第四話 化け物との取引

「お前、我と共に『ハミィ』を倒さぬか」


 ロハムと名乗るその男は、血色のない手を差し伸べて確かにそう言った。


「ハミィ……? 何だよ、それ」


 その聞き慣れない単語に、俺は戸惑いつつも顔を上げる。


「そうか、まずはそこから話すべきだったな。どれ、場所を移そう。このもの、主人あるじの眠りを妨げてしまうやもしれぬ。ついてこい」


 ロハムはこちらを一瞥いちべつすることもなく、病室のドアから堂々と出て行ってしまった。涙で乱れたシャツを何とか整えながら、俺も慌ててその後を追う。


「ハミィとはすなわち、記憶を失いしものの欲求、渇望から生まれ落ちた、人の記憶を喰らう存在のことだ」

「記憶を、喰らう……? お前みたいに?」

「そうだ。主人——あの女が、失った記憶を強く求めたことにより生まれしハミィ、それが我だ」


 病院の、それも人もまばらな廊下でこんな話。側から見ればきっと、俺たちは精神病棟から抜け出した患者のようにでも映っているのだろう。あるいは遅すぎる中二病か。それでもロハムは、その現実離れした話をやめる気はないらしい。


「我々はいわば、主人のために働く奴隷なのだ。人の記憶を喰らい成長することで、主人の記憶も戻っていく。だからこそ、我は最初のにえとしてお前を選んだのだ。まぁ、その……失敗してしまったのだが」

「……美味しくなくて悪かったな。こちとら、ろくな人生歩んでないもんで」

「しかし逆に、それこそがお前に目をつけた理由でもある。不味い記憶というのはハミィにとっての毒、成長を妨げるばかりかむしろ弱体化してしまう。そこで先ほどの提案だ」


 受付を早足で通り抜け、歩道に揺れる陽炎をものともせず、ロハムは常に一歩先を行く。

 カツカツと、目先で淡く光る革靴は一定のリズムを煉瓦道に刻んでいき、その足は不意にピタリと止まった。


「我を使え。そして、お前のその、ヘドロのようにこびりついた記憶をハミィに喰らわせろ」

「お前も、そのハミィなんだろ? 仲間とかじゃないのか……?」

「お前は同じ人間なら皆、仲間なのか? 違うだろう。少なくとも違うから、お前の記憶は毒なのだ。我も味見をしたからな、お前の考えはある程度わかる。忘れたがっていた嫌な記憶、過去……それらをお前の望み通りに取り払うことが出来るのだ。最高の提案だとは思わないか?」


 その通り、この提案は俺にとってメリットしかない。でも、だからこそ不自然なのだ。「自分を使え」とロハムは言ったが、実際に利用されているのは俺の記憶の方ではないだろうか。


「ちょっと、考えさせて……」


 くれないか、そう言おうと舌を引っ込めた瞬間だった。

 遠くの方で甲高い悲鳴が上がる。それが合図だと言わんばかりに人の波が次々と押し寄せ、取り残された俺の視界がひらける頃には、既に辺りは一変していた。


 まず視界に広がるのは人。沢山の、倒れ伏す人々。そしてその中をたった一人、悠々と歩くサラリーマン。その前で怯え、腰を抜かしているOL。


「どうやら、向こうからお出ましのようだ」


 ロハムの呟きが耳をかすめる。俺は目の前の非日常に釘付けで、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。

 サラリーマンの足が、胸が、全身が鎧を纏ったかのように変化していく。その黒光りした昆虫のような手はOLの頭を鷲掴みにし、軽々、空中へと持ち上げた。叫びは一瞬で消え、女はドサリと無造作に落とされる。掌に残る玉のような光を、その怪物はリンゴでも潰すかのように握りしめ、一人奇怪な笑い声を上げていた。


「あれが、ハミィ……なのか?」

「ああ、そうだ。……時間がない。早く我の提案に乗れ、後悔はさせぬぞ」


 これは、悪魔の、いや、化け物のささやきだ。わかっている。迷っている暇なんてないことくらい頭ではわかっている。けれど、手足は俺の命令を全く聞いちゃくれない。


『ねぇ時雨、実はね……この本の主人公、時雨がモデルなんだ』


 ふと空音の声が、この土壇場で何故か脳を駆け巡る。黒い怪物が、こちらにジリジリとにじり寄る。


『どんな逆境にも負けないヒーロー! どう、カッコいいでしょー! ……まぁ、フィクション、だけどね』


 ああ、その通りだよ。ヒーローなんてのは所詮しょせん、空想上の産物。現実の俺は、ただ全身の筋肉を強張らせるだけで精一杯だった。本当に、自分で自分が情けない。


「言い忘れていたが……ハミィは共喰いによっても成長する。つまり、お前は忘れたい記憶だけを忘れ、主人は思い出したい記憶を思い出せる」


 静寂の中、今度はしっかりと、ロハムの言葉が鼓膜に届いた。


 そうか、つまりこれは、提案ではなく取引だったんだ。俺も、ロハムも得をする。勿論、空音も。空音……空音、空音。

 あれほど身体を支配していた恐怖は、幼馴染への思いでいとも簡単に上書きされてしまった。なんだ、迷う必要なんて、これっぽっちもなかったのか。


「そういうのは最初に言ってくれよ、全く! ……でも上等、乗ったよ。俺は、お前を利用させてもらう」


 確かに、俺は皆を守るようなヒーローにはなれっこない。知らない人のために体を投げ出せるほど、俺はお人好しなんかじゃない。だけど俺は、空音のためなら善人でも悪人でも、何にだってなれる自信がある。

 利用くらい、いくらでもされてやる。


 全身を巡る血液は、いつの間にか俺の身体を呪縛から完全に解き放っていた。


「フッ……その言葉を、待っていたぞ。時雨」

「なんで、名前……まさかこれもか?」

「いいから手を出せ、奴が来る前にな」


 差し出された冷たい手が、俺の血の通った手と交差する。その瞬間、敵も味方も見えなくなるほどの黒煙が、周囲一帯に立ちこめた。


「……我も、せいぜい利用させてもらおう。取引は、これで成立だ」


 瞬間、風が吹いたかのように、煙は一気に薙ぎ払われた。いや、風ではない。俺の左手が、空気を裂いたのだ。何もかも、纏わりつくもの全てをこの手でぶっとばしてやる。


 深い霧は晴れ、再び日差しが、黒い怪物達を照らし出す。一人はただ黒く、鈍く光るありの化け物。そしてその眼前に佇むのは……。

 闇より暗く、深く、光一つ通さぬような漆黒。その揺蕩たゆたう炎のような禍々しい鎧に身を包んだ、もう一人の、化け物だった。

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