かいぶつのうまれたひ ホワイトシーズン

 手を出すべからざる闘いがあるということを、攻牙はよく理解している。(今まで読み漁った無数の少年漫画から)

 人は皆、その生涯の中でただ一度、己のためだけの敵と出会うのだ。

 社会にとっての共通敵ではもちろんなく、他の誰かと協力して倒すべき敵でもなく、ただ自分だけが狙い、自分だけを狙ってくる敵。

 自分のためだけに、宿命が用意した敵。

 そういう奴はやっぱり居て、お互いに血色の糸で結ばれているものらしい。

 だから――攻牙は迷う。

 篤に手を貸すことは、果たして正解なのか?

 介入は、できる。やろうと思えば。

 驚異的身体能力と、ダンプカーに撥ねられても無傷でいるであろう防御能力、謎のエネルギーを用いた多彩な攻撃能力。バス停使いの驚異的なスペックは、確かに普通の人間が手出しできるものではないかのように見える。おまけに攻牙の戦闘能力は、体格の問題で常人以下だ。

 普通なら勝負にもならない。

 だが、攻牙は知っている。

 篤や射美から口先三寸で聞き出した情報と、自分の目で見た実感が、頭の中で理論を形作り、正解を導き出す。

 攻牙は、バス停を使わずしてバス停使いを倒す方法を知っている。

 そしてそのための罠は、屋上にも仕掛けられている。

 というか、屋上にこそ重点的に仕掛けられている。どうやらバス停使いたちは、自分たちの存在が公になるのを恐れているらしい。であるならば、普段人目につきにくい屋上が戦場となるであろうことは、簡単に予測ができた。それ以外にも、体育館の裏とかトイレの個室とか学校の裏山とか、とにかく人気のない場所はすでにトラップ地獄と化している。さすがに学校以外の場所にまでは手が回らなかった。その点については運がよかったと言えよう。

 だから、罠はいつでも発動できる。各所に設置した防犯用赤外線センサーのスイッチを入れれば、今この瞬間にでも対バス停使い用即死トラップの数々は牙を剥く。

 だが――それは果たしてやっても良いことなのか?

 攻牙は眼の前の闘いを見る。

 蒼い稲妻を体中に纏わりつかせる篤と、冥い紫の妖炎を立ち上らせるタグトゥマダーク。

 二人は対峙しながら、ゆっくりと間合いを詰めていた。

 ――なんかすごく宿命っぽいぞ! 絵面的に!

 この闘いに、立ち入ってもいいものなのか!? 少年漫画的ケレン味は、攻牙の行動原理の根幹を成すファクターであるからして、「認めた宿敵には自分以外の誰にも倒されてほしくない」という戦士のわがままに対しては物凄く理解がある。つもりだ。

 このまま手出しは控え、見届けるべきだと思う。

 だが、介入すべき理由も、ある。

 第一に、タグトゥマダークがいまだに無傷であるという点。スピードやテクニックという要素では、篤はまったくついていけてない。

 もちろん、篤がこのまま成すすべもなくやられるようなタマではないことはよく知っている。追い詰められてからが本番と言っても良い。常時死に身の精神力は、ここぞというところで爆発し、小賢しい理屈を吹き飛ばすことだろう。しかし――果たしてそれだけで、この圧倒的力量差を覆せるものなのか? 攻牙はそこが読みきれない。さすがにそれは、どんな頭脳の持ち主でも読みきれない。

 第二に、攻牙自身の問題。

 攻牙は、ちらりと横を見る。

 鋼原射美。悪の組織の尖兵。轢殺系吐血美(?)少女。

 地べたにへたり込んで、俯いている。

 ――あぁクソッ! こいつが凹んでるとこはじめて見たよ畜生!

 攻牙は苛立たしげに頭を掻く。

 まぁ、なんというか、タグトゥマダークとは気安い間柄だったのだろう。毎日の弁当もタグトゥマダークが作ってたらしいし、射美の中では兄貴的なポジションだったのではないかと思う。相手も自分を妹のように考えていると、そう思っていたとしても不思議はない。それが、たった一度敵をかばっただけで即座に見切られ、「死ね」の一言と共に仮借なき一撃を浴びせられれば、普通はショックを受ける。

 動転して、虚脱する。

 ――あぁもう! こういう雰囲気苦手なんだよなぁ!

 その時、脳内暗殺者が「自業自得だな」と吐き捨てた。「思慮に欠け、自分の行動に責任を持たない女だ」……その通りだ。

 正論だ。

 返す言葉もない。

 だが――それで実際どうするんだ?

 こいつがアホだってことはわかったよ。それで? ボクが聞きたいのはその後だ。 見捨てるのか? このまま放置しとくのか?

 そういう判断で、何か意味のある結末を手繰り寄せられるのか?

 攻牙は、思う。

 ――ヒーローは……こういう甘ったれを見捨てない……んだろうなぁ。

 具体的に何がしてやれると言うわけでもないけれど。

 でもまぁ、タグトゥマダークをふんじばって、もう一度、面と向かわせるくらいのことは、してやれるかもしれない。

 そうしたいと思っている、自分が居る。

「攻牙よ!」

 篤の、声。

 タグトゥマダークに険しい視線を注いだまま、こちらに声をかけてくる。

「なんだ!」

「手は、出さないでほしいぴょん」

「……」

 むぅ。

 やっぱりか。

「だが、口は出してほしいぴょん」

「……は?」

「この男の技を読んでほしいぴょん」

「つまりセコンド役か」

「ウイグル語で言えばそうなるぴょん」

「違うぞ!? 英語だぞ!?」

「それから鋼原よ!」

 隣で、射美がビクッと身を震わせた。

「え……」

「奴の言に飲まれるな。お前自身が判断しろ」

 そう言うと、『姫川病院前』をタグトゥマダークに向けた。

 剄烈なる眼差し。

「さぁ、ゆくぴょん。次の交差で、必ず貴様を打ち倒すぴょん」

「へえ、状況はわかってるのかニャン? 何か反撃のアイディアでも?」

 タグトゥマダークは妖眼をすがめ、頬を歪めていた。

「そんなものはない!」

 ないのかよ。

「だが、部下への対応ひとつで、貴様が恐るに足りぬ輩であることはわかったぴょん」

「……面白いことをホザく人だニャン。そんだけズタボロじゃなかったらかっこよかったかもニャン」

 異様に肥大化した牙が覗いた。

「別にかまわないニャン? そんなに自信があるんならかかってくるニャン?」

 構えを解き、傲然と胸をそらす。

「言われずともそうするぴょん。ただし、その時貴様は地面に倒れ伏しているぴょん」

 静かに壮言を呟くと、篤は『姫川病院前』を大きく後ろに振りかぶり、腰を落とした。

「――渾身せよ、我が全霊!」

 ゴォッ――と音をたてて、蒼く輝く〈BUS〉の雷光が荒れ狂った。篤を中心に大気が押し広げられ、悲鳴を上げながら逆巻いている。

 その、無闇にドラゴンボールじみた光景を前に、

「あれ?」

 ……攻牙は、妙なものを見た気がした。

 いや、具体的に何を見たとも言いがたいのだが……篤の闘気が広範囲に放射された瞬間、〝模様〟のようなものが空間に浮かび上がったのだ。

 丁度、鉄粉が磁場の形を浮かび上がらせるように、何かの〝形〟が微かに姿を現した。

 ほんのわずかな歪み。目の錯覚として斬り捨てられるレベルの、異変と言うほどのこともない違和感。

 しかし、攻牙は看過しなかった。逆転勝利の秘訣は、伏線を見逃さないことである。

 ……それは、ゆるやかな弧を描く曲線、のように見えた。曲線の周囲の光景は、微妙に歪んでいる。

 わずかに体を傾けて視点を移動させてみると、それに合わせて歪みの位置もずれてゆく。

 要するに、可視光線を歪ませるようなが空中に存在し、浮いているのだ。

 謎の曲線は、戦場の至るところで浮遊静止していた。その数は二十個を軽く超えている。

 ――はは~ん? こいつは……

 気配を察したのか、篤が視線だけをこっちに向け、

「ありのまま、今、起こったことをありのまま?」(意訳:何か気づいたのか?)

 別にいきなりフランス人の騎士道精神にあふれたスタンド使いと化したわけではない。

「座ったまま! なっ! 座ったままの姿勢で!!」(意訳:なんだか知らねえが変なものが浮いてやがるぜ!)

 半年ほど前、超高校生級武闘派不良集団『衛愚臓巣徒』との壮絶な暗闘を繰り広げた際、攻牙が考案した暗号言語である。

 独特の文法と千以上に渡る豊富な語彙を誇り、敵に悟られずに作戦会議をすることができる優れものであった。

 ……そうか?

「震えるぞ震え……? 震えるほど震え?」(意訳:浮いている……? どういうことだ?)

「落ち着くんだ……落ち着くを落ち着いて落ち着くんだ……」(意訳:闘ってる間に前触れもなく傷を負ったなんてことはなかったか?)

「ウミネコだよ、ありゃウミネコじゃねーぜ、ウミネコだ」(意訳:むむ、殺意なき斬撃を受けたことはある)

「メメメェ!」(意訳:SO☆RE☆DA!)

 その後、「飢えなきゃ飢えない。ただしあんな猫耳なんかよりずっとずっともっと飢える飢えなくては!」と手早く作戦会議を交わし、

「死ぬこたねー。さっきはそう死ぬこたねーだけだよ」(意訳:よしこれで行くぜ!)

「てめーはてめーをてめーらせた」(意訳:心得た。合図は頼む)

「こいつはくせえーッ!」(意訳:勝利を我が手に!)

「ゲロ以下のにおいがプンプンするぜーッ!」(意訳:勝利を我が手に!)

 何なのこいつら。


 ●


 はじめて彼の姿を見たときから、わかっていた。

 すぐに思い出せた。

 まさか、という思いと、やっぱり、という思いが胸の中で溶け合っていた。

 昇降口で、立ちすくむ。

 足が、震えていた。

 ――あぁ、わたしのせいなんだ。

 それが、今、はっきりとした。

 怖かった。


 ●


「おおおおおおおおおおおおぴょーん!」

 無理やりすぎる雄叫びを上げ、篤は突進する。

 タグトゥマダークは冷たい嗤笑を浮かべてそれを待ち受ける。

 構えるでもなく、悠然と。

 ――よーしそのまま進め!

 攻牙は、篤が語るところの「殺意なき斬撃」の正体について思考を巡らせていた。

 巡らせていたというか、まぁ、ほとんど自明なのだが。

 殺意がないということは、それは「攻撃」ではないということだ。すでにタグトゥマダークの意志を離れた「現象」なのだ。

 つまりどういうことか?

「篤!」

「応ぴょん!」

 攻牙の呼びかけに応じ、篤はバス停を振りかぶった。

 そこにタグトゥマダークはいない。間合いはいまだ遠い。

「発振する――」

 だが問題ない。

「――雷気なりッ!」

 渾身の力を込めて打ち込まれた『姫川病院前』は、何もないはずの空中で、何かと激突した。

 雷光が爆発的に迸る。

 すると、同時に――

「ニャニャ!?」

 ――屋上の至るところで、何の前触れもなく、青白い雷気を纏った熱風が吹き出した。

 まるで、空中に間欠泉でも出現したかのような勢いだった。

 その数、二十数条。

 それぞれデタラメな方向に、〈BUS〉の奔流を吐き出している。

 ――虚停流っつったっけ?

 奔流の直撃を受けて体勢を崩すタグトゥマダークに、攻牙は不敵な笑みを投げかける。

 ――裏目に出たな!

 つまるところ、開戦直後から篤を苦しめていた「殺意なき斬撃」とは。

 その正体とは。

 ――いわゆる設置技だぁ!

 空中に浮遊静止する、空間の裂け目。

 普段、自分やバス停を通過させるために開かれる次元の出入り口を、非常に狭く細くするにより、どんな刀剣よりも鋭利な刃を作り出していたのだ。

 不可視の刃が、空中で無数に存在しているという状況。

 その位置を知っているのはタグトゥマダークのみ。

 篤は、攻撃を受けていたわけではない。浮遊静止している次元の刃に、自ら突っ込んでいただけだったのだ。

 ただそこに浮いているだけのモノに、殺意などあるはずもない。

 そして、タグトゥマダークの動きが妙に曲線軌道というか、まっすぐこちらに向かってこなかった理由もこれで判然とする。

 ――自分が仕掛けた地雷に自分で突っ込むバカはいねえからな。

 以上を踏まえて、攻牙が考案した作戦はこうである。

 ――次元の出入り口に全力の一撃を叩き込め!

 その一撃に内在していた〈BUS〉流動は、衝撃波の形となって界面下に流し込まれるだろう。そして界面下の空間を伝って、この場に存在するすべての出入り口から勢い良く噴き出すだろう。

 タグトゥマダークが次元の門を狭く細くしていたのも、こうなっては裏目であった。

 流体力学の基本、「出口が狭いほど、流出の勢いは増す」。

 ホースの口を潰してブシャー! と同じ理屈である。

 ……まったく予想だにしない不意打ちを受けたタグトゥマダークは、衝撃波に煽られて倒れかかった。

 そこへ、蒼い稲妻を纏った飛影が突撃する。

 バス停を振りかぶり、鋭絶な眼光を閃かせながら。

「是威ッ!」

 雷蹄の一撃。

 爆裂する。

 炸裂する。

「ごギァッ!」

 床に敵を打ち付ける。

 叩き潰す。

 円形に拡がる打震。

「ぐ……ぎ……」

 胸板に重撃を受け、タグトゥマダークは口から血塊を吐き出した。

 直撃。

 初めての、ダメージ。

 それも、甚大な。

「てめえは次に『馬鹿ニャ、こんなことが……』と言う!」

「馬鹿ニャ、こんなことが…………ハッ!?」

 攻牙、地団太を伴うガッツポーズ。

 ――我ながら冴えまくりだぜ!

 作戦の成就には、件の暗号言語によるところも大きい。あの言語を解読できるのは、攻牙と篤と謦司郎の三人の他には、『衛愚臓巣徒』との戦いで渋々手を組んだ風紀委員長の歌守かもり朱希奈あきながいるのみである。

 そこまで考えて、攻牙はふと、違和感を覚える。

 ――あれ? 謦司郎……?

 こういう致命的なゴタゴタにおいて、喜々として首を突っ込んでくるであろう変態トリックスター。

 闇灯謦司郎。

 いつも、いるのかいないのかよくわからない奴だが……

 キョロキョロと周囲を見回すが、奴の姿はおろか、その出現を示す黒い風すらどこにも見当たらない。

 初めてここで、攻牙は事態の異常性に気づく。

 ――ボクは……いつから奴のシモネタを聞いていない……!?

 愕然とする。

 思い出せないのだ。

 今までも、二三日ほど謦司郎の無意味なイケメンボイスを聞かないということはあった。

 だが、それは何事もない平穏な期間だったからこそだ。悪の組織の襲来という超弩級の厄介ごとが発生しているにもかかわらず奴が姿を現さないなど、おおよそありえないはずである。

 何か、尋常ならざることが起きている。その予感。

 篤にこのことを伝えようと、意識を現実に戻す。


 その時、篤はすでに倒れていた。


 ●


 つまさき。

 鳩尾にめり込むものの正体は、それだった。

 篤は自らの体を見下ろし、血の混じった胃液をグラシャラボラス。

 不意に手足が言うことを聞かなくなり、尻餅をつくように崩れ落ちた。

 ……超反応クロスカウンター。

 タグトゥマダークは、突進してくる篤の鳩尾へ、神速の前蹴りを叩き込んでいた。

 バス停による斬撃ではないとはいえ、内力操作によって強化された脚力と、篤の踏み込みの勢いが合わされば、致命的な威力となる。

 ――天才的。

 篤の破城鎚じみた一撃もしっかり決まっているので、相打ちではあるが……

 ――天才的、戦闘感覚。

 パニックを起こし、痙攣するばかりの呼吸器系。酸素を取り込まない肺を早々に見限り、篤は敵へと視線を向けた。

 ただそれだけの動作にも、体中が軋みを上げた。

 タグトゥマダークもまた、言うことを聞かない手足を奮い立たせ、体を起こそうとしている。

「ぎ、ハ、はは……くき……キキケけケ……」

 喉を鳴らして、タグトゥマダークが呻く。

「苦手……なんだよニャア……キミみたいな……タイプ……くキッ」

 口の端から深紅の筋を垂らしながら、笑う。

 ホームビデオを見て笑っているようにも、恋人の惨殺死体を見て笑っているようにも見えた。

「常識的な反応、してくれニャいんだよニャア……」

 ゆっくりと、立ち上がる。

 生ける屍のごとく立ち上がる。

 黒紫の〈BUS〉波動が、周囲の空間を揺らめかせる。

「だから一撃もらっちゃったニャン……ふ、ひ……ひはっ」

 天を振り仰ぎ、断末魔の震えにも似た哄笑をあげた。聞いただけで気分の滅入るような、虚無的な笑いだった。

 攻撃を受けた胸板がブスブスと煙を上げ、スーツが裂けている。

 そして、首からは紐がぶら下がっていた。恐らく、お守りか何かを首から下げていたのだろう。しかし紐は途中から炭化しており、何が下げられていたのかはもうわからない。

「ひはは……もらっちゃった……もらっちゃったニャン……ははっ……は……」

 ひとしきり笑うと、篤を見る。

 何の感情も感じ取れない、石のような眼差しだった。

「……血ゲロ吐き散らして死ね、タンカス野郎」

 特に声を荒げることもなく。

 当然の決定事項であるかのように、そう呟いた。

「――ご、ガッ!?」

 喉が、塞がれた。

 馬蹄のように踏み下ろされたタグトゥマダークの踵が、篤の喉笛を踏みにじった。

「死ね。悶えて死ね。死に腐れ」

 英単語を暗唱する時のような抑揚のない口調。

 足が振り下ろされるたびに、篤の全身が痙攣する。

 豹変。

 危ういまでに激しい、感情の起伏。

 ――あぁ。

 篤は眼を見開く。

 ――似ているな。

 自分の中にも、このような激しい気性の渦がある。

 かつて、ゾンネルダークとの闘いで、その片鱗を表に出してしまったことがある。

 妹の霧華が大きな怪我を負い、その犯人がゾンネルダークだと知った時、篤は自分の中の獣を御しきれなくなったものだ。

 ――恥ずべきことだ。

 真に憎むべきは、そうした事態を許した、己の不甲斐なさだというのに。

 だからこそ。

 ――強く、なりたかった。

 この裡なる修羅を、永遠に飼い殺していられるほどに強く。

 タグトゥマダークを見る。

 ひときわ高く足を振り上げ、全体重を乗せて踏み下ろそうとしていた。

 ――この男もまた、裡なる修羅を持て余しているのか……

 このとき懐いた想いは、あるいは共感であったかもしれない。

 篤の喉が踏み砕かれる、その瞬間。

「――夢月ちゃんは」

 涼しげな声。

 しかし、同時に痛ましげな声。

 こつ、こつ、と快い足音が、やけに殷々と響いてきた。

 桜の香りが肌を撫でていった。

「元気、なのかな……?」

 そう言って、ふわりと微笑む。

 目尻に悲しみを織り込ませながら。

「ッ!?」

 タグトゥマダークの反応は、劇的だった。

 一足で五メートルは飛び退り、闖入者を見やった。

 霧沙希藍浬。

 春の世界を纏う少女。

 一瞬だけ、彼女は傷だらけで横たわる篤を見やる。

 何かに耐えるように目を伏せ、唇の動きで「ごめんなさい」と呟いた。

「なんで……その名を知ってるニャン……」

 警戒に満ちた眼差しで、タグトゥマダークは藍浬を睨む。

 彼女は胸に手を当て、哀切に満ちた微笑を浮かべた。そこに仕舞われる記憶を、いとおしむように。

「忘れないわ。大事なお友達だもの」

「何を……!」

 藍浬は微かに首をかしげた。眉尻が、困ったように下げられている。

「覚えてない、かな? あのころはちっちゃかったし、髪の色も違ったもんね」

 何秒かの凝視ののち、タグトゥマダークの顔に理解の色が広がってゆく。息を呑む。

「……まさか……いや、そんな馬鹿ニャ……」

 明らかに、何かを思い出していた。

 藍浬は顔をほんのり寂しげに綻ばせる。

「ひさしぶり。辰お兄ちゃん」

「う、うぅ……」

 ――知己の仲であったか。

 数奇な偶然である。いや、果たして本当に偶然であったか。

「どうして……こんな、どうして……」

 一歩二歩と後退り、余裕のない顔で藍浬を見やる。

 旧知と再会しただけにしては、いささか動揺しすぎである。

「キミは……そんな……キミがなのなら……僕は……」

「長いこと見ないうちに、ずいぶんカッコよくなったね」

 藍浬はタグトゥマダークを追うように悠然と歩み出した。

「ふふ、あんなに泣き虫さんだったのに」

「……昔のことは、言わないでほしいニャン……」

 悄然とうなだれるタグトゥマダーク。

「そう? じゃあ今のこと。夢月ちゃんはどうしてるの?」

「その……元気だニャン。一緒に住んでるニャン」

 藍浬は眼をを輝かせた。

「会いたいなぁ、

 何気ないその一言が、タグトゥマダークの顔から一切の表情を奪った。

 気温が、低下する。

「断る」

 一言で、藍浬の願いを斬り捨てる。

 顔を伏せ、垂れ下がった前髪の間から、藍浬を睨みつける。

 それは、藍浬個人というよりも、もっと大きな、漠然とした何かを睨んでいるように見えた。

 踏みにじられてなお反骨を失わぬ奴隷の眼だった。

「……どうして……?」

「黙れ」

 流れる水のように踏み込んだタグトゥマダークは、右手を毒蛇じみた動きで伸ばし、藍浬の頤を掴んだ。

「――っ!」

「誰にも夢月ちゃんは会わせないニャン。誰一人、夢月ちゃんと言葉を交わす資格はないニャン」

 猫の妖眼を威圧的に見開き、噛み付くように言った。

「それでももし、夢月ちゃんに近づこうなんて下らないことを考えるマヌケがいるのならば、僕は……」

 左手を抜き手の形に構え、その切っ先を藍浬の喉笛に向けた。

 弓を引き絞るように、捻りを加えながら左腕を後ろに引いた。

「僕は……ッ!」


 身を起こす。

 跳ね起きる。

 一気に間合いへ踏み込む。

 そうして、篤は。


「貴様――」

 掴んだ腕を捩じりながら、篤は低く言った。

「ぐっ!」

「どこまでも尊敬を拒む輩だぴょん……!」

 同時にタグトゥマダークの足を払い、大きく一回転させたのち、床に叩き付けた。

「かはッ!」

 肺から空気を押し出され、うめくタグトゥマダーク。

 しかし、すぐにその口は笑みに歪む。

「ぐくく……ほんの冗談だニャ、彼女は《絶楔計画》の要となる人だニャン? こんなところで殺したりするワケないニャン」

 ――瞬間、殺意の匂いが、篤の頭上から流れてきた。

 即座に飛び退ると、直前まで篤がいた場所へ、『こぶた幼稚園前』の切っ先が刺さった。コンクリートの破片など飛び散らない。鋭利極まりない一撃である。タグトゥマダークは逆立ちするように両脚を振り上げて界面下に突っ込み、バス停を振り下ろしたのだ。

「よっと」

 全身のバネを撓らせ、一瞬にして跳ね起きる。同時にバス停を両脚で放り投げ、回転しながら落下してきたところを片手でキャッチ。

 曲芸じみた体捌きだが、まったく無理が感じられない。

 篤は、己の胸の中に生じた粘い炎を、言葉にした。

「虚言だぴょん。今の動きには確かな殺意が宿っていたぴょん」

「ははん、仮に本気だったとしても、どーせこの町は近々消滅するんだから、ここでひとり余計に死んだって別にどうってことはないニャン」

 あまりにこともなげな、終末の宣言。

「なん……だ、と……?」

 呻く。

「それは……どういう意味だぴょん」

「どうもこうも……ねえ? 《絶楔計画》は、その第五段階において朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相を根本から書き換えるニャン。その影響は……ははっ! こんな山間にこびりついたカビにも等しい人里なんて一瞬で蒸発しちゃうニャン」

 ぎり……と、篤は自分の歯が軋む音を聞いた。

「答えろ……《絶楔計画》とは何だ……何を目的にしているぴょん!」

「……ある装置システム、その完成への布石だニャン」

「装置……?」

 タグトゥマダークは肩をすくめると、自嘲するように鼻を鳴らした。

「ちょっとしゃべりすぎたニャン」

 亀裂のような笑みを浮かべる。

「続きを聞きたいなら、力ずくで来るニャン」

「……よかろうぴょん。貴様らはどうあっても看過しておけぬ存在だということがよくわかったぴょん」

 鮮烈な怒りを込めた視線と、禍々しく屈折した憎悪。

 二人の中間でぶつかり合い、反発と炸裂を繰り返した。

 ――大義を、得た。

 激突を前にして、篤の心は複雑な思いに満たされていた。

 ――俺は、この男を、討っても良い。

 なぜなら、彼はここ朱鷺沢町を滅ぼさんと画策する巨悪の尖兵であるからだ。

 ――「俺のエゴを侵す存在だから」ではなく、「悪であるから」、それゆえに討っても良い。

 そういう大義を得たことに晴れやかさを感じてしまう自分が、あまりに情けなかった。

 ――ここでこの男を討ち取っても、俺は傷つかない。

 歯を食いしばって、晴れやかさの陰に潜む、自らの醜悪さに耐えた。

 ――何一つ、失わない! 自らの矛盾に直面しない!

 タグトゥマダークの存在自体が許容できないという、生理的で身勝手な動機から、目をそらすことができる。

 ――卑小……あまりにも卑小……!

 だが、それでも。

 ――それでも!

「討たねばならぬ! この一命に代えてでも……!」

 篤の眼光が、均衡を押し流した。

「っ!」

「貴様の歪みし認識、ここで断つ!」

 大気が、弾けとんだ。

 脚が地面を蹴り込んだ。閃光のごとき〈BUS〉が吹き上がり、篤の体を一瞬で急加速させる。

 床が砕けはしない。その分のエネルギーはすべて推進力に転化されている。ただ数分の血闘の中で、篤はより巧みな〈BUS〉の運用をマスターしつつあった。

 咆哮。

 一条の雷撃と化し、一人の修羅が突貫する。


 ●


 タグトゥマダークは、篤のあまりの愚かしさに憎悪を抱いていた。

 ――真っ向勝負だと? 愚鈍がァ……

 鼻面を中心に広がる憎悪の皺が、タグトゥマダークの麗貌を鬼神のごとく変容させる。

 ――まだわからないのか、クズが。雑魚は雑魚らしく奇策で来いよ間抜け。

 墓から手を伸ばす亡者のような手つきで、界面下のバス停を掴んだ。

 全身に、憎悪が滾る。

 憎悪を呼吸し、憎悪を代謝する。

 憎悪で、思考する。

 眼が眩むほどの甘い甘い憎悪を感じ、タグトゥマダークは一転、頬をだらしなく緩ませた。

 ――あぁ、夢のようだ。

 ――これからこのクズ野郎を八つ裂きにできるなんてな。

 腕に異様な力が込もる。カッターナイフの傷跡が無数に残る腕が、その筋肉が、芋虫のように蠕動する。

 ――放つか、禁殺。

 蠕動に呼応して、腕に宿る〈BUS〉が特殊な間隔で律動しはじめる。

 一生に一度、どうしても存在を許せぬ相手にしか用いてはならない。師からそう厳命されていた、絶招。

 それは、虚停流の中では特に難度の高い技法ではない。

 それは、戦術的な意味では特に強力な奥義ではない。

 にも関わらず、禁忌。

 ……その技は、痛みを与える。

 特殊な波形の〈BUS〉流動がバス停の刃に漲り、相手の肉体をわずかでも斬り裂くことで発動する。

 刃から敵の肉体へと流し込まれた〈BUS〉波動は、全身の末端神経に存在する侵害受容器において電気シグナルのように振る舞い、過剰な――あまりにも過剰な痛みを誘発させる。

 薄皮一枚裂けるだけで、臓腑を喰いちぎられるような苦痛が襲いかかる。

 ただ掠っただけで、歴戦の強者が泣き叫ぶ斬撃。

「虚停流禁殺――」

 迫りくる雷撃の塊を前に、タグトゥマダークはもはや莞爾とした笑みを浮かべていた。

「――〈惨聖頌〉」

 あぁ、凄なるかな。

 この苦痛に祝福を。

 諏訪原篤の無意味な矜持は、いま最も醜悪な形で砕け散る。

 ――この僕の手で……ェ……!

 停が、鞘走る。

 どす黒い斬閃が、世界に消えようのない汚点を刻む。

 横ばいの弧月。

 肉体のすべての可動部分が一挙に駆動し、単一のベクトルに加速する。

 それは、あまりにも醜く、それゆえに美しい。

 完璧な軌跡。

 空間を穢し尽くし、そこに地獄を顕現せしめる。

 タグトゥマダークが初めて繰り出した、本気の斬撃。

 彼は敵の技量を正確に見抜いていた。この一閃は、かわせない。絶対に。

 ――泣いて死ね、叫んで死ね、悶えて死ね漏らして死ね垂れ流して死ね。

 死に、腐れ。


 裂。


 振り、

 抜く。


 ●


 ――いや、さて。

 闇灯謦司郎は、分析する。

 彼の敗因は、何だったのだろうか――と。

 ……いやいや、考えるまでもない。

 一目瞭然だ。

 片方は、何の迷いもなく相手を殺そうとしていた。

 片方は、自分の卑小さに苦しみ、それでも相手を討たねばならない状況に迷っていた。

 ――要するに、ただそれだけの違いだったんだろうね。

 動機の、差。

 迷いの、差。

 ――勝てるわけ、ないよねえ……そりゃ。

 つまりはそういうことだったのだ、と。

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