かいぶつのうまれたひ イノセントフィナーレ

 タグトゥマダークは〈惨聖頌〉を振りぬき、怖気のように襲いかかるであろう快楽を待った。

 はたして諏訪原篤は、どんな声で哭いてくれるのだろう。

 どんな音色で狂ってくれるんだろう。

 どんな匂いのクソを垂らすんだろう。

 あぁ――早く。

「――覚悟とは」

 ――早く。

「捨て身の玉砕にあらず」

 ――早……く……・?

 タグトゥマダークは、左の後方から聞こえてくる不愉快な声を、ようやく認識した。

 瞳孔が、収縮する。

「それは現世での責任を逃れるための方便に過ぎない」

 弾かれたように左を向く。

「――覚悟とは」

 自分の振りぬいたバス停。

 その先に。

「たとえ天地の理を覆そうとも目的を達する決意である」

 ――佇んでいた。

 刃の上で。

 悠然と。

「死ぬ気で生き残る。生きて責任を果たす。その心こそが、魂に咲く華である」

 その脚は、奇妙に曲がっていた。

 人間の脚には、本来一つしか間接がないはずである。

 だが、今、篤の脚には二つの間接が存在していた。

 尋常な膝関節と、その下にある逆向きの間接。

 そこまで見て取った瞬間、タグトゥマダークは、自分がいま敗北を突き付けられていることを悟った。

 ――僕と、同じか――!

「たとえこの身がどう変わろうと」

 タグトゥマダークが猫化していったように。

 諏訪原篤もまた変異を果たした。

 ただし、変化する部位を、篤は自分の意志で決定したという点で、自分とは果てしなく食い違っていた。

「ただひとすじの美しき道」

 ゆっくりと――現実には恐ろしいまでの速度で――篤は己の得物を振り上げた。

「……ぎ……!」

「見失わぬ限り憂いなし……!」

 紅く凄愴な眼が、タグトゥマダークの胸を射抜いた。

 裂帛が大気を引き毟り、純粋な衝撃となって顔面を叩く。

「滅却せよ! 彼我なりし怯懦!」

 振り下ろす。

 打ち下ろす。


「覇停・神裂!!」


 白く、淡く、穏やかな光が、タグトゥマダークの眼球を侵した。


 ●


 それは、爆発ではなかった。

 エネルギーのベクトルとしてはむしろ逆――収縮である。

 周囲の地脈に内在する〈BUS〉が、着弾の瞬間、打撃点に向けて一斉に殺到。

 そこで、物理的な熱量としての振る舞いをやめ、ちょうど特殊操作系能力のように、概念的な意味へと姿を変える。

「貴様の歪みし絆、断ち切らせてもらった」

 その意味とは。

「あ……」

 タグトゥマダークが、呆然と声を漏らす。

 消えゆく己のバス停を前に、成すすべもなく声を漏らす。

 『こぶた幼稚園前』は、黒い〈BUS〉を脱ぎ去り、溶けるように消えてゆく。

 本来存在しているであろう、こぶた幼稚園の前へと戻ってゆく。

 ――契約の、破却。

 バス停使いとバス停の絆を、完全になかったことにする。

 それこそが、「覇停・神裂」の威力。

「あ……あ……」

「もはやお前の得物はお前の手を離れた。二度とお前の呼び掛けには応じない」

「な、に……ぃ……?」

 愕然と、バス停の消え去った己の手を見るタグトゥマダーク。

 その前に、篤は膝をついた。

 眼の高さが等しくなる。

「これは、即興だ」

 タグトゥマダークは答えない。こちらを見もしない。

「脚に兎の力を宿らしむる方法も、神裂という技も、俺には直前までまったく思いもよらない事柄であった」

 かまわず篤は、言葉を続ける。

「お前の死閃を間近まで感じた時、俺の心はかつてないほど研ぎ澄まされ、考えるまでもなく『道』が見えた」

 タグトゥマダークの顔が、ゆっくりと持ちあがる。

「『常住死身』とはそういうことだ。死を以て生を鍛える『道』だ」

 視線が、合わさる。

 兎の紅眼と、猫の妖眼。

「――これが俺だ。俺の生き方だ」

 静かに、そう言う。

 タグトゥマダークの顔が、一瞬引き歪んだ。

「黙れ……っ」

 瞬時に立ちあがり、そのまま五メートルほど飛び退る。

「認めるよ……あぁ認めるさ! 僕の負けだ」

 食いしばった歯が、軋んだ。

「だけど……これはキミの力と判断に負けたんだ」

 その妖眼にかつての余裕はなく、ただ不安定に揺れていた。

「キミの生き方に負けたんじゃ、ない……!」

 瞬間、タグトゥマダークの背後の空間に、裂け目が現れた。

「……! 待て!」

 届かぬとわかっていながら手を伸ばす。

 青年の体が、裂け目の中へと飛び込んだ。

 即座に界面下への入り口は閉じる。

 捨て台詞すら残さずに、タグトゥマダークは目の前から消えて失せた。

「逃がしたか……」

 忸怩たる思いが、篤の眉をひそませる。

「まあしょうがねーわな。あんな能力があるんじゃふんじばっとくわけにもいかねえだろーし」

 攻牙が横に立った。

「……それでも、どうにかして捕えたかった」

 重い石を吐き出すように、篤は息をついた。

 攻牙は軽く目を見開いて篤を見た。

「っておい篤お前語尾はどうした」

「む……」

 篤は、初めてそのことに思い当った。そういえば自分はさっきから「ぴょん」と言っていない。

「戻っているな。原因は不明だが……」

 自らの顎を掴み、目を伏せる。

「そうか、戻ったか……」

「何を寂しそうな眼をしてるんだよお前は!」

「寂しくは、ないさ。俺の胸の中で生きている」

「やめろその誰か死んだみたいな言い方!」

 篤は肩をすくめる。

「諏訪原くん!」

 呼びかけに振り返ると、藍浬がこちらに駆け寄ってきていた。

「霧沙希か……怪我はないか?」

「それはこっちの台詞! 血まみれじゃない!」

 言われて篤は、自らの四肢を見下ろす。

「むむ……」

 結構な深手を全身に負っていた。よくもまあ今まで体が動いたものである。

 ゾンネルダークの時よりも、さらにひどい。

「まあ、あの男に勝利するためには必要最小限の犠牲と言え……よう……」

 ぐらりと体が傾ぐ。

「あっ」

 藍浬が慌てて篤の腕を掴む。

「む、すまん……」

「諏訪原くん……聞いて……」

 目尻に透明な雫を湛えながら、藍浬は篤の脇に体を入れ、その姿勢を支えた。

「血で汚れるぞ霧沙希。大丈夫だ、一人で立て……る」

 彼女は大きく首を振った。

「聞いて、諏訪原くん。タグトゥマダークさんとわたしは、小さいころに近所に住んでいたの。辰お兄ちゃんって呼んでてね、すごく、仲が良かったわ」

「……そのようだな」

「それから、わたしはね、あっくんとたーくんを拾った時に、思ったわ」

「……?」

「あぁ、可愛いな……って。この子たちは誰かに似ているな……って」

 穏やかに世界を見続ける子兎と、泣き虫で寂しがりやな子猫。

 それらは、彼女の記憶にある二人の人間を思い起こさせたのか。

「この子たちが、諏訪原くんや、辰お兄ちゃんだったらな……そうならば、ずっと毎日一緒にいられるのにな……なんて。そんな勝手なことを、思ったの……思って、しまったの」

 それは、つまり、どういうことか?

「ごめん、なさい……こうなったのは全部わたしのせいです……」

 ぎゅっと篤の腕を抱きしめ、額を押し付けた。

「もう、大丈夫だから。わたし、もう揺らがないから。こんなことは、もう起こさないから」

「霧沙希」

「……だから、戻って諏訪原くん……!」

 藍浬がそう言った瞬間、にゅるんっ! という妙な音がした。

「うぉっ!」

 空気を読んで黙っていた攻牙が、思わず声を上げる。

 篤のウサ耳やウサ脚やウサ眼が、一斉に変化したのだ。

「おおう……」

 唐突に変異した脚の構造ゆえ、バランスを崩しかける篤。

 藍浬に支えられながら、篤は自分の体を眺める。

 五体全てが人間に戻っていた。

 頭に手をやると、ウサ耳も消えていた。

「むむむ、消えてしまったか……」

 同時に、全身の傷が、かすり傷程度にまで小さく浅くなっていた。

 さすがに失った血までは元に戻らなかったせいか、頭はボ~っとするものの、さっきまで体を責め苛んでいた痛みは嘘のように鳴りを潜めている。

 不思議な力で傷が癒えたというよりは、全身の肉体変異によって傷が掻き消された、と言ったほうが正確だ。

「神秘、だな」

 しみじみと、篤は呟いた。


 ●


 敗北感。

 それは乗り越えるか否かによって、意味合いが大きく変わってくる感情だ。

 乗り越えれば成長をもたらし、乗り越えなければ腐敗をもたらす。

 ――乗り越えてなど、やるものか……!

 タグトゥマダークは界面下空間を泳ぎながら、そう決意した。

 鋭く尖った牙を軋らせ、妖眼をすがめながら。

 まったく、今日はとんでもない厄日だった。

 ――何が『常住死身』だ。死ねばいい。

 生きるために死ぬという意味不明な信条は、どうしようもなくタグトゥマダークをイラつかせる。

 そんなに死にたきゃ死ねと言いたい。どうせ死ぬ気なんかないんだろ! 目立ちたいだけだろ!

 胸の中で、思いつく限りの罵倒を諏訪原篤へと浴びせかける。

 負けた自分をも貶める行いではあったが、タグトゥマダークはその自傷行為をむしろ嬉々として敢行した。

 だが。

 同時に、自らの腹の底で、闘志が滾っていることに気づく。

 危ういまでに薄く鋭い己のありようが、何か力強いエネルギーによって補強されてゆくかのようだ。

 ――まただ!

 闘いの最中にも感じた、この不愉快な高揚感。

 自分の心に宿るはずのない感情。

 ――何なんだよ!

 おかしい。今日の僕はおかしい。自分の心すら、思い通りにならない。

 まるで、自分の心ではないかのように。

 ……思い当たることは、ある。

 諏訪原篤。

 彼の生き様に影響を受けているという可能性。

 ――ッ!!

 その考えが浮かんだ瞬間、タグトゥマダークの体内を、黒紫色の憎悪が駆け巡った。

 体中の臓腑を焼け爛らせながら、この清澄な熱意を追い出そうと、荒れ狂った。

 ――負けるものか。

 鼻面に皺を寄せ、牙を剥きだして。

 ――負ける、ものか!


 ボロ借家にたどりつくと、タグトゥマダークは息をついた。

 憎しみに強張った顔を揉み解し、「優しい爽やかお兄さん」の仮面を取り繕う。

 ――もういい。どうでもいい。そんな精神的葛藤なんかどうでもいい。

 今大切なのは、夢月に泣きついて甘えることだけである。

 ――夢月ちゃんは、優しくて可愛いものだけ見ていればいい。僕の腐った本性なんか知らなくていい。

 ただひとりの肉親に、本音をさらけ出す勇気すらないのだ。その事実は、タグトゥマダークの魂に屈折と腐敗と快楽をもたらしていた。

 ――あぁ、夢月ちゃん、夢月ちゃん、夢月ちゃん!

 玄関を開け、靴を脱ぐ。

 ぎしぎし言う板張りの床を、足早に通過する。

 ――夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん……ッ!!

 甘えよう。ひたすらに甘えよう。甘えてダメになろう。優しいあの子はダメなお兄ちゃんでも受け入れてくれるに違いない。

 そうに違いない。

 ――夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃんむ夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃんむむ夢月ちゃん夢むつき月つきちゃん夢月つきつきちゃんむ、むむ夢月ちゃん夢月ちゃぁんッッ!

 そうでなければ、ならない。

 部屋の前に、たどり着く。

 襖に手を掛ける。

「夢月ちゃああああああああん!」

 叫びながら、中へと飛び込んだ。

 ――今行くよ! キミの胸の中へ!


 埃が、もうもうと吹き上がった。


 窓から差し込む日差しが、それを浮かび上がらせていた。

「……あ……?」

 《ブレーズ・パスカルの使徒》が支給した、さまざまな装備品が、雑然と積み重なっている。

 薄く、埃をかぶっている。

「……あ、あれ……?」

 天井の隅には蜘蛛の巣が張っていた。

 壁紙は所々破れ、木材が剥きだしになっている。

「……部屋……間違えた、かな……はは」

 耳鳴りがする。

 それは、心の奥底に封印されていた、恐るべき記憶かいぶつが、胎動する音に思えた。

「……ひ……」

 ひゃっくりのような声が出た。

 我知らず、後ずさっていた。

 耳鳴りが、強くなった。

「……ひ、ひ……」

 何かが、間違っていた。

 どこかで、間違っていた。

「……ひひ、ひひひっ……」

 ――それは、いつからだったのだろうか。

「ひひっ、ひはは、ひはっ……」

 ――いつから、僕は間違えていたのだろうか。

 歪んでゆく世界の中で、タグトゥマダークは口元を戦慄かせた。

「ひはっ、ひははははっ、はは、ひ、ひはっ」

 ――諏訪原篤と戦った時だろうか。

 ――彼を始めて眼にした時だったろうか。

「ははははははっははっははははははははっ」

 ――あるいは、《ブレーズ・パスカルの使徒》に入った時だろうか。

 ――それとも、師匠に拾われた時だったろうか。

 タグトゥマダークは乾いた声を上げ続けた。

 笑いというには何かが欠け、何かが余分だった。

「はは、ははは、はひっ、ひひっ! ひひは!」

 ――それとも。

「ひはははは! ひはは! ははぁはっはははっははっ!」

 ――もっと前。

 視界に、罅が入った。

 割れ目から、毒々しい血液が流れ出てきた。

「あははははははあっはハハっはっははっはっはははぁはぁはぁはひぃひひひっ!」


 ――夢月ちゃんが、死んだ時からだろうか。


「あっははっはっはははっひははひはひはひはぁーッあっひひひひッ!」

 砕けた。

 深紅の汚流が、襲い掛かってきた。

 獣のような声が、彼の喉を引き裂いた。

 世界は原型も留めぬまでに歪み切った。

 腕に異様な力が滾った。蛆虫のように蠢く指が、獲物を見つけたかのように突発的に動き、頭の肉ヒダに喰らい付いた。

 そのまま、床にくずおれ、うずくまった。

「……ひぃ……ひぃ……」

 体を丸め、頭を抱え、怯えきっていた。

 ぬるい汗が、肌を伝い落ちた。そろそろ日が昇りきる頃合だった。すでに真夏だった。外は晴れていた。強い光が窓から差し込んでいていた。耳鳴りがやかましかった。ここは薄暗かった。埃っぽかった。涙と涎が粘っこかった。耳鳴りがやかましかった。尻に当たる床が少し痛かった。寒かった。暑かった。どうしようもなく寒かった。ぬるい汗が全身を濡らした。手が震えていた。脚が震えていた。臓腑が震えていた。耳鳴りがやかましかった。

 独りだった。

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