かいぶつのうまれたひ ジ・オリジン
「むぎゅ!」
「あうぅ?」
特に速い動きだったわけではない。
特に強い力だったわけではない。
だけど、攻牙と射美は、その腕を振り払うことができなかった。
ひんやりとした感触が、二人を柔らかく包み込んでいる。
「き、霧沙希センパイ……」
射美が狼狽した声を上げる。二の腕と鎖骨に挟まれて、借りてきた猫のように縮こまっている。
「むぎゅっ! むぎゅっ!」
攻牙に至っては神話的弾力の側面に顔を押し付けられて呼吸困難に陥っていた。
「あのね、二人とも。聞いて?」
藍浬はゆっくり寝物語を語るように、言葉を紡いだ。
「二人は、諏訪原くんのことは好き?」
攻牙がもがくのをやめた。
射美はバツが悪そうに眉尻を下げる。
「そ、それは……」
「むぎゅう……」
「わたしは、好き」
大切にしまっていた宝物を取り出すように、藍浬は言った。
穏やかに、口元が綻ぶ。
「だから、これはお願い。ケンカはやめて、諏訪原くんを助けるのに手を貸して、くれない?」
「ううぅ……」
射美は口をにゃむにゃむと波線の形にし、悩んでいるようだった。
「タグっちを裏切るわけには……」
「ふふ、鋼原さん、そうじゃないわ。誰も怪我をしないような落としどころを決めましょうってこと」
藍浬は破顔して、射美に頬擦りをした。
「うにぃ~」
眼を細めながら、射美は潤んだ瞳で藍浬を見た。
「……なまえ」
「うん?」
「なまえ、射美は射美って呼んでほしいでごわす」
「いいわ……射美ちゃん。手を貸してくれる?」
「んにゅふぅ~、よろこんで♪」
「むぎゅう!」
そんな簡単でいいのかよ、と攻牙は思った。
●
わかったことがある。
第一に、タグトゥマダークはやはりバス停を使って攻撃してきているということ。どういう仕組みなのかはわからないが、普段は素手だというのに、攻撃の瞬間だけバス停の刃が出現するのだ。
第二に、タグトゥマダークの攻撃には、殺意があるものとないものの二種類あるということ。
殺意があるほうの斬撃は、スピード、精度ともに凄まじく、敵の圧倒的実力を感じさせるものだった。殺意があるおかげで先読みの防御がどうにか間に合うのだが、連続で来られると恐らく防ぎきれまい。
殺意がないほうの斬撃は、一変して質が落ちる。急所を狙ってくるわけでも、神速を誇るわけでもないお粗末なものである。しかし、殺意がないというのはただそれだけで脅威だ。ほとんど何のリアクションもできずに食らってしまう。
――遊ばれているな。
そう思う。
恐らく、息もつかせぬ連撃で畳み掛けられると、篤は瞬時に細切れになっていることだろう。タグトゥマダークは、一撃入れるごとに間合いを取り、こちらが体勢を立て直すのを待ってから次の行動に移っているのだ。
「第二次わくわく☆尋問タイム、はっじまっるニャーン!」
またなんか言い出した。
「問い10:キミと僕は似てる感じがするニャン。けどそれは何故だと思うニャン?」
迸る殺意。反応して、篤は得物を横に構える。
瞬速の踏み込みと、彗星のごとき一撃が、滅紫の軌跡を描いた。
「応えて曰く:死。絶対なる終わり。それを見ざるを得ぬ者。最大の共通項はそれだぴょん」
激突。散華。輝く粒子が舞い散る。篤は足を踏みしめて耐える。
タグトゥマダークは追撃をかけようとせず、飛び退った。
「問い11:キミと僕は違う感じがするニャン。けどそれは何故だと思うニャン?」
矢のごとき殺意。反応して、篤は体を半身にする。
一息に、三回。三条の刺突が閃光の形を取って篤の姿を貫いた。
「応えて曰く:死に対する姿勢の違い。生を苦とし、死に向かう者。生を美とし、死を利用する者。その差異だぴょん」
貫かれた篤の姿は残像。本物は一歩ずれた脇でバス停を振りかぶる。
その瞬間、前触れなくこめかみが血を吹き出した。篤は弾かれたようにのけぞる。鋭利な傷跡が残った。殺意なき斬撃だ。
「問い12:似ていながら違う人を目の当たりにすると、なぜこうも殺意が沸いてくるんだニャン?」
滲み出る殺意。篤は――防御も回避も期さず、ただ無造作に踏み込む。
旋回とステップを駆使した、円舞のごとき横薙ぎが来た。冥い紫の平面が、視界を二分した。
「応えて曰く:己の悪意ある模倣を見ている気分になるのだぴょん……ッ!」
最初の二撃を肩から背中にかけて受け、斬り裂かれるのにも構わず猛然と突進。
何の脈絡もなく脇腹と太腿から血が噴出するが、無視。
「問うて曰く!」
下手に避けようとせず、逆に前進したのが功を奏した。斬閃の内側にもぐりこむ。踏み込んだ足を軸に旋回し、旋回し、旋回。『姫川病院前』に遠心力を乗せる。強烈な横G。両腕が引っこ抜かれるような感覚。
そして――慣性を解放。
下からすくい上げるように、総身の力をひとつにして、『姫川病院前』をブチかました。
「貴様はなぜ死を希求するぴょん!」
「ッ!?」
着弾。
吹き荒れる〈BUS〉の狂風。爆音が世界を軋ませる。
芯を捉えた打撃の反動が、篤の全身を駆け抜けてゆく。
空が、広がる。タグトゥマダークの体は天高く浮き上がった。
きっちりとバス停で防御しているようだが、体全体にかかる衝撃はどうしようもない。望まぬ滞空を強いられているようだ。
その間、篤はバス停を振り抜いた姿勢から、流れるようにコンクリート塊を後方に向けた。そしてギターを持つように支柱を両手で握り締め、空中の宿敵を睨み付ける。
「応えよ! タグトゥマダーク!」
瞬間、地面に向けられたコンクリート塊が爆裂。〈BUS〉をガスバーナーのように噴射し、篤の体を上空へ射出した。押し広げられた大気が白い輪を形作り、噴進する篤の軌跡を強調する。
空中のタグトゥマダークへと。
一直線に突貫する。
腹の底から、必殺の気合が迸り出る。
ここから放つ重撃は、回避不能の空中において、確実に敵手を粉砕することだろう。
腕に力を込め、接触の機を待つ。
瞬間、タグトゥマダークの体が空中でくねり――消えた。
「っ!?」
「――吠えれば」
かすかな声。
背後から、声。
「勝てるとでも?」
三日月が、嘲笑いながら走り抜けた。
優美な軌跡の踵落としが、篤の脳天を捉え、叩き落した。
「ごッ、が……!」
頭の中で超新星爆発。
受身も取れず、屋上に叩きつけられる。一瞬遅れて、業火に焼かれるような痛みが全身を舐め始める。
篤は意識が暗くなってゆくのを自覚した。
が――篤は目を見開いた。
白く、長く、ふわふわしたものが、視界に垂れさがってきていた。
――おぉ。
それは、美なるもの。
――おぉ……!
侵されざるもの。侵されてはならぬもの。
「お、お、おぉ、ぉぉぉ、おおおおおおおおおぉ……!」
叩き潰され、薄汚れ、赤く染まり、力なく。
もはや、ぴんと伸びることもなく。
本来ならば汚れもなく純白であったはずのそれは。
ウサ耳は。
篤の、誉れは。
●
屋上に足を踏み入れたその瞬間に、攻牙は状況を看破した。
血まみれの篤。なぜか膝立ちで天を見上げている。その頭から生えるウサ耳は、片方が折れて顔面に垂れ下がっていた。白毛の中から、おびただしい内出血の様子が透けて見えた。
タグトゥマダークは笑っている。嘲っている。
要するに、頭に何らかの攻撃を受けて大切なウサ耳が折れちゃった、の図らしい。
「左耳……左耳よ……! あぁ――なぜ! なぜお前がかくも無残な仕打ちを受けなければならないぴょん! こんな俺ごときに気高く美しい輪郭を授けてくれたお前が、なぜ……! この世には、神も仏もないのかぴょん……!」
血涙でも流さんばかりの無念を滲ませ、篤は唸った。
――ホントになんなのコイツ!
攻牙は頭を抱えた。
「おぉ、
――ウサ耳に名前をつけだした!?
どこまでも理解を拒む男、諏訪原篤。
「はっは! 折れちゃったニャン! 潰れて血を流して折れちゃったニャン! もうどうしようもないニャン! ウサ耳人間としてのキミは今死んだニャン!」
タグトゥマダークは嗜虐に満ちた笑顔で篤を睨み付けている。
「まだ僕の踵には感触が残っているニャン! 命中の瞬間、耳左衛門くんが苦しみ悶え肉が潰れ血を吐き散らし絶望のうちに息絶えるその感触が! 踏みにじり、穢し尽くした感触が! 僕の頭の
お前もか!
センスの欠片も感じられない命名である。
「まだだ――」
篤が、低く呟く。
立ち上がる。
「まだ俺には、
「笑止だニャン! 僕には耳音ちゃんと耳美ちゃんがいるニャン! 相方を喪った手負いごときに勝てる道理はないニャン!」
タグトゥマダークは、姿勢を極限まで屈め、猫科の捕食者じみた構えを取る。
その手にバス停はない。
――無音即時召喚ってやつか。
普段は界面下にバス停を隠し、攻撃の瞬間だけ実体化させるのだ。
「その綺麗なウサ耳を、造作もなく刈り取ってやるニャン!」
そして――消えた。
超スピードで掻き消える……という感じではなく、本当にその場で消え失せたのだ。
攻牙は直感する。
――ははぁ、なるほどね。
「篤! 後ろだ!」
そうして、初めて攻牙は声を上げた。
「むう!?」
篤はその言葉通り、旋回しつつ振り向きざまに『姫川病院前』を叩き込んだ。
閃光の炸裂。そして轟音。
「ニャにッ!?」
タグトゥマダークの狼狽した声。篤の打撃を、自らのバス停で防御している。
彼の下半身は、何もない空間にぱっくりと開いた次元の裂け目の中にあり、見ることができない。上半身だけがニョキッと生えている状態だ。
――見た瞬間わかったぜ。
自ら界面下に潜り込み、死角から襲い掛かる。
――それが虚停流ってわけだ。
わかってしまえばなんてことはない。奴が界面下に潜航している間、こちらからは見えもせず攻撃もできないが、それは奴とて同じこと。対処法さえわかっていれば決して慌てるような代物じゃない。
「篤! 奴が唐突に消えた時は十中八九背後から襲い掛かってくる! 気をつけとけ!」
「むう、そうであったか……ぴょん」
「無理に語尾つけんな!」
どんだけ気に入ってるんだよ。
「ふぅん、ずいぶん鋭い観察眼を持ってるじゃニャいか」
タグトゥマダークは音もなく地面に降り立ち、冷徹な視線を攻牙に向けてきた。縦に裂けた猫の妖眼が、冷たい殺意を宿す。
「邪魔だニャ、キミ」
一瞬身を屈め、跳躍。一瞬で十五メートル以上の高みに至ったタグトゥマダークは、右腕を界面下に突っ込んでいた。上空からの急襲をかけるつもりか。
攻牙は緊張に身を強張らせた。
と同時に、違和感を覚える。
――なんだ?
なぜ奴は跳躍している?
普通に駆け寄って斬り捨てればいいだけの話ではないか。飛び込み攻撃が強いのは格闘ゲームの中だけの話だ。途中で止まることのできないジャンプアタックは、現実では死に技である。動きが読まれまくるから。
にもかかわらず、なぜ?
――まるで、そこに障害物でもあるかのように。
「虚停流初殺――」
空中で身をよじり、刃を抜き降ろしてくる。
攻牙は飛び退る――が。
雷光より眩く鋭い、垂直の軌跡。
「くあ……!」
頬から腹にかけて、赤い線が刻まれる。痛みではなく熱を発する。
間に合わなかった。だが浅い。致命傷には程遠い。
見ると、タグトゥマダークはバス停を振り下ろした勢いのまま界面下にしまい込み、その姿勢のままさらに踏み込んできていた。
「――〈燕天地〉」
吹き上がる、斬光。
初撃から第二撃までの間に当然あるべきタイムラグは、すべてキャンセルされていた。体感的には、ほとんど同時に振り下ろしと振り上げが来たように感じられる。
回避不可。
防御不可。
――おい! こんな序盤で負傷イベントかよ!
などとメタ思考で現実逃避してみるも、いやいやこれは負傷どころか確実に死ぬ感じの攻撃ですぞと脳内執事(元傭兵)が上申してくるのを聞き流しつつこれちょっとマジやばくねえかよオイこれどうすんだよオイ!
攻牙はこういう時、脳内に第二第三の自分を作り、一瞬でそいつらと相談するという癖があった。
――脳内有象無象ども! てめーらの意見を聞こう!
即座に脳のあちこちから意見が上げられた。「受け入れろ。ここはそういう世界だ」と大脳辺縁系在住の脳内暗殺者が吐き捨て、「死とは一種の相転移に過ぎない。恐れるなかれ」などと海馬在住の脳内武術家が嘯き、「君の死は作戦の範疇だ」と脳幹における本能のうねりを監視していた脳内陸軍士官は冷徹に丸眼鏡をクイッとやり、「お前の死を乗り越え、俺は必ず世界を救う!」と脳下垂体に巣食う脳内魔王と対峙していた脳内勇者は涙の決意を固め、「あの、あれだから、いわゆるその、あれ、なんていうかなぁ、バッドエンド? デッドエンド? とにかくそういう感じでな、もうあれだな、せっかく女の子が二人もいるのにフラグの一つも立てないからこんなことになるんだぞバカだなぁアッハッハ」と視床下部の狭間で寝そべっていた脳内親父が爽やかに笑った。なんでここにいるんだ穀潰し。
鋼鉄のひしりあげる悲鳴が、攻牙の益体もない思考を中断させた。
「……!?」
「くうっ!」
同時に、前から何かがぶつかってきた。
「わぶっ」
誰かの背中だ。
「攻ちゃん! 怪我は!?」
――え。
背中ごしに聞いてくるその甘ったるい声は。
「……お前」
鋼原射美!
バス停『夢塵原公園』を構え、タグトゥマダークの斬り上げを受け止めている。
なんか身を挺して庇われてしまったようだった。
――くそっ! ちょっとカッコいいじゃねえか!
射美のくせに! ちょっとこれ弱すぎだろ(笑)などと第二部で嘲笑されたであろう鋼原射美のくせに!
「不愉快な空気を感じるでごわすー!」
「気のせいだ! それよりお前いいのかよ! 明らかに裏切り行為だぞ!?」
「うっ、それは……」
「何も考えてなかったのかーッ!」
――瞬間、気温が急激に下がった。
攻牙と射美は、はっと前を見る。
タグトゥマダークがバス停を界面下にしまい、軽く首を傾げて射美を見下していた。
「えっと……何なのかニャ? 射美ちゃん。ちょっと僕混乱してるんだニャン。君のその行為がどういうつもりなのか、よくわからないんだニャン」
「た、タグっち……」
「あ、うん、わかってるニャ。射美ちゃんのことだからきっと何か事情があるんだニャン。悩みがあるならお兄さんに言ってみるニャン?」
頬が引き攣れ、笑みを刻む。しかし、眼は笑っていない。
「あ、あのぅ……」
「うん」
「実は……」
「うんうん」
「す、諏訪原センパイと攻ちゃん、殺さないような方向で済ませられないかなぁ~、なんて……思ったり?」
「え?」
「だ、だから、誰も殺さなくても、いいんじゃないかなぁ、って思ったんでごわす」
「え???」
「うぅ~! 殺すのやめてくださいって頼んでるんでごわすぅ!」
「え?????????」
「ううううううぅぅぅぅぅぅぅ~!」
「死ね」
界面下より抜停し、おもむろに斬撃。
微塵の躊躇いもなく。
恐らくは、射美がどう応えようが仕掛けるつもりだったのだろう。それほどまでに太刀筋は冷たく、耽美なまでに残虐だった。
射美は、眼を見開き、凍り付いていた。
が――
「ぴょんッ!」
横合いから、凄まじい力で突き飛ばされる。「わっ!」「きゃんっ!」攻牙と射美は宙を舞い、倒れ伏した。
見れば、今度は篤が『姫川病院前』で処刑の一撃を受け止めていた。硬質の激突音と同時に、異なる意志に統御される二振りのバス停が反発して光の粒子を撒き散らした。
「二人とも、無事かぴょん」
「無事じゃねー!」
「うむ、何よりだ。急いで立つぴょん。油断は禁物ぴょん」
「てんめえ……」
攻牙は跳ね起きる。
そして競り合う二人を見る。
タグトゥマダークのバス停が、今ようやく、姿を現していた。その看板部位には、タグトゥマダークの得物の真名が、克明に刻み込まれている。
『こぶた幼稚園前』。
攻牙は思わず脱力して倒れ伏した。
いいけどさ!
別にどのバス停を使おうがいいけどさ!
次に目に入ったのは、敵のバス停の握り方である。
基部のコンクリート塊を先端に据えて振り回す握り方を「逆持ち」と言うらしいが、タグトゥマダークの握り方は「逆手持ち」とも言うべきものだ。コンクリート塊のすぐ近くを持ち、小指側から刃となる看板が伸びている。
バス停を持つ拳が地面に向く形で、振り下ろしていた。
「せいッ!」
〈BUS〉の光が激発する。
篤が力任せにバス停を押し込み、相手を突き飛ばしたのだ。
しかし、
「ふむ……やっぱり力比べじゃかなわないニャン」
体制を微塵も崩すことなく、タグトゥマダークは着地する。
血塗れの篤は、据わった眼でそれを見ている。
「今……何をしようとした……」
重い声で、篤は問いかける。
「え? はぁ? 僕なんかやったかニャン? 気のせいじゃないかニャン?」
瞬間、その双眸がカッと引き剥かれた。
「何をしようとしたのかと聞いている!!」
一喝。
空気が帯電したように震えた。
「……不愉快だニャン」
タグトゥマダークは眉間に皺を寄せた。
「下位者の裏切りを処断するのになんでキミごときの了解を得なけりゃならないんだニャン? 弁えろよ学生クン」
「よくわかったぴょん」
「へえ、そりゃ何よりだニャン」
「……貴様が恐るに足らん匹夫であるということがな」
二人は険悪などというレベルを超えた視線を交し合う。
「あんまりナメた口聞いてると楽に死ねないニャン?」
「問題ないぴょん」
篤はバス停を構えた。
「部下の諫言を裏切りとしか認識できない卑小な男に、負ける気はしないぴょん」
●
――憎悪とは。
タグトゥマダークは、第九級バス停『こぶた幼稚園前』を握り締めながら、思った。
――憎悪とは、変革の力だ。
己の体が、内側から作り変えられてゆくかのような錯覚を味わう。
まったく身に覚えのない、強力にして清爽な意志の奔流だ。
それが、タグトゥマダークの四肢に常ならぬ力を与えていた。
だが、当の本人は、その恩恵に違和感と不快感しか抱けなかった。
――僕を支えてきたのは、憎悪の力だ。
――いつだって、憎しみの力で、夢月ちゃんを守ってきた。
組織に入る前から。バス停使いになるより前から。
ただの無力な子供であったころから。
貧乏とか賠償金とか酒浸りとか節くれだった拳とかなぜか消えてる上履きとかヒステリックな悲鳴とか学校の便器の味とか陰口とか、その他いろいろな醜いものから、妹を守るために。
――僕は、憎悪を選んだ。
いやいや。不幸自慢は趣味じゃない。
ただ、絶望ではダメだった。うまく利用すれば凄まじくえげつないマネができたのかもしれないが――恐らく、自分は、絶望を御せる器ではない。手首に残る無数の傷が、それを証明している。
――で、あるわけだから。
タグトゥマダークは、いつしか憎悪にどっぷりと依存していたのだ。頭から爪先まで、ことごとく。自分と夢月へ陰惨な悪意を浴びせてきたカスどもに、生まれてきたことを後悔させるために。
だからこそ、今の自分の状態には違和感を感じていた。
この、腹の底から湧き上がってくる、なんだかよくわからない力。
勇壮な活力。
これは、憎悪なのか?
タグトゥマダークの本能は、この問いに否と応える。
この力は、憎悪にしてはあまりにも澄み渡っている。
勇気などという唾棄すべきものが、体の中に漲ってゆく。血液の中に熱く溶けた鉄を流し込まれたような、この感覚。
総身に、迷いのない力が宿る。まったく身に覚えのない力が。
――クソくらえだ。
タグトゥマダークは、体の中に残る憎悪を奮い立たせた。
――僕が力を得たのは、自分が高みに至るためじゃない。
心なしか尖ってきた歯を軋らせ、目の前の少年を睨みつける。
諏訪原篤。存在自体がタグトゥマダークを否定しつくす、人の形をした覚悟。
――自分以外の全てを、自分より下に引きずりおろすためだ。
こんな、綺麗で健全な力はいらない。全てを壊し、汚し、貶め、そして最後には自分も一緒に沈んでゆくのだ。後に残るのは夢月だけで良い。
――あぁ……夢月ちゃん。
――僕は勝つよ。君のためじゃない。君を守りたいという、僕の滴る欲望のために。
体中の、殺戮の螺子が、きりきりと巻き上げられる。雄々しい精神の力を、ぎちぎちと締め上げる。
そして、思う。
――いつからだ?
いつから自分は、こんな愚にもつかない鮮烈でまっすぐな精神に汚染されてしまったのだ?
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