第三話 怪物へ捧ぐ痛み

「だから〜、俺はそんなこと頼んでないって言ってるだろ?」

「で、でも部長……昨日は、一日でやらなきゃクビだって」

「常識的に考えてもみろよ。そんな大量に持ってこられても、こっちのチェックが追いつかないの! ただでさえ他のやつらの仕事も見てやらねぇと駄目なんだから……ちょっとくらい頭使えよ、バーカ」

「……申し訳、ありません」


 睡眠不足でフラフラの体を必死に支えながら、俺は考えることをやめてひたすらに謝り続けた。何を言ったって言い訳になってしまうのなら、自らの下らないプライドなんて捨てて口をつぐむのが一番だ。求められているのは俺の意思ではなく、馬車馬のように働く都合の良いロボットなのだから。


「ハァ、いいよもう。謝罪はもう十分じゅうぶんだから、とっとと外回り行ってこい。えーと、黒……黒井」

「……黒木、です」

「チッ、口の減らないやつだなぁ……。お前の名前なんてどうでもいいだろうがよぉ! ほら、早く行け!」


 ふてぶてしく頬杖をつきながら、上司はハエでも払うかのように大げさに手を振り俺を追い出す。


「……なぁ、このデータってさ、俺どこまでやってたんだっけ」

「さぁ、覚えてねぇな。酒で記憶飛んじまったのかも……あれ、昨日、俺ら飲んだっけか?」


 出ていく寸前、なんでもない同僚達の話し声が、朦朧もうろうとする頭を僅かに揺さぶった。


 まとわりつく都会の喧騒に身を任せ、よろけながらも人の流れに従い進む。


「次のニュースです。今、全国で認知症や若年性アルツハイマーと見られる症状に陥る人が例年に比べて増加傾向にあることが国の調べにより分かっています。これを受けて厚生労働省は……」


 街頭テレビの真上から照りつける日差しは、一向に弱まる気配がない。それでも、額の汗を拭う気力すら、今の俺には残されていなかった。


「……あれ、ここ」


 無意識で足を運んだ先、そこは昨日訪れた病院だった。眠気により正常な思考を失った脳は、勝手に俺の体を幼馴染のもとへと引きずり込んでいく。


「失礼しまーす……」


 おぼつかない足取りで扉を開け、倒れ込むように病室へと入る。幼馴染はスヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立て、ベッドで熟睡しているところのようだった。


「なんだ、寝ちゃってるのか。夜更かし癖は相変わらずだな」


 そのほのかに色づいた頬に思わず手を伸ばす。震える指先が滑らかな肌に触れようとした、まさにその時だった。


『お前、このものの知り合いか?』


 不意に頭に響く声、体が一瞬にして強張る。


「な、んだ……今の。ハハッ、まさか幻聴か?」

『まぁ誰でもよい。我は我の役目を果たすまで』


 辺りを見回してもそれらしき姿はない。病室には、眠る幼馴染以外に俺一人のみ。にも関わらず、声は俺に語りかけることをやめようとしない。わけがわからない。俺はとうとう頭がおかしくなってしまったのか?


「お、お前は、一体……」


 反射的に口からこぼれたその問いに、姿なき謎の声は淡々と答えた。


『我の名はロハム。このものの記憶を取り戻すため、お前の記憶を喰わせてもらう』

「記憶……? どういうことだ、まさか俺の記憶で空音の記憶喪失が治るってのか!?」

『だから、そう言っている』


 本当に、そんな都合の良いことがあり得るのだろうか。いや、あり得ない。やはりこれは、俺の寝不足により生み出された幻に違いない。でも、それでももし、仮に本当だったとしたら……。俺はきっと、彼女に全てを捧げられる。


「……いいぜ、好きなだけ持っていけよ」

『ほう、物分かりが良くて助かるな。では遠慮なく……』


 どうせ自殺の一歩手前までいったんだ。全てを忘れて生まれ変われる上に彼女を救えるなら、これほど良いことはない。

 思えば、酷い人生だった。小学生の時に父親が死んでから母は働き詰め、その上貧乏で、家でも学校でも俺は常に孤独だった。

 いや、ただ一人、俺のそばにいつもいてくれた幼馴染、それが空音だったんだ。空音は、今も昔も、俺にとって唯一の光。クソみたいな俺の人生に灯る、たった一つの希望だ。

 脳に蔓延はびこる蜘蛛の巣が、取り払われたような爽快感。ごめんな、空音。でも俺はさ、今凄く……本当、人生で一番、幸せだよ。


不味まずい」

「……えっ?」


 脳内ではなく、頭上から降り注ぐ声に驚きそっと目を開ける。そこには、俺よりも少し背が高く、冷たい目をした男が、鼻にしわを寄せたたずんでいた。


「な……え……?」

「不味い、喰えぬ」


 あまりに突然の出来事に理解が追いつかない。急に現れた目の前の男、未だに残る数々の記憶……。不味い、って何だ? そもそも記憶を喰うって? ようやく理性を取り戻した脳が急激に回り始める。


「もしかしてお前が、さっきの……?」

「お前ではない。我の名は、ロハムだ」

「……マジか」


 男、ロハムは目にかかる髪をそっとかきあげ俺を見下ろす。瞬間、心臓が、ドクンと大きく跳ね上がる。


「お前の記憶は不味すぎる。嫌な記憶で固く覆われ、肝心の可食部は深層に沈み手を出すことすら叶わぬ」


 そうか、俺が忘れたいと思うような嫌な記憶では、彼女の思い出は戻らないのか。むしろ、邪魔になっているらしい。俺は結局、何の役にも立てない、ゴミクズのままってことか。


「……そうだよな、そうだ。何を舞い上がっていたんだろう、俺は。ずっとそうだ。俺はいつも、あいつに何もしてやれない。何も返せない。俺は、俺は!」

「まぁ待て、話は最後まで聞くが良い」


 男は、うずくまり情けなく涙を流す俺に向かって、そっと手を差し伸べる。そのてのひらは異様なまでに白く、人間であることすら疑わしい。それでも何故か、縋りつきたくなるような魔力がそこにはあった。


「お前、我と共に『ハミィ』を倒さぬか」

「……は?」


 その一言が、俺の運命を大きく揺るがすことになるなんて、この時は思いもしなかった。


 ハミィ……それは、のちに知る、俺がこれから立ち向かうことになる敵。またの名を、記憶喰らい。

 俺は、自分自身のエゴのため、訳もわからぬままその怪物の手を取った。

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