第七話 エゴイストなりの覚悟

 外に出て、俺は携帯の画面をうつろに眺める。空音の記憶はまだ完全じゃない。


「はぁ……」

「どうした、ため息などいて。主人あるじがお前のことを思い出した、それは喜ぶべきことではないか」


 少し遅れて病院を出たロハムの影が、いつの間にか俺の影に重なっていた。


「そう、だな。……でも、やっぱりまだ足りない。なあ、ロハム。お前はこれからどうするつもりなんだ? 成長のために、周りの人の記憶を喰らうのか、それとも……」

「最初に言ったはずだ。共にハミィを倒そうと。その意志は今も揺らいではおらぬ。主人の求める記憶は、多くの人間が既に忘れてしまっているような些細ささいなものばかり。だからこそ、ハズレを引くことがない上に成長の効率も良い共喰いを、我は選ぶ」


 ロハムは微動だにせず、真っ直ぐにそう言い放つ。


「もし、仮にお前が喰われたら、空音はどうなる」

「どうもなりはしないさ……ただの現状維持。これ以上記憶が戻ることもない。だからこそ、我は生き残るためにも、お前を絶対に手放すつもりはない」

「……そうか、死んだりはしないんだな。それを聞いて、安心したよ」


 ハミィは記憶を求める誰かの声に応じて現れる怪物。それを倒すということは、誰かの戻るはずだった記憶を、その可能性を奪うことに他ならない。例え周囲の記憶を喰らわないとしても、どちらにしろ、ロハムの成長には必ず犠牲が必要になる。

 その犠牲を躊躇ためらってしまうような、偽善に塗れたヒーローを今更演じるつもりはない。大事な人以外を積極的に救うほど、俺はお人好しでもない。ただ、あいつに必要とされている。それだけで、理由としては十分だ。


「あ、もしもし」


 腹はもう既に決まっている。俺はまだ、空音の役に立てる。たったそれだけで、この世で生きる意味を、使命を見出せる。


『おい、お前! 何回かけたと思ってるんだ、ええ!? 上司の電話に出ないとは良いご身分だな』


 そのためなら他人も、自分でさえも、使えるものは全部使ってやる覚悟を、俺はようやく決めることが出来た。これで安心して、思いついた計画を実行に移せる。


「すみません、今日の仕事は出来そうにありません」

『は? お前、何を言って……』

「仕事机の中に、あなたに提出しなければいけない書類が入っているのをすっかり忘れていました。よろしかったら受け取ってください」


 電話越しに、俺の机を漁るような音が遠くで聞こえる。上司の慌てふためく様子が目に浮かび、思わず笑いを噛み殺した。


『おい、これ……冗談、だよな?』

「出来なきゃクビって言ったのはそっちですよ? 退職願くらい用意して当たり前でしょう。規則には詳しく書いてませんでしたし、有休も1ヶ月分くらいはありますし……それに、引き継ぐような仕事も特にはありませんし。今日から辞めるってのはやっぱり駄目ですか?」

『だ、駄目に決まってるだろう! こんな横暴が本気で許されるとでも……』

「じゃあ、労基にでも行って何とかするしかないですね。……違反の証拠だけは、山のように持ってますし」

『わかった! わかったから、それだけはやめてくれ……! 今度は俺がクビになっちまう』

「……話は以上です。では、失礼します」

『クソがっ! どうせ行くあてもないくせに、偉そうにしやがって! 後悔しても知らっ……』


 相手の返事を待つことなく、俺は電話を一方的に切った。心残りがあるとすれば、上司の悔しそうな顔をこの目で見られなかったことだろうか。今では、もはやどんな顔をしていたのかすら思い出せない。でも、それでいい。そう思えるほどに、俺の心は晴れ晴れとしていた。快晴の空から、爽やかな風が吹き抜ける。


「よいのか? 随分と思い切ったことをしたようだが」

「ああ、いいんだよ。というか、最初からこうすればよかったんだ。何でこんな簡単なことに、今まで気がつかなかったんだろう」

「ハミィを倒すには、まず各地を探しまわらなければならない。ハミィ同士、遠くては互いの存在を認識できないからな。つまり……」

「金か? 大丈夫、それなりにはあるよ。何せ、使う暇もなかったしな。それに、探し回る労力に関しても、節約する方法くらいはちゃんと考えてある。ずっと無職ってのも、イマイチ格好つかないだろ」

「方法……? 一体、何を」

「それは」


 振り返りざま、首を捻るロハムをチラリと見やり、俺は握りしめた携帯を見せつけるように小さく振って不敵に微笑ほほえんだ。


「……まあ、これからの、お楽しみってことで」




 時は数分 さかのぼり、病室の前、時雨の後を追おうと足を踏み出したロハムの服を、空音は弱々しく掴む。


「ロハム、さん。こんなこと、初めて会った人に伝えるのも悪いと思ってる。でも、時雨は……多分、意外と繊細でどこか危なっかしいところがあると思うの。自分でもよくわからない、思い出せないけど……何でも一人で抱え込んじゃって、笑顔の裏で泣くような、そんな感じがする。だから」


 その掴んだ手に心なしか力が入り、服のしわがより深くなった。


「友達として、あいつを支えてあげて欲しい。今のままの私じゃ出来ないことだから……。図々ずうずうしいお願いで、ごめんなさい」


 ロハムは固く握りしめられた手に、そっと自らの手を添える。そしてゆっくりと持ち上げ、その滑らかな手の甲に軽く口付けた。


「……それが、主人あるじの望みならば」

「あ、ある……え? え!?」


 思わず赤面する空音をベッドに残し、ロハムは何事もなかったかのように病室を出て行った。


「ふむ……。時雨の記憶の殻はまだまだ堅固けんごだが、確実に削れつつある。このままいけば……」


 静かな廊下で独りごち、ロハムはニヤリと笑みを浮かべた。嘘は一つも吐いてなどいない。ただ、もう一つの思惑を奥底に隠しているだけ。


「深層に沈むやつの記憶、それすなわち空音の記憶。きっとこの世のなによりも、甘美であるに違いない! ああ、その日が待ち遠しい……。おっと、ついよだれが」


 口元を慌てて拭いながら、ロハムは人目もはばからずに、自らの衝動に従って大きく舌なめずりをしたのだった。

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