かいぶつのうまれたひ +コミュニケーション感謝ぱっく
帰りのバスに揺られながら、篤は物憂げな様子で外の景色を眺めている。
脳裏には、ふつふつと取り留めのない思考が去来している。
今までのこと、これからのこと、自分がウサギになると知ったら霧華はどんな顔をするだろうかということ、あとウサ耳だと頭が洗いにくくなるなぁということ。
そして、タグトゥマダークのこと。
あの男も、自らの運命を知っているのだろうか?
数多くの人間がひしめくこの世界で、自分と彼だけが獣化しつつあるということに、何か意味があるのだろうか?
どこか、対比のような構図を感ずる。
そして、想像する。タグトゥマダークが、ネコ耳を生やしたところを。
「うグッ……」
なんかこう、こみあげてきた。グラシャラボラス的衝動が。
――想像以上に、不愉快な心象だ。
別段ネコ耳そのものが醜いわけではない。子猫のたーくんは大変かわいらしい生き物だと篤も思う。しかし、その耳がよりにもよってあの男についているという事実には、冒涜的なものを感じる。この世の美なるものへの冒涜だ。
――死にたい! 死のう!
フラッシュバックのように、その声が蘇る。
つばを飲み込んで、吐き気を押し戻す。
「篤くん」
隣の席にいた勤が、声をかけてきた。
「ぴょん?」
「いや、『ぴょん?』って……」
気を取り直すように咳払い。
「実は、みんなの前では言っていなかったことなんだけど……」
「なんですぴょん?」
どことなく躊躇うような勤の口調に、篤は振り返る。
なんとも言いがたい苦みばしった表情だった。
「霧沙希藍浬という子のことだ」
「霧沙希がどうかしたんですかぴょん?」
「彼女は、その、《楔》の場所を知っているんじゃないのかい?」
「……おっしゃっている意味がよくわからないのですぴょん」
「いや、ただの憶測なんだけどさ。話を総合すると、彼女があの猫と兎を拾った瞬間、君とタグトゥマダークという人に獣耳が生え出したんだろう?」
「正確な時刻はわかりませんが、その可能性は高いと思いますぴょん」
篤は、思い出す。
――そういえば、《楔》についての話が出てから、藍浬は妙に口数が少なかった。
「じゃあ……もう、答えは出てるんじゃないかな」
沈黙が、二人を包み込んだ。
電信柱の影が、断続的に通り過ぎてゆく。
バスは、開けた田園地帯に差し掛かっていた。
篤は、窓の外に眼を向けた。
「勤さん」
「う、うん」
「夕陽が綺麗ですぴょん」
「……そ、そうだね」
「夜になれば、月明かりが闇の底を青く浮かび上がらせますぴょん」
「うん」
「……俺は、美しいものが好きですぴょん」
「うん、知っている」
「友誼や、信頼といったものも、美しいと思いますぴょん」
「うんうん」
「勤さんは、どう思われますかぴょん?」
篤は、再び勤に眼を向けた。透徹した眼差しだった。
両手を挙げながら、ため息をつく勤。
「……わかったよ。君の好きなようにするといい。上へはひとまず報告しないでおく」
「ありがとう、ございますぴょん」
バスが、『亀山前』に到着した。
●
翌日、いつもよりかなり早く(具体的には朝の四時)家を出た篤は、校門前で腕を組んで佇んでいた。
すでに二時間近く立ちっぱなしである。
この時間に登校してくるのは、運動部の朝練に参加する生徒のみなので、ほとんど人気はない。
――霧沙希は、毎日かなり早い時間に登校してくる。
彼女曰く、誰もいない教室に差し込む朝陽はとても詩的……とのこと。
確かに、なかなか、悪くない。
涼しく澄んだ空気と、その中に溶け込む陽光。反射して煌めく草木。こんな時間でも、どこかでニイニイゼミが鳴いていた。
まだ損なわれてはいない、夏の日の匂い。
――おぉ、その素朴なる花鳥風月よ。
これからは、毎日この時間に登校するつもりである。趣深いこの光景は、早起きのモチベーションという点で重要だ。
とにもかくにも、確認はしなければならない。霧沙希が今回のウサ耳事件に関与しているのかどうか、篤は確かめるために早起きをしたのである。
やがて。
「あら? 諏訪原くん、どうしたの?」
桜吹雪に揺れる鈴――その音色のような声がした。
「霧沙希か」
すでにかなり前から、涼しげな気配が歩み寄ってくるのは察知していた。
艶やかに揺れる黒髪。ふくふくとした笑み。
盛夏だというのに、彼女の周囲だけ春の薫風が吹いている気がする。
「お前を待っていたぴょん」
事実、彼女が具体的に何時に登校してくるのかわからなかったので、篤は実に朝の四時半からここで立ちっぱなしであった。
藍浬の足が、止まった。
軽く眼を見開いている。
「え……っと……」
声に、多少の困惑が見て取れた。霧沙希にしては非常に珍しい反応である。
――これは、やはりそうなのか?
篤としては、今回のウサ耳騒動の原因を、即藍浬のせいだとは考えていなかった。が、この反応を見る限り、何らかの関係はあるのかもしれない。
「どうして?」
困ったように微笑みながら、そう探りを入れてくる。
「お前が知る必要はないぴょん」
「ええ……? ふふ、なにかしら。気になるなぁ」
とぼけているのか、それとも本当にわからないだけか。
どちらとも取れる表情である。
「お前はすでに、心当たりがあるのではないかぴょん?」
「よく、わからないけど……」
頬に手を当てる。心なしか、目が伏せられている。
隠し事のある人間は、他人と目を合わせたがらないものだ。これはやはり黒なのか。
――勤さんの言う通りに。
だが、それだけでは彼女が犯人だと断定するには弱い。
嘘をついている眼には、形而上の濁りがある。篤は、そういうものを見抜く動物的な感覚が優れていた。あっくんのように、種族も違えば言葉も通じぬ存在とすら分かり合えたのだ。霧沙希藍浬相手にそれができぬはずもない。眼は口ほどにものを言う――実際にはそれ以上だと篤は考える。
――もしも俺が、攻牙や鋼原ほども天才であれば、言葉から真実にたどり着くこともできたかも知れぬ。
だが、自分にはそんなことはできない。
――ならば致し方あるまい。
「霧沙希、俺を見るぴょん。眼を見るぴょん」
「ぇ……?」
「さすればお前が成すべきことは自ずと知れるぴょん」
「諏訪原くんを……見ればいいの?」
「うむ。俺の眼を見るのだぴょん」
「よくわからないけど、了解です」
大きな黒曜の瞳が、篤の眼にぴたりと合わされた。まっすぐで、清澄な視線。人の心の邪念を見透かして、その上で許すような、静かだが力強い眼力だ。
「うぅむ」
篤は思わず唸る。
いつか辿り着きたいと願う境地を、藍浬はごく自然に体現している。
「美しい……」
「えっ」
藍浬の頬に、さっと朱が差した。
その瞬間、
――むむっ、瞳に邪念が入った……!?
篤の気配センサーは、彼女の中に「動揺」と「秘密」の匂いを感じ取った。
「ふっ……馬脚をあらわしたな、霧沙希よ」
「えぇー……?」
「これからずっと、お前の近くにいることしたぴょん」
「す、諏訪原くん……っ? えっと、あの、本当に、どうしたの……?」
「そして毎日こうしてお前を見ることにしたぴょん」
「ま、毎日……?」
「うむ、毎日だぴょん」
ざわり、と。
周囲の空気が一変した。
喧しいニイニイゼミの鳴き声が、フッと消え去った。
花の香りが、涼しい風に乗って漂い始める。
早朝とはいえ汗ばむほどの気温だったのが、なぜか今は心地よい適温だ。
辺りの草木が、その枝葉の先で一斉に蕾を膨らませ、母を求める赤ん坊の手のように開花し始めた。早回しの映像じみた光景であった。
空を染める桜の並木。
地を彩る菜の花の絨毯。
ぽつぽつと控えめに灯る、タンポポやカタクリ、雪割草。
霧沙希藍浬を中心に、色彩豊かな世界が広がってゆく。温かく、ぼやけて、にじんだ世界。
奇妙なことに、遠くの山々や隣の小学校などは、夏の風景のままだ。異変は、彼女の周りに限定されている。
まるで、彼女の中で折りたたまれ静止していた春の時間が、一気に展開したかのように。
――これは……どうしたことだ……?
「からかわないでよ、もう……」
藍浬は、自分の両頬に手を当てて、拗ねたような、怒っているような、輝いているような、微妙な眼を向けてきた。
それから、藍浬は逃げるように駈け出した。
「あ、こら、待つぴょん」
遠ざかってゆく足音。
ともなって、急激に春の世界が閉じていった。
気温が上がり、セミの声が響き渡り、花々は最初からなかったかのように閉じていった。
幻惑的な春の色彩は、強い日差しを吸い込んだ深緑へと戻ってゆく。
夏の時間が、戻ってくる。
「ふぅむ」
篤は顎に手を当てて考える。
しかし約十秒の熟考の末わかったことといえば「考えてもわからない」ということだけだった。
と、その時。
「むっ……!?」
地面が、揺れ始めた。視界が軽くかき混ぜられる。草木がざわめき、ちらほらと葉が落ちてゆく。
不安を煽る、その律動。
だが、持続したのはほんの五秒ほどだった。ほどなく地震は収まり、常態を取り戻す。
「……うーむ」
とりあえず、藍浬を追いかけることにした。
●
「にゃふー、それじゃあ今度こそ諏訪原クンをブッ殺しにいってきますニャン」
タグトゥマダークは、相変わらず頭にタンポポ咲いていそうな笑顔で言った。
「いってらっしゃいませお兄さま。せいぜい失敗しないようにお気をつけ下さいね」
夢月が玄関先まで見送りに出てきてくれた。なかなかに珍しいことである。
「うん、がんばるニャン!」
――結局、ネコ耳について出来ることは、現時点では存在しないらしい。
ヴェステルダークが『禁龍峡』を見つけてどうにかするまでは、このまま語尾に「ニャン」をつけるという死にたくなるような生活を強いられるようだ。
タグトゥマダークは、息を吐きながら昨晩のことを思い出す。
帰ってきた射美には笑われるし撫でられるしプラスチックの猫じゃらしで遊ばれるし、ディルギスダークには「現代医学の敗北」とか「オタ文化への主体なき追従」とか「フィギュア萌え族」とかひどい言葉を散りばめた陰鬱なマシンガントークで精神的に追い詰められるしで、何度死のうと思ったことか。
しかしそれでも、最終的には気分が落ち着いた。
なんつってもヴェステルダークに任せておけばいずれ解決する問題なのだ。わりかし気は軽い。
「あぁ、でも私は正直心配ですわ……」
「ははは、夢月ちゃんは心配性だニャア。でもうれしいニャン」
夢月は頬に手を当てて、憂いに満ちた目を伏せる。
「お兄さまは道中でシオカメウズムシに捕食されないかしら……」
「どうしてそこでゾウリムシ扱いされなきゃならないのか全然わかんないニャン!」
「捕食されればいいのに……」
「願望になった!?」
夢月はそこで小さな肩をすくめた。
「はぁ、それでは戦に臨むにあたっての重要なアドバイスをひとつ」
「うん! うん!」
「首級が見苦しくなるので口は閉じておきなさい」
「うわぁい! 夢月ちゃんは本当に心づかいが細やかだニャア! 死にたい! 死のう!」
「それから……」
不意に、夢月は歩み寄ってくる。
「ん?」
「はい、これ」
手渡されたのは、神社で売ってそうなお守りであった。
「買いましたわ。安物ですが、身につけておいてくださいませ」
「あの、うれしいんだけど、これ交通安全のお守りだよね……?」
「あら、安産祈願のほうが良かったかしら?」
「何を生ませるつもりなの!?」
ひしっと。
唐突に、夢月はタグトゥマダークの胸元にしがみついた。
「ちゃんと、帰ってきてくださいね」
「……うん」
「夢月を一人にしないでくださいね」
「うん、大丈夫だニャ」
両腕で、そのあまりに小さな肩を包み込んだ。
温かかった。
●
ハイパーミニマム高校生であるところの嶄廷寺攻牙は、その日いつにも増して沈鬱な気持ちを抱えて登校していた。別段、いくら牛乳を痛☆飲しようが一向に成長する気配のない我が身を儚んでいたわけではなく、もっと別の事情であった。
「いやこれもうヤベーよこれマジやべーよ勉強してねえよ昨日も全然!」
「昨日の今日ですべきことを忘れるなんて、攻ちゃんはほんとうにオロカな生き物でごわすね♪」
「そういうお前はやったのかと言いたい!」
射美は目をそらした。
「……そーいえば昨日家に帰ったら、タグっちやっぱりネコ耳生えてたでごわすよ~。指でつっつくとパタパタ暴れて超キュートでごわした♪」
「ネコ耳で遊ぶあまりやってなかったんだな! すっかり忘れてやがったんだな!」
「攻ちゃん」
「あ?」
「真昼間の人気のない校舎って、なんかちょっといいと思うごわすねっ♪」
「若干ちょっと共感できる現実逃避やめろ! ボクは追試なんか受けたくねェーッ!」
校門をくぐり、下駄箱へ向かう。
と、その時。
こちらに向けて駆け寄ってくる足音がひとつ。
「あっ、霧沙希センパーイ♪」
射美が声を弾ませる。
黒髪を大きく揺らして駆け寄ってきたのは霧沙希藍浬だった。
珍しく息を乱し、胸元を押さえている。
「はぁっ、はぁっ」
二人の前にたどりつくと、膝に手をつきながら息も絶え絶えに言った。
「攻牙くん、鋼原さん、た、たすけてくれない……?」
攻牙と射美は顔を見合わせる。
「な、何があったでごわすか?」
「ついに敵襲かー!」
「ち、違うの……諏訪原くんが……」
「?」
――だっ、だっ、だっ、だっ……
異様なほど規則正しい足音が、近づいてくる。
「あ……追いつかれちゃう……」
さっと二人の後ろに隠れる藍浬。
「――ようやく追いついたぴょん。観念するぴょん」
落ち着いた声。
白いウサ耳をまぶしく揺らしながら、諏訪原篤がターミネーターT-1000のごとく突進してくる。
そして唖然としている攻牙と射美の前で立ち止まり、二人の背後にいる標的を冷静な視線で貫いた。
「さあ、出てくるぴょん。そして大人しく俺の眼を見るぴょん」
「お前はいきなり何を言ってるんだ」
篤は攻牙に眼を向け、鼻を鳴らした。
「攻牙、そこをどいてほしいぴょん。俺は常に霧沙希を視界に納めていなければならぬぴょん」
「な、なんでだよ」
「一言で言うと、眼と眼で通じ合うためだぴょん」
攻牙は頭を抱えた。
「病院! もうこれ病院行こう! いいから! 病院!」
「落ち着くぴょん。俺は乱心してはおらぬぴょん」
「ひとかけらも説得力がねえ!」
と、そこで攻牙は肩をちょいちょいと引っ張られた。
振り向くと、射美が眼を輝かせている。
「まぁまぁ攻ちゃん。これはアレでごわすよ、スウィートな青春イベントという奴でごわすよ」
にゅふふ、と口に握った手を当ててほくそ笑む射美。
「いっやー、まさか諏訪原センパイがこんなセッキョク的なアプローチをするとは、いっやー、この海のイルミの目をもってしても見抜けなんだわーでごわすー!」
――リハクなめんなよコラー!
と攻牙は突っかかりたかったが、
「~~~~っ!」
背後から聞こえてくる変な声に気をとられた。
首を絞められたハムスターの悲鳴じみた声だった。
「え?」「う?」
射美と同時に背後を見る。
……藍浬が両手で顔を覆っていた。
「わ、わ、わた、わたっ」
うつむきながら、か細い声で。
「わたし、困る……かも……そんな……急に……」
「うむ、お前にも負担をかけるかもしれぬが、どうしても成さねばならぬのだぴょん」
篤はずいずいと歩み寄る。
その気迫に圧されて、攻牙と射美は思わず後ずさる。
「さあ、その顔を見せてくれぴょん。俺は霧沙希の心を知りたいのだぴょん」
篤は手を伸ばし、藍浬の細い手首を包み込んだ。
藍浬はぴくんと身を震わせ、ゆっくりと手を顔から離してゆく。
徐々にあらわになる
「や、やっぱり無理~っ」
篤の手を振り払うと、脱兎の勢いで走り去る。
「待つぴょん」
素早く腕を伸ばし、逃げようとする藍浬の肩をつかむ。
そのままぐいと引き寄せ、自分のほうへと向かせた。
両手が藍浬の両肩を捕らえる。
藍浬の背中が、下駄箱に押し付けられた。
「ま、待って諏訪原くん! これはちょっとおかしいわ。何がともいいがたいんだけど、何かがすごくおかしいと思います……!」
「もはやお前を放さないぴょん」
「勘違いしちゃう……そんなこと言われるとわたし勘違いしちゃうから……落ち着いて! きっとどこかですれ違いがあるんだと思うっ!」
「その通りだぴょん。だからこそこうやって、誤解や欺瞞なき関係を築く儀式を行うのだぴょん」
「……きゅう」
●
――この瞬間、紳相高校を中心とする半径一キロの範囲で、気候や植生その他の環境が一時的に春になるという不可解な超常現象が観測された。
超法規的秘密財団法人『神樹災害基金』の中枢機関は、この事実を厳粛に受け止め、大規模なお花見大会を決行することにした。
●
「アブソリュート☆斬殺タイム、はっじまっるニャーン!」
……その一撃をかわせたのは、ひとえに篤の『常住死身』たる信条ゆえであった。「生きるため、常に命を賭け続ける」ということ。それはすなわち二十四時間臨戦態勢を維持するということに他ならない。
「むぅ!」
瞬間的に藍浬を抱きしめると、横っ飛びにその場を離脱した。
閃光。
動体視力の限界を超える、フェムト時間単位での斬撃が、凄艶な弧月を描いた。
「は~ん? やっぱり思った通りだニャン! 諏訪原篤……キミは不意打ちが通用しないタイプの使い手みたいだニャン!」
――いずこか……?
篤は、今何らかの攻撃を受けたことは理解していた。だが、敵がどこからどんな攻撃を仕掛けてきたのか、まるで理解できなかった。何もない空間に、突如として斬撃だけが迸ったのだ。
「ああっ! タグっち! も~おダメでごわすよ~今いいところだったのに~!」
射美が上を見上げ、手を振り回しながら抗議する。
「やあ射美ちゃん! 諜報活動御苦労さまだニャン! だけどサムライ少年の首は僕がいただくニャ~ン!」
どこからともなく響いてくる、タグトゥマダークの声。
気配は、ある。すぐそばにいるのがわかる。だが位置は特定できない。
「さぁて、こんにちは諏訪原クン! 相変わらずウサ耳と仏頂面が合わなさ過ぎて精神的ブラクラだニャン! 前回は見苦しいところを見せちゃったニャン! リベンジマッチといきたいんだけど、僕の挑戦、受けてくれるかニャン!?」
躊躇いもなく「よかろう」と答えるには、あまりに危険な匂いのする相手であったが……
――異存はない。
篤は無言のまま重々しくうなずいた。
「グッド! そんじゃあ屋上にご招待だニャン! 最高のおもてなしを用意してるニャ~ン!」
そう言い残し、気配は遠ざかっていった。
しばしの沈黙。
やがて、攻牙が鼻を鳴らした。
「明らかに罠だな。悪役をやりなれてやがるぜあのイケメン野郎……」
そして楽しそ~ぉに笑った。
「『グッド!』に『ご招待』に『おもてなし』だと? 上等じゃねーかよオイ!」
いきりたつ攻牙の目前に、篤の腕が伸ばされる。通せんぼの形だった。
「……なんだよ」
篤はゆっくりと首を振った。ウサ耳が頭の上で揺れた。
「そ、そーでごわすよ。タグっちはマジで強いでごわすよ~攻ちゃんは下がってた方がいいでごわすよ~」
射美が横から攻牙の腕を掴む。眉尻は下がり、ちょっぴりマジな顔である。
攻牙は舌うちした。
「――超人的怪力。クレーターを作るほどの近接攻撃。エネルギー操作による遠隔攻撃。車に轢かれても傷一つ負わないバリアー。そしてそれらの原則にも当てはまらない超常能力――」
「こ、攻ちゃん……?」
「ナメてんじゃねーぞコラ。お前らバス停使いのスペックなんざとっくに学習済みだぜ」
頬を歪め、尖った歯を見せる。
「ボクが何のために試験勉強ほっぽりだして駆けずり回ったと思ってんだ!」
クックック……と含み笑いをする攻牙。
「学校中に仕掛けまくった対バス停使い用即死トラップの数々……火を噴く時がきたようだなあ……!」
「そ、そんなものをー!? ウソ、気付かなかったでごわす!」
「気付かれたら罠になんねーだろうがよ! ボクも屋上に行くぞ! 無力な一般市民扱いなんかお断りだぜ!」
「ううぅ!」
「篤! 文句はねーよな?」
返事はなかった。
「……あれ? 篤?」
篤はいなかった。
しゃがみ込んでプスプスと湯気を上げている藍浬がいただけだった。
●
――ずっと。
篤は階段を上りながら、自嘲していた。
――ずっと目を背けてきたのだ。
避け得ぬ宿命。絶対の敵対者。
そういうものは、存在する。
――愚かなことだ。
本質の是非ではなく、篤自身のエゴによって、否定せざるを得ない敵。
何が起ころうと、許してはならぬ敵。
――認めたくは、なかった。
悪は倒さねばならぬ……篤のシンプルな倫理観は、そう告げている。
だが、この胸の底から沸き上がってくる、冷たく引き攣れるような闘志は、それ以外の理由によるものだ。
――かの敵は、俺のありようを否定する。
だから、討とうとしているのだ。篤が殉じようとする「道」ではなく、さらに言うなら「正義」ですらなく、自分が否定されたくないがために、篤はタグトゥマダークと相対するのだ。
――嗚呼、本当に、認めたくはなかった。
自分を守るために、戦いたくはなかった。霧沙希藍浬のように、温かい微笑みですべてを受け入れたかった。本当の強者とは、何かを否定する必要がない者のことなのだ。
――だが、それは無理だ。
タグトゥマダークは、恐らく、生涯をかけて否定せねばならない相手なのだ。
――霧沙希よ、どうやら俺は、お前のようにはなれない。
その事実が、喩えようもなく、哀しかった。
やがて、屋上へと通ずるドアが、目の前に出現した。
力を込めて歩みを進める。
――俺は、ネコ耳を、許せない。
扉を、開ける。
――やはり、似ている。
夏の空の下、フェンスの上に悠然と立つタグトゥマダークの姿を見た瞬間、篤はそう思った。
しなやかな痩身。長い手足。色素の薄い髪。そしてネコ耳。
顔立ちも背格好も特に共通点はなかったが、その佇まいにはどこか、死への意思を感ずる。
何らかの理由で、死に魅入られた者の立ち振る舞い。
まるで鏡を見ているかのような、親近感と嫌悪感。
そう、似ているのだ。篤とあっくんが似ているのと同じ程度に、篤とタグトゥマダークは似ている。
だからこそ、許せない。
「うぇええるか~む! 待って~たニャ~ン!」
タグトゥマダークは、ゆくりと振り向いた。満面の笑み。
眼が合う。空気が、ドロリと濁る。
「一人で来るとは感心だニャン! 武士道ってやつかニャン!? 超シブいニャーン!」
足首だけの力で軽く跳躍し、宙返りしながら床に降り立つ。
着地の際に音も立てない、羽毛のような動き。
同時に、頭のネコ耳がぴょこんとお辞儀する。
篤は、奥歯をかみ締める。
「――おぞましきかな、猫の化生。俺は何故か自分でもわからぬが、そのネコ耳をどうしても許せなくなったぴょん」
「へえ、そうニャン? 僕はキミの耳は嫌いじゃないけど、君自身は大嫌いだニャン」
亀裂のような笑みを浮かべるタグトゥマダーク。
「先にバス停を抜くといいニャン」
片足に体重をかけ、顔を傾ける。隙だらけの姿態。
「予言しておくニャン。戦いが始まったら、五秒以内にキミは地に膝をつくニャン」
――五秒、か。
篤はどっしりと腰を落とし、右腕をゆっくりと横に伸ばした。前回のように、バス停を引き抜く手を押さえられることがないよう、間合いを確保している。
――充分だ。
「顎門を開け――『姫川病院前』!」
腕が界面下に潜り込み、強壮に唸る鋼の巨鎚を握り締めた。
青白く迸る電撃とともに、バス停を一気に引き抜く。荒れ狂う大気に、髪や衣服が暴れまわった。心地よい重量感が、腕に宿る。
篤はタグトゥマダークを正面から睨み付ける。
「――我流、諏訪原篤だぴょん」
口の端を吊り上げ、タグトゥマダークは応える。
「虚停流皆伝、タグトゥマダークだニャン」
名乗りを終えて。
――いざ、尋常に。
「ニャァァァァァァンッ!」
「ぴょぉぉぉぉぉぉんッ!」
かくて、ウサ耳とネコ耳の死闘が、はじまった。
――直後、篤の胸から、血煙が吹き上がった。
「がッ……!?」
よろめきながら一歩二歩と後退り、片膝をつく。
「――あはは、一秒で片付いちゃったニャン」
背後から、タグトゥマダークの笑い声が聞こえた。
まるで、子供の失敗シーン満載なホームビデオを見ているような笑いだった。
●
「無音即時召喚……?」
「タグっちは、射美やゾンちゃんやディルさんとはちがうでごわす。ちゃんとしたおシショーさんについてって、キチッとしたバス停のあつかい方を習った人でごわす」
「だったらなんだってんだよ」
「バス停を呼び出すのに、いちいち召還文句なんか言う必要がないのでごわす。出ろと念じたときにはもう出ているでごわす」
「それは……」
攻牙は一瞬で、無音即時召喚という特質がもたらす戦闘への利便性を考える。
「……ヤバいな」
「そう、ヤバいんでごわす。ヤバヤバでごわす。たぶん諏訪原センパイは何もできないでごわす」
「ボクにそんなことを言ってお前はどうしてほしいんだよ」
「タグっちに掛けあって、諏訪原センパイを死なせない方向で決着をつけてもらうつもりでごわす。だから攻ちゃんはその間に逃げて欲しいでごわす」
「お断りだな」
躊躇なく即答。
「……どーあっても諏訪原センパイを助けに行くつもりでごわすか」
「ボクには思想も信念もねえけどな……それでも死の危険くらいじゃ止まってやらねえよ」
攻牙は踵を返し、駆け出す。
……駆け出そうとして、後ろから肩を掴まれた。
「どーも忘れられてるみたいでごわすけど、射美はタグっちの味方でごわす。それに攻ちゃんは一見ただのショタっ子だけど、実はそうじゃないカンジでごわす。常識で考えてタグっちほどのバス停使いに一般人がなんかできるとは思えないけど、攻ちゃんはなんかやりそうでごわす」
攻牙は、ゆっくりと、振り返った。
「ふふん。それで? 止めるのか? 力ずくで?」
「口で言ってもどーしよーもないカンジでごわす。しょうがないでごわす」
射美は口を引き結んでいる。
細い腕を頭上に伸ばし、叫んだ。
「
眩い光が降り注ぐ。
「いいぜ来いよ! リターンマッチと行こうじゃねえか!」
肉食性の笑みを宿す攻牙。
この場に仕掛けた罠の数々を、脳内で瞬時にリストアップする。
●
――いかん。
胸を走る、重い痺れ。触れてみると、赤くて熱い液体がべっとりと掌を汚した。
横一文字に、掻っ捌かれている。
すぐに後ろを向き、敵を視界に収めた。
「さて……」
タグトゥマダークの踵は、アウトボクサーのようにゆるやかなステップを踏み始める。その手には、バス停などない。完全に手ぶらだ。
バス停もなしにどうやってこの傷をつけたのか。どうやって背後に回ったのか。
いや――
そんなことはどうでもよい。
今の攻撃に、殺気どころか攻撃の意志すら感じ取れなかったのは、何故か。
篤は、殺気を読める。意図的に
にも関わらず。
今の一撃には、またく何の意志も感情もなかった。……読めなかったのだ。
「今の一瞬で、キミの脳裏にはいくつかの疑問が芽生えたかと思うニャン」
「むぅっ」
タグトゥマダークは悠々としたフットワークで間合いを詰め始める。
まっすぐではなく、横に回りこむような動きだ。時折自身も回転しながら、ゆったりとした動作で――その実不気味なまでに素早く――篤の周りを巡る。まるで、さまざまな角度から隙を探すように。
「普通は何も言わずに瞬殺するトコなんだけど……キミは何だかボクと似た匂いがするニャ。もうちょっと遊びたくなったんだニャン」
円を描くように、篤の周囲を舞い進む。
「悠長だぴょん。それは油断と余裕を取り違えて破滅する者の言説だぴょん」
「ハハ、そうかもしれないニャン。でも諏訪原くん、キミを見ていると、それもいいかななんて考えてしまうんだニャン」
子供のように、無垢な笑みを浮かべて。
「まるではじめて会った気がしないニャン。鏡を見ているような気分だニャン。最高に最悪な気分だニャン」
それはいつしか、冷たい嘲笑と化す。
「きっと僕たちは、生まれた時から殺しあう運命だったんだニャン」
ぎょるっ、と音を立てて、眼が見開かれた。
……その瞳孔は、縦に鋭く裂けていた。
猫の妖眼。
捕食者の眼差し。
「さあ、いい加減反撃のアイディアは閃いたかニャン? 僕をガッカリさせないでほしいニャン」
身を低くして、彼は床を蹴る。地を這うような低姿勢で突進する。
轟音は立たない。コンクリートが砕けもしない。
だがそれは、内力操作系バス停使いの驚異的脚力が、損耗なく推進力に変換されているということだけを意味する。
その証拠に、瞬きほどの間隙もなく、間合いがゼロとなる。
「むっ――」
来るべき攻撃に備え、篤は『姫川病院前』を構える。
構えようとするその腕が――唐突に血を吹き上げる。
「むむっ!?」
――まただ!
殺意なき、斬撃。
読めない太刀筋。
明らかにおかしい。攻撃をする瞬間にすら何の殺意も漏出しないなど、この男が人形でもない限りありえない。
「ははッ! 混乱してるニャン!?」
――ッ!?
その瞬間、まったく唐突に、殺意が迸った。篤の意識に、はっきりと加害の意志が感じ取られた。
滅紫の斬閃が迸る。
火花が咲き散る。
反射的に掲げた『姫川病院前』が、一撃を打ち払ったのだ。
防御、成功。
しかしギリギリだ。今の一撃は殺意の漏洩があったおかげで先んじて対応できたが、かつて闘ったどの相手よりも速く、鋭く、精確な一撃だった。もう一度同じように防げと言われても、確実にできるとはとても思えない。
だが、そんなことよりも――
タグトゥマダークは軽やかに宙転し、間合いを取る。薄笑いが、消えていない。
バス停も、持っていない。
――どういう、ことだ……?
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