸しだのと言った話は街に着いたら終わらせる、と。


 想定外ではあったが、以前に聞いた娼婦の相場を鑑みると破格も良いところだ。未経験なので抵抗がないと言えば大嘘になるものの、一晩の付き合いで五種の秘薬が手に入るのなら悩むまでもない。拒絶した末に譲渡を撤回されても困るし、このチャンスを逃したせいで手遅れになったら目も当てられない。


 ここは逆に田舎娘の身体なんぞに王城五つ分以上の資産を出して貰えることに感謝し、本当に良いの? と問い掛ける場面だとリンは考える。


 ここは我慢だ。いや、我慢と言うのはノアに失礼すぎる。むしろ勇者様のお情けをいただけると思えば光栄と言えるし、しかし決して好ましくは――、


「湯浴みに行ってもいいかな?」


 いつの間にやら宿泊予定の部屋にいた。質素ながらも広々とした空間を多くの灯火石が照らしている。リンはついつい仲良く並ぶベッドを凝視してしまった。


「聞いてる? 湯浴みしたいんだけど」


「い、いいわよ。どうぞごゆっくり」


 極度の緊張のせいで声が裏返ってしまった。


「何かさっきから様子がおかしいね。どうしたのさ?」


「……別におかしくないわよ。余裕たっぷりの態度がどことなくむかつくけれど」


 むかつく? とノアは聞き返しつつも漆黒のマントを外して、


「まあいいや。とにかく待ち合わせ場所を決めようか」


「…………………………待ち合わせ場所?」


 疑問満載の言葉だ。リンは十秒ほど黙考してから尋ねてみる。


「待ち合わせって夕食の?」


「そうだよ?」


「……ここじゃないの?」


「僕としては迎えに来られるよりも行く方が好ましいかな」


 意味が分からない。そんなリンの困惑も知らずにノアはあっけらかんと、


「ちなみにリンはどこに泊まる予定?」


 ここの予定です。とは口が裂けても言えない。


 そっか。そうだったんだ、と勘違いを理解した途端に肩の力が抜け、同時に途轍もない疲労感が全身を襲ってくる。


 リンは思わず吐き出しそうになった溜息を強引に呑み込み、


「……今から受付に行こうかと」


「まだ部屋を決めてなかったの? リンも一緒に済ませば良かったのに」


 ノアの悪意のない言葉がリンの胸にグサグサと突き刺さった。痛い。痛すぎる。


 すぐにでもこの場から逃げ出したいところだが、どうしても尋ねておきたいことがある。


「ノアはいつもツインルームを?」


「そうだよ。大抵の場合でツインはシングルやダブルよりも広々としてるからね。溜まった洗濯物を干すのに適してるのさ」


 ぶん殴ってしまおうかと思うくらいふざけた理由だった。


 頭が痛い。リンはピクピクと動く右のこめかみを懸命に押える。


「それこそ受付で頼みなさいよ。大した額じゃないでしょーが!」


「な、なんで怒鳴るのさ。とにかく僕はよく知らない人に衣服を預けたくなくてね」


「……待ち合わせはここの目の前の食堂で」


 アホらしい。リンはぶっきらぼうに告げると踵を返した。


「一時間後くらいでいいかな?」


 リンは手の動作で肯定すると黙って部屋を後にする。歩みながら零れるのは愚痴ではなく溜息ばかりだ。自分勝手にいかがわしい想像を膨らませていたのが本当に恥ずかしい。


 受付に着けばふくよかな中年の女性がカウンターで新聞と睨めっこしている。


「シングルの部屋は余ってますか?」


「ん? あれ? あの真っ黒な彼氏と喧嘩でもしたのかい?」


「……普通はそう思うわよね」


 独り言と一緒に口から漏れたのは本日で最も大きな溜息だった。

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