第六話 成果と対価
「……戻ったのか? 記憶」
「ほんの少しだけ、ね」
空音は
「ここに来る前、車に轢かれたこととか……あとは、家族や友達のこともぼんやりだけど思い出した。昔のことはまだ全然だけど」
「……そっか」
よかった、と口を開きかけてふと思いとどまる。空音の、どこか憂いを帯びたその表情は、とても嬉しそうには見えなかった。
「そうだ、隣に入院してる人も記憶喪失なんだって……私と違って昔のことは覚えてるらしいけど。同じ事故に巻き込まれちゃったみたい」
ちょっと羨ましいかも、と彼女は呟いて自嘲する。頭の中で、励ましの
「……そういえば」
重い沈黙に耐えかねたのか、空音は俺の背後を指差してポツリと漏らす。
「その人、時雨の知り合い? それとも、私が忘れているだけで私の知り合い、かしら」
「え? ああ、こいつは、その……えっと」
「失礼、申し遅れた。我の名はロハム。時雨とは、そうだな……。目的を同じくする仲間、と言うべきか」
後ろから音もなく現れたロハムは、空音の前まで優雅に歩いたかと思うと片手を胸に当てうやうやしく頭を下げた。その流れるような動作に、空音も思わず目を見張る。
「えっと……仲間って、言うのは?」
「ああ、悪い! 友達って意味だよ、友達。こいつ、こういう小難しい言い回しが好きなんだよ……ほら、空音が中学生のとき書いてたヒーロー小説の主人公みたいな、ああいう感じ?」
一気にまくし立ててからハッとする。空音の記憶が不完全だと言うことを、つい先程聞いたばかりなのに……愚かにも、俺は致命的なミスを犯してしまった。その証拠に、心なしか彼女の顔は曇り、伏せられた目には寂しさが微かに宿っている。
「わ、悪い……そんなつもりじゃ」
「いいの。多分、きっとそのうち、思い出せるから。だから、そんなに気を使わないで」
「……ごめん」
再び流れる重苦しい空気。病室内、二人の間を、クーラーの風だけが冷たく通り過ぎていく。
——ピッ。
突如、静寂の中に響いた電子音。思わず反射的に振り返ると、備え付けのテレビをロハムが物珍しそうに弄っているところだった。
「おい、何やって……」
『——区で、一部の建物が突然倒壊し、現場は悲惨な有り様となっています。幸いにもケガ人はいないようですが、事故の影響で通行止めなども発生している模様です。また、再び崩れる危険もございますので、お出かけの際は十分ご注意ください。以上、速報でした』
「おっと、すまぬ。つい、手持ち無沙汰でな」
流れたニュースの映像には、明らかに俺達の戦闘の痕跡が残っていた。しかし、蟻のような化け物を見たという情報は今のところ耳に入ってこない。ロハムの言っていたことの正しさが思わぬ形で証明された瞬間だった。
「これ、さっきネットで見た。ここから結構近いのよね……ほら、このサイト」
空音はどこからか携帯を取り出し、その画面を俺の目の前へと突き出した。
「……いいのか? ここ病院だろ」
「いいに決まってるじゃない。個室だし、患者なんて私しかいないんだから」
それよりも、と彼女はその携帯を俺に手渡す。
画面を埋め尽くす文字の羅列。それはニュースサイトのようなきちんとしたホームページではなく、誰でも書き込み可能な娯楽サイト。俗に言う掲示板というやつだった。
「ちょっと覗いたら結構ハマっちゃってね、本当にいろんなことが書いてあって……そう、例えばさっきの原因不明な建物の倒壊が妖怪の
ブッと吹き出す音がテレビの雑音に混じる。見れば、ロハムがこちらに背を向け、必死に笑いを堪えていた。
「あのな……掲示板なんて嘘八百で出来てるようなものだぞ。まさか、本気で信じてはないよな?」
「馬鹿にしないでよ。私はその虚構を楽しんでいるだけ。案外、自分じゃ思いつかないような発想もあって勉強になるし……何より単純にロマンがあるでしょ? ほら、この漆黒の騎士の噂とか」
空音が指差す先にある書き込み。そこには確かに「建物の倒壊が起きた現場で、黒煙の中、
流れ落ちた冷や汗が、ポタリとその文面を滲ませる。どうやら倒したハミィ自体の記憶は消えても、変身した俺の存在はうっすらと残ってしまうらしい。
「どう、本当にいたらカッコいいと思わない?」
「……いたら、な。真面目に聞いて損したよ」
不服そうな空音に携帯を返し、そこでふと、自分の携帯の電源を切りっぱなしにしていたことを思い出した。一日ぶりに起動させると、いくつかの不在着信が目に入る。直近でかかってきたのは、ほんの数分前、それもあのクソ上司からだった。
「あー……そういえば今一応、仕事中だったっけ」
あれ、でも何の仕事だ? 出来なきゃクビって言われたのはいつだ、今日か? 頑張って頭を
「え、仕事があるのにサボって来てたわけ? 気持ちは嬉しいけど、怒られる前に早く戻ったほうが……」
「わかってる、わかってるって。今日はもう帰る。邪魔したな」
これ以上、空音に心配をかけまいと、俺は踵を返して病室の扉に手をかける。
「……時雨」
俺の足が、その呼びかけに反応しピタリと動きを止めた。
「無理は、しないでよ」
その温かく、そして残酷な言葉に俺は何も答えられず、ただ傷だらけの左手を翻してその場を去った。
隣の病室の前をよぎる瞬間、扉のほんの小さな隙間から、よれたスーツを片手に泣く包帯まみれの男の姿が、視界の隅に流れて消えた。
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